Flesh and Blood

Flesh and Blood

 今日の彼は冒険者というより、職人としてクリスタリウムを動き回っていた。もの作りも素材採集も、彼にとっては楽しい仕事であり趣味なのだ。
 製作したばかりのものを納品していると、それを受け取ったモイスはまじまじと製作物を見て呟いた。
「まったく、闇の戦士様は器用なものだねぇ。同郷の人たちも腕が立つ上に賢いし、『夜の民』や妖精たちと暮らしている人もいるじゃないか」
「俺はあそこまで賢くないし、魔法的な道具を作れるような技術はないよ」
「でも一番腕が立つのはあんただろう? それでこの職人技なんだ、散々努力もしたんだろうが、本当にすごいお人だよ」
 手放しの褒め言葉に苦笑し、彼は報酬を受けとる。原初世界でも褒め称えられることは多かったが、ノルヴラント――とりわけこのクリスタリウムでは、それが顕著に感じられた。
 元々この街をまとめあげる水晶公に対する敬愛も深い人々だ。この世界を救った者を相手にすれば、それに似た、あるいは匹敵するほどの尊敬の念を送ってくるのも仕方のないことなのだろう。
 彼は英雄である。数多の蛮神と戦ったことも、帝国と戦ってエオルゼアからかの国を退けた功績も、千年に及ぶ竜詩戦争に終止符を打ったことも、アジムステップで試練を乗り越え終節の合戦で活躍したことも、アラミゴとドマの解放に手を貸したことも、全て事実だ。
 そして仲間共々召喚されたからとはいえ、世界の枠を越え第一世界を救ったことも間違いない。
「是非また依頼を請けておくれ」
「ああ、しばらくお世話になると思う」
「そりゃ嬉しい話だ」
 モイスの横にいたエイリクルもそう笑った。まだ作ったことのないものもあるし、いくら英雄とはいえ金銭面は自分で働くことで工面している。仕事を斡旋してくれるのは彼にとってもありがたい話なのだ。
 モイスとエイリクル、更にその隣にいたシュー・ハンに手を振り、彼はミーン工芸館前を後にした。
 今日はずっと依頼で必要となるものの製作をしていたものだから、いつの間にか午睡にちょうど良い時間も過ぎ、空には茜色が差してきている。朝から依頼の受注、昼食を挟みつつ製作に没頭していた。作ったものも一つではないから、ほとんど一日潰れてしまったのも仕方のないことだ。
 さすがに今から何かをしようという気にはなれず、思考は自然と明日へと向いた。
 本来であれば暁の面々を原初世界に返す方法を探るべくあちこちを回るべきなのだろうが、ほかでもない当人たちや水晶公から「しばらく休んでくれ」と言われてしまっている。彼らの目を盗むことは難しくないが、あまり動き回るのも気が引けた。
 原初世界なら動き回っても文句は言われないが、あちらはあちらでタタルたちがいるし、そもそも暁の面々が倒れた時点で方々に頼っているのだ。新たな解決策が見つかれば連絡があるだろう。彼よりもずっとエーテルや魔法に詳しいプロフェッショナルたちなのだから、彼が出向いたところで相手に根を詰めさせることになりかねない。
 考え事をしながら、彼の足はゆるやかに人気の少ない場所へと向けられていた。複雑な構造のクリスタリウムだが、歩き回っていればなんとなく覚えていくものだ。日が傾いてきたためか、街の外れに向かう住民はなおのこと少ないようだった。夕食のことも考えなければならないが、彼には好都合である。
 人気のない高台で、紫の葉と白い地面、始まりの湖が広がるレイクランド方面を眺めながら、彼は手すりに凭れて息を吐いた。
 地図で照らし合わせてみると、ここクリスタリウムは原初世界でいうところのモードゥナの位置にある。クリスタルタワーがあったのはモードゥナだから、次元と時間を超えても位置までは変えなかったのだろう。次元と時間の二つを超えるために相当な技術が必要だったことは、内部に残されていたデータログを読めばすぐに知れた。位置を変える必要はなかったのだろうし、変えられる余裕はなかったのかもしれない。
 ここがモードゥナなのであれば、人々が始まりの湖と呼ぶあの大きな湖も、原初世界では銀泪湖にあたるのだろうか。銀泪湖といえばかの幻龍だが、果たしてこちらの世界にまで共に来ているのか。呼べば応えてくれるのかもしれないが、彼はその名を口に出すことなく瞼を閉じた。
 うつくしい世界だ。光の氾濫によって世界の九割を失って百年。罪喰いという脅威に立ち向かい続けた人々は、享楽を貪っていたとしても、壊れゆく運命に反抗するだけの強い心を失っていなかった。
 この世界の冒険の中でも、戦いを終えてからも、いくらか各地を回っている。それも暁の面々や旅の道中で世話になった人々への挨拶を兼ねていたから、今度はもっと観光のような目的で旅をするのも良いかもしれない。原初世界のエオルゼアとの違いを探すのも楽しそうだ。
 明日は一体何をしようか。
 今日のように製作依頼をこなしても良い。消費してしまったぶんの各地の素材を集めて回っても良い。冒険者らしくモブハントというのも良いだろう。特に何もしない観光だってありだ。あるいは、と考えたところで、足音と杖を突く音が聞こえた。
 晒されるようになった赤色がそこにある。
「見回りの者が様子を窺っているものだから、何かあったのかと思ったのだが」
「……仕事の邪魔したかな」
「何かあれば、あなたも気付くだろう。そこまで大きな問題ではないよ」
 歩いて近付いてくる水晶公の向こうには、なるほど確かに見回りらしい衛兵の姿があった。小さく頭を下げればむしろ深く礼をされて、彼は言葉にしがたい思いを押し込める。代わりに苦笑を返して、手の届く距離まで来た水晶公に視線を戻した。
 特別扱いをされて、贔屓をされるというのは――ありがたい気持ちもあるけれど、未だに少しだけ困ってしまうのだ。
 夕日に照らされた赤い髪に、紅の両目。あれからフードを外したまま過ごすことの多くなった姿に、彼は嬉しさを感じていた。毛先が白くなっていたり、身体の一部が水晶化してはいるものの、大切な友人であることに変わりない。
「貴方は何かの仕事帰り?」
「それもあるが、息抜きに散歩を少し。まさかあなたとばったり会うとは思わなかったよ。あなたはどうなんだ?」
「似たようなもの、かな。ぼんやりしてた」
 姿勢を正し、彼はゆるりと空を仰いだ。茜に藍が侵食している。星はちかちかと瞬き始めていた。彼にとっては当然の光景だが、この世界の住人はまだまだ見飽きないらしく、酒場は相変わらずの大繁盛だと聞いている。
「でも、そろそろ戻らないと。見回りの人たちにも悪いし」
「……あなたは今日、何をして過ごしていたんだ?」
 かけられるとは思っていなかった引き止めるような言葉に、彼は目を丸くした。水晶公が彼のことを大切に思ってくれているのは痛いほどわかっているが、ずっと正体を隠していた罪悪感が消えないのか、どこか遠慮がちなところがあったのだ。
 ぱちぱちと瞬きして、彼は水晶公から視線を逸らす。後ろめたいことなど一つもないのだから、動揺するというのもおかしな話なのだけれど。
「今日はずっと依頼品を作ってた。朝からやってたから、少しだるいかな」
「採集でも製作でも凄腕の職人だから、納品が待ち遠しいとカットリスたちが言っていたよ」
「貴方の耳にも入るほどだったのか」
「何をさせても器用だからな、あなたという人は」
 柔らかな声は、顔を見なくとも優しい笑顔を浮かべていることがよく分かる響きをしていた。彼は居たたまれない気持ちになって、レイクランドの風景を見る。ぽつぽつと関門や砦に篝火が灯されているのがここからでも分かった。
 水晶公は忙しい身だ。頼りにされる街の指導者には、その指示を仰ぐ者も多い。疲れているとあの苦味満点の薬を飲まされるそうだし、あまり外に長居させるのも良くないだろう。
 自身の動揺や不安といった感情を押し殺し、彼は今度こそ水晶公を真っ直ぐ見た。紅い瞳は予想に反して、心配するような色を宿している。
「製作の疲労かと思ったが、それにしては顔色が悪いな。表情も暗い」
 そっと伸ばされた生身の手は、彼に触れることこそなかったが、まるで目元を撫でるかのような動きをしていた。集中して手元を見ていたから、疲れが濃く表れていたのだろう。面食らった彼は一瞬息を詰め、ゆるゆると悟られない程度に吐き出す。
 温度のある手を取って、彼は微笑みかけた。
「大丈夫だ。無理はしてない」
「……あなたは何でもかんでも頼みごとを引き受けてしまうからな」
「信用ないなあ」
「い、いや、していないわけではないんだ」
 手を握られているのが居心地悪いのか、自分もずっと働いているから強く出られないのか、今度は水晶公の方が視線を逸らした。美しい皇血の瞳は伏し目がちだ。
 水晶公の言いたいことは分かっている。幾度となく仲間たちから言われていることだからだ。基本的に頼まれたら断らないし、それが困っている相手なのであれば尚更である。そんな性質を彼は変えないし、きっと変えられもしない。それを仲間たちも、水晶公だって理解してしまっている。
 それでも、一応無理はしない範囲にしようと考えてはいるのだ。結果的に軽い冒険になってしまうことがあるというだけで。
「そろそろ帰ろうか。貴方も忙しいだろうから、引き留めるのも気が引ける」
 手を放せば、解放された手はゆっくりと下ろされた。伸ばされた手が水晶化した側ではなく生身の方だったのは、水晶公の癖なのだろうか。そんなことをぼんやり考えていれば、彼の様子を窺っていた水晶公は小さく微笑む。
「私の方は問題ないが……そうだな、あなたも今日は早く休んでほしい。そんな顔で街を歩いていたらまたシェッサミールに捕まるかもしれないからな」
「……味はあれだけど効くことは効くし、道連れがいるなら飲むのもありなんだけど」
「勘弁してくれ。何度か世話になっているとはいえ、相変わらずあまり飲みたくない味なんだ……」
「この世のものなのかと思うくらい苦いよな……」
 二人して神妙な表情をして頷き合い、くすくすと笑った。気まずさも後ろめたさもなく、彼は別れを告げる。
「じゃあ、また」
「ああ、また明日」
 手を振って、互いに逆の方向へと歩き出した。
 明日は来るだろう。水晶公は明日もこの地を治め、民に頼られ、生きている。不確かな明日を信じられる程度に、今の水晶公には偽りがなかった。
 真っ直ぐ前に向けていた視線を少しだけ落として、彼はそう遠くない過去の記憶を思い出す。向けられた杖、悪党じみた言葉。蝕んでいた光がじんわりと弱まって、伸ばした手と、響いた音と。
「……明日、か」
 それ以前に今日の夕食さえ決まっていないのだが。
 彼はふるりと小さく頭を振って、何事もなかったように前を向いた。もう今日は作ることに関しては充分やったのだ、どこかで食べていこう、と彼は歩みを進める。

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 どうにも触れがたいと思ってしまうのは、間違いなく己の弱さゆえだろう。彼は青く澄みわたる空を見上げ、すり寄ってきたトナティウの頭を撫でた。
 原初世界でアイアンハート一族から託された探検手帳とほとんど同じものを、第一世界のクリスタリウムで受け取っていたことを思い出したのは、最終決戦の疲労が抜けてきてからのことだ。
 旅の最中でもいくらか埋めてはいたものの、全てを埋めきるというほどではなかった。それからも頼まれごとを受けてあちこち飛び回る合間に埋めてはいたのだが、中でもこのイル・メグはあまり進捗が良くなかったのである。今日彼がイル・メグにやってきたのはそれを全て埋めるためだった。
「本当は姿見の湖の底なんかもゆっくり見て回りたかったんだけど、フーア族がね」
「水底を見て回るって、正気かい? 魚かフーア族でもないと難しいんじゃ……」
「前、水中でも呼吸できるおまじないをかけてもらったことがあるんだ。おかげでどんな場所でも水中なら呼吸できるし、溺れ死んだりしないよ」
 くりくりとしたつぶらな瞳を更に大きく見開いて、トナティウは驚いたような表情を浮かべる。ぱかりと口も開いていて、アマロもやはり表情が豊かだなと彼は場違いな感心を抱いた。
「す、すごい、そんなこと出来るんだ ……」
「フーア族から悪戯されるのは御免だけどな」
「ピクシー族は連絡係をするうちに慣れてきたけど、フーア族はまだ苦手だなぁ。みんなも水辺にいると時々危ない目に遭うって言ってた」
 フーア族に関して、彼の記憶にもっとも強く残っているのはやはり、ドォーヌ・メグでの一件だ。あちらから追い出された際、一人だけ水中に放り出されたことには驚いた。
 紅玉海以外でも、案外水中に潜れるのは便利である。コウジン族にはありがたいと思っていたが、間接的に命を救われることになるとはさすがに予想していなかった。
「僕はよく知らないけど、姿見の湖って街が沈んでるんだよね」
「ああ。いくらか崩れてはいるけど、まだ家の形が残ってるものも多いよ」
 イル・メグは今でこそ妖精たちの園である場所だが、元はフッブート王国という人間たちの国である。姿見の湖には街が沈んだままで、ゆっくりと風化していっている。
 ガルジェント族とドラン族の国だった、というのは篤学者の荘園にあった本で読んだし、超える力の過去視でも垣間見た。原初世界出身の彼としては、ルガディン族とアウラ族の国か、と意外に思ったものだ。ドラン族の女性はさぞ小柄に見えただろう。
「ここにはたしかその、フッブート王国に詳しいアマロもいたはずだけど、呼んでくる? 僕は歴史とかよく分からないし……」
「大丈夫、もう聞かせてもらったから」
 トナティウの提案には首を横に振って、彼はその深緑色の頭を撫でる。アマロの羽毛はチョコボとはまた違う手触りで、しかしチョコボに似てどれだけ撫でても飽きそうにない。
 ならいいけど、と浮かせかけていた身体を下ろしたトナティウは、大人しく撫でられながらも彼を見上げた。そろりと、窺うような視線はトナティウの常である。しかし今回はそれだけではなかった。
「……なんだか、疲れてるみたいだね。少し眠る? 僕もしばらくはお仕事ないから、そばにいられるよ」
「寝ない、けど。……どうしてそう思う?」
 奥底に沈めたつもりだったものを言い当てられたようで、彼は躊躇いがちに問い掛ける。それが表に出ていたというなら、彼の演技力不足だ。それは良くない。彼自身にも、周りの人々にも。
 トナティウはゆっくりと言葉を選ぶように話し始めた。
「知ってると思うけど、僕たちは元々、ヒトに作られた魔法生物なんだって。だからヒトと、親和性……が高くて、他の生物よりもヒトの感情に敏感なんだって聞いたよ」
 伝聞の形なのはヴォレクドルフの古参アマロから聞いた話だからなのだろう。この場において、トナティウはまだまだ新参だ。それでもアマロであることに変わりなく、人間の感情に敏感な部分は他のアマロたちと同じなのだろう。であれば、ヴォレクドルフに住むアマロたちにも彼の心情は察されているということだ。
 セトにも「ゆっくりしていくと良いよ」と穏やかな声で迎えられたのも、もしかすれば最初から分かっていたからなのかもしれない。気を遣わせてしまったな、と彼は苦笑して、ぽすりとトナティウに身を預ける。
 アマロは元よりそのために作られた存在だから、人間が好きだ。先祖返りしたアマロたちは各々の理由でこのヴォレクドルフを終の棲み処としている。中には人間が好きだからこそここに来たのだと語るアマロもいたことを、彼は覚えていた。
 弱った人間がいたら、アマロたちは心配してしまうのだろう。愛した人間を見送り続けることが辛いと言っていたアマロもいた。残される苦しみを知る彼らに、人間である彼はきっと、これ以上頼るべきではないのだ。
「……あまり褒められたことじゃないだろうとは、分かってはいるんだけどな」
 ぼそりと独りごち、彼は目を閉じる。背負ったもの、奥底に沈めたもの、かけられた言葉、受け継いだもの。光の戦士として、闇の戦士として、彼は様々な経験をした。今の彼を形作る大半は原初世界での経験だから、トナティウに話せることはあまりにも少ないが。世界ひとつを救う偉業さえ、彼を彼たらしめる理由には足りない。
「いつものことなんだけど、何かを終わらせた後……しばらく、考える癖があるんだ。終わったことを考えたって仕方ないとは分かってるけどやめられない。悲観的に自分の行動を見つめ直して粗探しして、どうすれば良かったんだろうと考えずにはいられない」
 己の理想を語ったいつかの日の軍団長。戦勝祝賀会という名の事件。戦争を終焉に導くためとは建前でしかない仇討ち。悲しみや怒りを手放せない女の演説。影に呑まれた相棒が望んだもの。自らの命まで捧げた仮面の男。いつかの再演のために消えた仲間。己を友と呼んだ男の自害。血の繋がった弟に復讐を遂げた月下美人。
 上げていけば他にもたくさんある。これまでの旅路を覚えているとはいえ、もう記憶から薄れていることだってあるだろう。彼自身の冒険であっても、全てを記憶し続けるなんてことは容易ではない。
「この世界に闇を取り戻して、色々と落ち着いてきた今だからこそ考え込んでしまう。落ち込んでるとか疲れてるとか、確かに否定はできないんだけど……感傷的になってる、が一番正しいかな。だからそこまで心配しなくても大丈夫だよ」
 本当はそれだけではないが、必要以上の多くは口にしないで彼は笑った。トナティウ以外にも、近くにいるアマロたちは聞き耳を立てていただろうから、おそらくこの場を凌ぐには充分なはずだ。氾濫とは違う柔らかな日差しが降り注ぐ中、彼は意識して呼吸をする。感傷的、という言葉に間違いはなかった。
 何も間違ったことは言っていない。ただ口を噤んだことがあるだけで、それは秘密でしかなく嘘ではない。ただ己の内で己を肯定して、正当化して、彼は伸びをした。つぶらな瞳に映り込む彼自身の顔はいつも通りの笑顔を浮かべている。
「……君は、それでいいの?」
「言ったろ、いつものことだ。そのうち立ち直るよ」
「そっか……」
「ごめんな、余計な心配させて」
「ううん。僕のことはいいんだ。僕は君に救われたから、今もこうして生きてるんだから。君の助けになれるならなりたいよ」
 乱れかける呼吸を制して彼は愛すべき魔法生物の頭を撫でた。与えられたものを与えられただけ与えるこの妖精郷は、今の彼には向かない場所だったのかもしれない。ただささやかな休息が欲しかっただけなのに、今の彼にこの環境は毒だ。その優しさが毒だ。
 毒にならない場所はどこだろう。手触りの良い頭を撫でるのをやめて、彼はそっと別れを告げた。

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 きらきらとした光を見た。現れた光はそっと彼に近づき、その両頬を小さな手で包む。
「かわいそうな私の若木。身を苛む光を昇華しきっても、あなたはまだ蝕まれている」
 この薄暗い地で、その光はどこまでも眩い。彼は微笑んで彼女を見た。妖精でありながら人間の在り方を理解し、その生き方を愛する彼女は確かに、妖精たちに『狂い咲き』と呼ばれるだけはある。彼女はいつだって彼の進む道を認め、彼の背を押してくれた。立ち止まることさえ勧めて、彼のそばに寄り添ってくれた。
 魂ごと継いだ男とも違う、継ぎ目のない彼の枝。今も枝でありながら個であり王である彼女に、今の彼はどうしようもなく見えるのかもしれない。原初世界にも渡れる彼女は、もしかすれば今一番の理解者だ。彼と彼女に継ぎ目はない。ごっそりと、彼の顔から表情が抜け落ちる。
「……立ち止まっていたいんだ。許してくれるか」
「迷っているのなら、立ち止まることは必要だわ。あなたは向き合っている最中だもの、許されないはずがない。そんなことはあなたの枝が許さないのだわ」
「逃げたいんだ、俺を英雄とするすべてから。誰も知らない場所に行きたい。俺がただの冒険者でしかないところがいい。……そんな甘えは、許されるか」
 美しい枝は目を細めた。彼にはもうそんな場所は思いつかなかったからここにいる。深海の底、未だ消えぬ泡沫の幻影都市。彼は哀れな役者が用意した舞台で、ゆったりと同じ時間を送り続ける人々を建物の上から眺めていた。
 海向こうの災厄について語り合うもの。委員会がどうにかしてくれると期待しているもの。わずかに怯えているもの。いつも通りの日常を送るもの。影は見え隠れしているが、それだけの街だ。ただそれだけだった日の街である。
 しかし終末は、恐怖は影よりも速い。伝播するそれを彼らは食い止めきることはできなかった。炎に包まれる都市を彼は知っている。この場所が既に失われた幻想だという理解がある。だからこそ彼は呼吸ができた。
 この場所で、彼はただの子どもだ。それ以上でもそれ以下でもない、己は非力でしかない場所だ。
 それが安らぎに繋がるなど、『英雄』を知る者が聞いたらどう思うのだろう。彼は己の枝の判決を待った。
「――ええ、あなたの枝は許しましょう。私の『かわいい若木』はヒトだもの。迷い、立ち止まり、逃げたくなることだってあるわ。そうしたいと考えることは、決して悪いことではないのだわ」
「……フェオ」
「でもね、私の若木はだからといって、本当に逃げてしまうことなんて出来ないヒトよ」
 は、と噛み殺しきれなかった息が漏れる。痛む喉と熱くなる目の奥に、彼は瞼を下ろした。結局逃げられず、見て見ぬふりを出来なかったからここまで来たのだ。小さな手が目尻を撫でた。
「それでも、あなたが本当に逃げだしたいというなら――あなたの枝は、あなたを英雄とする世界から隠してあげる」
「……」
「私の『かわいい若木』。あなたの望みは何?」
 甘く優しく無邪気な声で、妖精たちを統べる王は囁く。彼女は決して彼を英雄のままでいさせようとはしなかった。逃げ道を作りながらも、彼の意見を尊重してくれる。彼が自分で決めた道を歩むことを望んでくれている。
 別に彼女は「英雄」など求めていないからだ。享楽的に今日を楽しんで生きる妖精にとって、世界の行く末など気にすることではなかったし、きっと明日全てが滅びるとしても日常を送るような、そんな種族である。『狂い咲き』と呼ばれながらも妖精には違いない彼女も、本質的には変わらない。
 ――けれど。
「……俺、は」
 いつか打ち破った軍団長も、騎士と騎士王も。
 それだけではない。蛮神を呼び下ろす蛮族たちにだって理由はあるのだ。何度も何度も呼び続けるその理由を、狩ってきた彼は知っていた。
「肩の荷を下ろせたエメトセルクが、すこしだけ羨ましいと……そう思ったんだ」
 一万年以上の苦痛を、寂しさを、苦労を、エメトセルクはこれでもかと彼や仲間たちに知らしめた。正義と対立するのは悪ではなく、また別の正義である。アシエンたちが絶対的な悪ではなかったとして、譲れない以上、どうしようもない結末だった。
 終わりを迎えた理想郷を背に、笑って逝ったさまを覚えている。
「本当は羨ましがるなんて許されないことだ。俺はエメトセルクほど永い時を生きてないし、たった三人なんて少なさじゃない。俺は俺の世界の人々がこの街の人々よりも尊いものだと言い切れるような……そんな自信は持てない」
 彼が駆け出しの冒険者だった頃も、英雄と持て囃されるようになってからも、彼は人間の汚さを直視してきた。その醜さをこれでもかと見せられた。綺麗事でまとめられた演説も、血で血を洗うような争いも。
 間接的にアシエンが関わっていたことも少なくないが、確かに関与していなくとも人間は争うのだ。それは紛れもない事実で、彼自身とて己を聖人君子だとは思っていないから、そういった人々と同じである。
「でも、死んでほしくない人たちがいる。忘れたくない人たちがいる。俺が戦ったのはそんな理由でしかない」
 ゆるりと瞼を押し上げた。美しい枝は柔らかく笑んでいる。
「――身近な人を、もう失いたくないだけなんだよ」
「私だって若木がいなくなるだなんてこと、考えたくもないのだわ。だって大切なヒトだもの、手放すなんて絶対に嫌! そんな気持ちを持つことは、ヒトも、あなたも違いないでしょう?」
「……その、失う理由が『俺』なのだとしたら、もっと嫌だ。俺のために誰かが死ぬのが、一番だめだ」
 そっと身を引いたのを察知してか、小さな手は名残惜しげに頬を撫でて離れていった。甘やかされているな、と苦笑して、彼は視線を落とす。
 彼が力を封じられていたためにその身を費やした彼女。彼を庇った銀剣の盟友。鋼の塊に立ち向かった氷の化身。
 ――小悪党に成りきろうとした、皇血を引く友。
「アルバートに託されたものも、約束したことも、ハーデスの願いも……俺には重たくて仕方ないけど、やっぱり一番効いたのは俺のせいで友人が死にかけたことだ。死にかけたというか、死ぬつもりだった、が正しいけど」
 あの時エメトセルクが乱入しなかったら、彼は間違いなく友人を失っていた。もう二度と会えないだろうと思っていた友人だったのだ。クリスタリウムに来たばかりの頃に一度問いかけ、否定され、諦めていた再会だった。
 友人は――水晶公は、エメトセルクに救われた。彼には成し得なかったことだ。手を伸ばして、名前を呼ぶしか出来なかった彼には。
「俺のために命を丸ごと費やされるなんて、冗談じゃない」
 水晶公本人だけの想いだけではないと、彼は既に知ってしまっている。だから水晶公が成し遂げようとしたことを彼は否定できないし、まだ見ぬ第八霊災から自分のことを救おうとしてくれたことには感謝すべきだろう。
 それでも、嫌なものは嫌だったのだ。恐ろしいことに変わりはなかったのだ。
「……なんて、まあ、本人には言えないんだけどな」
「あら、どうして? 若木は隠し事が得意じゃないのだから、無理して本音を押し殺す必要なんてないと思うのだけど」
「得意じゃないのは認めるけど、なんていうか……意地、だよ。だってすごい『英雄』の俺に憧れてくれてるんだ。ただの等身大の人間の俺の、こんな救いようのない弱音を聞かせるのは忍びない」
 思えば、背負っていたものや託されたものが少なかったせいもあるだろうが、以前の方がここまで弱らなかったような気がする。彼自身の負の感情を目の前に突き付けられて、それからだろうか。あの時はまだ上手く実感出来ていなかったから、それから暫くした頃か。
 ぼんやりと回想に浸っていれば、む、と美しい妖精の顔が不満げに歪められていた。離れたはずの距離をぐっと詰められて、彼は思わず仰け反る。腰に手をあて唇を尖らせる彼女の表情はもう既に何回か見たものだ。つまり彼女は少しばかり怒っている。いや、少しばかりだと思いたいのは彼の希望的観測か。
 しかし彼女は震える唇を引き結び、深く溜め息を吐いた。
「……私の若木は強情ね。ええ、ええ、よく知っているのだわ」
 青い瞳が彼を見つめ、でもね、と小さな唇が秘密話をするように囁く。
「彼はあなたのことを、きっと遠くから見ている。だってあなたは彼がずっと待ち続けたヒトだもの。私を呼んで、あなたと契約することを持ち出してきたほどよ。覗き見して、はらはらして、きっと私に嫉妬までしちゃってるのだわ」
「……え?」
「あら、知らなかったかしら。『私の友』は、あの塔を使って様々なことができるのよ。水晶の街の外だって、彼に掛かれば遠見で見ることが出来るでしょうね」
 妖艶な笑みを浮かべて、美しい枝はくるりと一回転した。

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 過去になろうとしているのだ。否、己にとってもあれは、もう過去である。そんなことを突き付けられて、なんだか息苦しくなってしまった。
 原初世界に戻った時の話だ。
 ふと思い立って、常冬の地へと向かった。皇都にはギムリトの戦線で倒れた時にも世話になったし、第一世界側が落ち着いたのだから顔を出して、ついでにキャンプ・ドラゴンヘッドの人々にも会いに行こうか、なんて考えて。
 忘れられた騎士亭にも顔を出した結果、ラールガーズリーチやラノシアにも足を運ぶことになり、結局ドラゴンヘッドに行けたのはイシュガルドを訪問してから数日後の話である。テレポがあるとはいえ、あれだけあちこち向かえば時間は否応にも過ぎるものだ。
「――だから、今日もはりきって、料理を作らなくっちゃ!」
 そうして自分に言い聞かせるような言葉を聞いて、彼は更に強く時間の経過を思い知らされた。
 彼がドマやアラミゴの解放に東奔西走したり、帝国との戦争に備えたり、第一世界を駆け回った時間はそれだけの長さだったのだ。
 亡くした痛みをいつまでも抱え続けているわけにはいかないのだろう。それはただ心身を疲労させていくばかりだし、その延長線上にあるのがきっと、終末を背に笑って逝った男なのだ。痛みを忘れていくことは悪いことばかりではない。そうすることで人々は前を向く糧を得る。
 けれど、抱えていたいと思う気持ちだってある。
 人間は忘却する生き物だ。痛みを風化させて、美しい思い出とすることで失ったものを過去にしていく。そうして現在を、未来を歩んでいく。忘却は悪ではない。痛みは忘れるものでも、ましてや抱え続けるものでもなく、癒していくものなのだから。
「――忘れ難いな、お互いに」
 あの銀の騎士は絶対に、痛み続ける傷を良しとしない。それを周りの人々は分かっていた。彼も、知っていたはずなのだ。
 彼がその手で立てかけた、穴の開いた盾。供えられた瑞々しい花。望める皇都。どこまでも広がる空。それらは何も変わらないけれど、人々の思いは変わり行く。傷は、いつの間にか癒えてきている。あの夕焼けが過去になる。
 望ましいことだ。理解して、彼は墓前に腰を下ろした。身体を丸め、立てた片膝に頭を預ける。クルザスはいつも寒い。雪に閉ざされた地は、それでも暖かいことを知っている。二人ぶんの足跡と、帰っていく一人ぶんの足跡を背に、彼は何も言えなかった。
 何かが一段落した時にふらりとやってきては、ここから皇都を眺めていたというのに、今は随分と息苦しかった。
 進まなければならないのだと、道も分からないのに、漠然とそう思った。

//

 その帰りに寄ったアドネール占星台でも近況を報告して、その流れであちこちを飛び回ることで少しだけ息苦しさは薄らいでいたのだ。第一世界にやってきて、己を英雄として扱う人々に囲まれているうちに耐え切れなくなった結果がこれなのだが。
 世界に闇を取り戻した闇の戦士。そう称えられることを否定するつもりはない。変わらずやってくる夜を喜ぶ気持ちも良いものだ。その感情に水を差したいわけではない。齎されたものに喜び、それを齎した相手に感謝を伝えたくなることも理解できないわけではなかった。
 その感謝を受け取るには、今の彼は相応しくないだけだ。

 彼の枝から伝えられた内容をゆっくり噛み砕けば噛み砕くほど、彼はアーモロートから早く出なければという気持ちに駆られた。遠見でどこまで見えるのか彼には分からないけれど、完全に気を抜いている様子を見られたと思うとばつが悪い。
 どんな顔をしてクリスタリウムに戻れば良いのか、いっそ星見の間を通らずにテレポで直接原初世界へ戻れば、とぐるぐる考え込む彼を叱咤する枝の存在があったため、彼は大人しくクリスタリウムに戻ることにした。

 もはや見慣れた広場に降り立ち、彼は静かに呼吸を整える。この街では彼が闇の戦士であると知れ渡っているのだ。疲れている様子も、ましてや落ち込んでいるように見られることは避けたい。
 一応戻ってきたものの、このまま水晶公に会いに行くのはなんとなく気が引けた。
 フェオ=ウルの告げ口はあったが、必ずしもアーモロートでぼんやりと過ごしている様子を遠見で見られていたわけではない。そ知らぬ顔で様子を窺うというのも選択肢としてはありだったが、むしろ見られていなかった場合にどう切り出したら良いかも分からないのだ。
 ならば見られていた方が都合は良い。けれど、やはり彼は抱え続けている言葉を水晶公に向ける気にはなれないから、本当なら言わずに済むことは一番なのだ。それが一番誰も傷つかなくて、嫌なところも見せずに済む。全て円満に収まる最善策だ。
 とりあえず、まずは居住館に戻って落ち着いてから考えよう。彼が結論をはじき出して一歩踏み出そうとしたところで、聞き覚えのある音が耳に届いた。
 規則的な足音に、一つ多い音。それらが誰の発するものなのか、幸か不幸か彼は知っている。僅かに硬さを感じる声で名前を呼ばれた。
 振り向いた先にいるのは、赤色だ。
「戻ってきていたのだな」
「……水晶公」
 フードを被っていないために露わになっている眼差しは、最近よく見る窺うような、ともすれば気まずそうなそれだった。一瞬ぴたりと合った視線は即座に逸らされたため、彼はへたりと伏せられた水晶公の耳を見る。腕を擦っている仕草からしても、彼の枝の言葉が正鵠を射ていたことを示していた。
 一体、どこからどこまでを見られていたのだろう。
 できればイル・メグにいた辺りであってほしいが、この反応を見るにそういうわけでもなさそうだ。彼は曖昧に笑って、小さく問いかける。
「……見てた?」
 紅い視線が泳いだ。彼も大概隠し事が苦手な方だという自覚があるが、水晶公は彼以上に腹芸が出来なさそうだ。エオルゼアの首領たちやウルダハの砂蠍衆のやりとりを目の当たりにしてきた彼には、クリスタリウムの指導者の弱点が微笑ましく思える。
 しかし、そうか、と思っていたよりも低くなった呟きが落ちた。
 街の人々も通るエーテライトプラザで醸し出して良い雰囲気ではない。奇跡的に二人きりであるうちに終わらせてしまうべきだ。明日になって噂にでもなっていたら居た堪れないから。
 自身の枝との会話を忘れたふりで、彼は緩やかに笑みを浮かべた。居住館に戻るから、と一言伝えてから部屋に向かう。たったそれだけで良いのだ。何も難しいことではない。縺れそうになる舌を意識して動かそうとして、それを「話を」と遮る声があった。
「話を、聞かせてほしいんだ」
 それは間違いなく水晶公の発した言葉であり、願いだ。
 一般的な赤色の瞳と異なる皇血の魔眼は、真っ直ぐに彼を見ている。希うような切実さの篭る眼差しに、彼は口に出しかけていた言葉を失った。張り詰めた空気は重苦しい。きっとその原因は水晶公というより彼なのだろう。
 は、と吐き出した息と共に浮かべた表情は、彼自身にも分からなかった。
「タワーの、中で話そう」

 先導する水晶公の後に続いて足を踏み入れたクリスタルタワーは、普段と変わらず青く輝いている。誰かが訪れる可能性のある星見の間ではなく、私室である深慮の間へと通された。ここに来るのは二度目だ。
 以前来た時よりも本の類が多少整理されたように感じられる部屋で、水晶公に促された彼は椅子に腰を下ろす。回されすぎた思考は熱を発しているくらいなのに、胃の底は酷く冷えていた。
「話って?」
 何でもないように軽い調子で問いかけて、彼は彼以上に落ち着きのない水晶公を眺める。『眠る』前よりもずっと、長い時間を生きている水晶公にとって、彼の存在は非常に大きい。きっと最大限に気を遣った言葉を選ぼうとしているのだろう。
 大切にされている、と思う。否、それは水晶公に限った話ではない。暁の面々だってそうだし、原初世界で世話になった人々も、第一世界で関わった人々もそうだ。大切な存在であると思われている。それがどういう意味であれ、彼はそういった人々に助けられ、生かされてきた。
 本当に――今更な話だったのだ。
「聞きたいのはフェオとの会話? それとも俺があそこに居た理由?」
 今の俺は酷い奴だ、と彼は心底自分自身を軽蔑した。これは決して助け舟などではない。話を彼のペースで運ぼうという醜悪な打算だ。はっとした水晶公は、おずおずと頷く。
「ああ、その通りだ。どちらも聞きたいと思っていた。勿論、あなたが良ければ、になるが」
「そんなに改まって話さなきゃならないような内容でもないよ。あそこは静かだからぼんやりするのに最適で、フェオはそれを見て心配性だから話し相手になってくれてただけ」
 必死に思考を回して用意しておいた言葉は、予想よりもするりと口に出せた。何も嘘ではないし、騙しているわけでもないのだ。薄っすらと口を開けていた水晶公は難しい顔をして黙り込む。その手がゆるく握られている以上、納得してくれたわけではないのだろう。彼もさすがに誤魔化されてくれるとは思っていなかった。
 それでも。それでも水晶公は、ある程度彼の意向を汲んでくれる。あまり踏み込みすぎないようにしている。だから彼があまり深く語りすぎなければ、そうだったのかと穏やかに流してくれるはずだ。そんな淡い期待を抱いて、彼はわざと口角を吊り上げた。これも甘えだ、自覚はあった。
「忙しい水晶公がわざわざ時間を割いてまで聞く必要がある楽しい話じゃ、」
「いいや、そうじゃない」
 ない、と言い切るよりも先に遮られ、彼は瞬きする。目の前に座る人物からはもう、戸惑い、躊躇っている様子を感じ取ることはできなかった。そこにあるのは確固たる意思だ。特別な輝きを持つ紅の眼は、過たず彼を見ている。
 迷いのない真っ直ぐなそれは、別れの日の眼差しに似ていた。
「必要があるから、なんて義務感であなたと話しているわけではない。私はいつだってあなたの話を聞きたいと思っているし、それがどれだけ下らない内容でも構わないんだ。あなたとこうして、面と向かって話せることが嬉しくて仕方ないのだから」
 何も言えない。呼吸が詰まる。
 尊ぶような、敬うような、美しいものだけを詰め込んだような瞳だ。
 柔らかさを、優しさを、温かいものだけを押し込んだような瞳だ。
「我ながら欲深いと思うが、聞かせて欲しいんだ。私では力不足かもしれないが、あなたの役に立ちたい」
 やめてくれ、と口走りそうになった言葉はどうにか封じ込めた。片手で口元を覆ってそっと俯く。悲しげな顔が一瞬見えたけれど、まだまともに話せそうにない。呼吸を整える。散り散りになった思考をかき集める。水晶公が力不足だったわけではない。いつだって足りないのは、彼自身の力だ。
 ――君って人は。
 呆れたような、怒ったような、そんな声が脳裏を過ぎる。
「……貴方が、悪いわけじゃない。これは俺のわがままだ。悪いのは俺であって、貴方が気にしすぎるものじゃない」
 顔を上げたくはなかった。片手は口元を覆ったままだ。見られたくない。情けないと思う。心底駄目になっているように感じられる。これまでは、ここまで酷くなることはなかったというのに。
 考え込んで、落ち込んで、沈んで、持ち直して、前を向く。それだけ。
 ただ緩やかに始まって、終わるだけのものだったのだから。
 自身の鼓動の音ばかりが耳につくような、痛いほどの静寂が降りた。彼にはもうどうしたら良いのか分からない。己の枝には零せた弱音は、本人の前ではこんなにも口にしがたい。こんな願いを持ってはいるが、別に変わって欲しいわけではないからだった。
 希望の灯火が、どれほど誰かの勇気になるかを知っている。
 悲劇の未来で己が希望の象徴であったように、その希望のために――目覚めた青年が、二百年後の人々にその灯火を託されたことも。
 ――だが、滅び行く原初世界から、命続く限り祈ってるぜ。
 背負ったその想いを、希望を、決めた覚悟を、否定したいわけではないのだ。

「わがままとは、悪いことだろうか」

 宥めるような、諭すような穏やかな声だ。彼は何も応えることができなかった。
「確かに叶えるには無茶なこともあるが、口に出すことさえ駄目だと言われることではないだろう。どんなことであれ、口に出すくらいは自由だ。かくいう私もグルグ火山に挑む前に、未練がましくあなたに色々と言ってしまったわけだからな」
「……」
「そもそも普段のあなたが無欲すぎるだけで、人とはもう少しくらいわがままなものだ。あなたに限って言えば、もっともっと欲張っても良いだろう。皆、喜んで手を貸してくれるはずだ」
 膝の上できつく握り締めていた手に、優しく触れる感覚があった。水晶公の手だ。結晶化していない手がゆっくりと指を解き、そっと手を握る。それは生きている命の温度をしていた。「こんな私が触れるのは、我ながらおこがましいと思うがね」と小さく零しながらも、その手は離れる気配がない。
 生身の温度に導かれるようにして顔を上げれば、向けられていたのは慈しむような表情だった。結晶化が進んでいる以外は青年期とそう変わりないように思われたが、明らかに何かが違っている。当然だ。彼は無意識に口元の手を離した。
 眠っていた二百年と、クリスタリウムを作り上げた百年。その差が彼と水晶公の間には横たわっている。は、と漏れ出た息は噛み殺せなかった。
 水晶公はクリスタルタワーの端末だ。英雄のため、寿命を手放した青年の成れの果てだ。とっくに知っていたことだった。そんな相手に、こんなにも残酷なわがままをぶつけることが、果たして許されるのだろうか。酷い話だ。酷い、男だ。
 手を引くように、名前を呼ばれた。
「あなたの『わがまま』を聞かせてくれ」
 けれど、再会を喜んだのは他でもない彼自身だった。水晶公の覚悟を、彼は既に揺らがせてしまっていた。今更遅いのだ。
 散るはずだった命が留められて、彼は間違いなく安堵した。銃声を響かせた男に感謝さえした。瀕死の状態で這い出てきた時にはさすがに驚かずにはいられなかったが、亡き人々の想いを背負う冥府の王と戦って、それで。

「――グ・ラハ・ティア」

 おはようと、目覚めさせたのは、彼だったのだ。

「ああ」
「……俺、は、どこまでも自分勝手だ」
「そうだろうか。私が知る限り、あなたは誰よりも他人を優先する人だと思うが」
「ちがう、そこじゃない……違う、んだ」
 己のために、ここまで捧げられている。寿命を手放し、肉体も結晶に侵食され、それどころかつい先日まで名も姿もろくに明かしていなかった。光の氾濫で荒れる世界に現れた高い高い塔のように、あまりにも強い覚悟と大きな想いを背負って、ただ英雄を生かすためだけに百年をかけて。
 英雄たる彼を生かそうとする意思は、水晶公――グ・ラハだけの想いではない。第八霊災の起きた未来の、絶望に包まれながらも必死に生きる人々の希望もある。英雄に夢見た青年を目覚めさせ、その背を押した人々がいる。それを背負って、青年はここまで来た。
 最終的にその命を賭けることまで考え、何もかもを明かさずに消えようとまでしていた。その覚悟が、このクリスタリウムを作り上げ、原初世界から彼を召喚するにまで至った。その決意も、その覚悟も到底真似できないものだ。
 分かっている。その痛みも、苦しみも知らないけれど、ただとてつもなく大きな想いだったのだろうとは分かる。光に苛まれていた状況で耳にした声を、まだ彼は覚えている。
 そんな――尊い覚悟を、意思を、手折りたいわけではないのだ。
 背負い込んだ希望を、グ・ラハ自身の願いを、否定したいわけではないのだ。
 それを拒絶したいと、思っているわけではない。
「ただ、俺は英雄って言われて、偶然うまく事が転がって、ここまで来ただけに過ぎない。確かに色々やった。否定はしない。たくさん、色々と背負い込んだ。負かした誰かの想いを受け取って、それに恥じない生き方をして、自分の進む道とか信じるものとか、そういうものに自信を持とうって……そう、してきただけだ」
 彼は何一つ、否定する術を持たない。彼の旅路を素晴らしい冒険譚だと讃える人にわざわざ水を差そうとは思わないし、向けられる賞賛は受け取ってきた。多少の謙遜はしても、卑下ほどには自身を貶めないように気をつけた。それは道を譲ってくれた人々に失礼になる。
 誇れる道を歩きたかったわけではなかった。けれど、そうしよう、といつからか自然と決めていた。それだけの話だ。
「だから……俺が賞賛されるのは、おかしいとは言わないし、違うとも言いたくない。……けど、『英雄』は輝かしいものばかりじゃない。俺は一人でここまで来たわけじゃない」
 光あるところには、また影も必ずあるものだ。
「俺は生かされてきただけだ。身近な人ばかりを犠牲にして、生き延びてきただけだ」
 たくさんのものを取りこぼしてきた。勿論、全てを救えるなどと傲慢な考え方をしているわけではない。全てを救えるのなら悲劇など起こりえない。結局のところ、未だ人の身に収まる程度の力しかない彼は、万能とは程遠い存在なのだから。
 けれど、喪ったもののいくつかは、救えたはずなのだ。
 喪わずに済んだはずのものもあった。喪わせずに済んだことだって、あったはずだ。
「身近な人にこんなにもたくさん喪わせて、何が英雄なんだ。大多数を救えれば英雄なのか。手の届く範囲の人ばかり犠牲にして」
 エオルゼアの守護者。竜詩戦争終結の立役者。ドマとアラミゴの解放者。並べ立てれば聞こえはいいが、その過程で彼は身近な人々を喪った。身近な人々に喪わせた。確かにどうしたって零さずには成し得なかったこともあるが、全てが全てどうしようもない結末ではなかった。
 彼が、喪わせたのだ。――そんな考えこそ、人は傲慢と呼ぶのかもしれないが。
「もう誰にも喪わせたくない。知らない誰かを救うために、知ってる誰かを犠牲にしたくない。そんな『英雄』なんかに、貴方たちを費やさせるなんて、俺自身が許せない」
 彼が動いたのは、顔も知らない大多数のためというより、知っている誰かが助けを求めていたからだ。目の前に、助けを求める誰かが居たからだ。最初から大多数を救いたかったわけではない。ただ目の前の誰かの助けになりたかった。それだけだった。
「……俺を、優先しないでくれ。貴方たちにこそ、生きていてほしいんだ。俺が大切に思う貴方たちが、一番死んでほしくない相手なんだ」
 ああ、けれど。彼は知ってしまっている。彼の身近な人々は決して弱くない。ただ守られてくれるような、そんな人々ではないのだということを、彼は痛いくらいに知っていた。
 その言葉はきっと、彼にも返ってくるのだろう。そう、だからどうしようもないのだ。根が似ている者たちが集まってしまっている。
 何もそれは暁の人々に限らないということも、よく。
「――でも、きっと貴方は同じようなことがあったら、迷わないんだろうな」
 紅い瞳を直視することはできなかった。
 酷いことを言っている、と思う。彼のためにその命を擲つ覚悟まで決めていたのに、結果的に生き延びさせてしまった。それ以前に寿命を捨てて、肉体さえ人の身から離れようとしている永遠の青年に、未だ人の身の域を出ない彼が。
 あの別れの日、青年は彼を置いていった。そして彼は青年を置いて逝くことが決まったようなものだった。あるはずがないと思っていた再会を祝えたのは喜ばしいが、彼が青年を置いて逝くことに未だ変わりない。
 勢いのままに押し出されていた言葉が詰まった。はくり、と呼吸が苦しいことを自覚する。彼の胸には後悔と自責がぐるぐると巡り続けている。残酷だ。酷い男だ。
 置いて逝く側であるくせして、願うことはやめられないのだから。

「それでも――……どうか、俺のために死のうとなんか、しないで」

 いきていて。
 生きていれば必ず良いことがある、などと語ることはできなかった。ほとんど永遠に等しい命を持っていた男を見た。生きることが必ずしも良いことだと、彼は語る言葉を持たない。
 英雄として彼のことをとても尊び、敬ってくれる人々がいる。目の前の青年は飛びぬけてそうである、という自覚がある。きっと英雄を死なせるくらいなら、と思ってくれる人はいる。目の前の青年はきっとそちらに該当するのだという理解がある。
 けれど、でも。
 堂々巡りでしかないのだ。その意思と覚悟を否定したいわけでも、その敬愛を拒絶したいわけでもない。どうかそのままであれば良いとさえ思う。『英雄』を大切に思うことは、決して悪い話ではないだろうから。
 だが、それを等身大の彼を目の前にして、あまり語らないで欲しいのだ。
 彼は英雄だが、英雄は彼ではない。そんな大げさなものになりたかったわけではなかった。誰かに守られたいわけではなかった。ごめん、と謝罪が口を突いて出る。君って人は。呆れたような、怒ったような声を思い出す。
 彼は強くない。英雄と持て囃されようが、そうであることに違いなかったのだ。
 ぎゅう、と手を握られる。乱れる呼吸が煩くて嫌だった。反射のように、縋るように手を握り返して、彼は下ろした瞼に強く強く力を込める。
 彼は強くないけれど、英雄と呼んでくれる人々の希望を翳らせたくはなかったのだ。
「ごめん、ッ……ごめん、……すいしょうこう、」
 吐き出した言葉を戻せるわけもなく、この時間をなかったことにすることもまた、彼には出来ない所業だった。酷い言葉を聞かせた。酷い姿を見せている。彼は青年の覚悟を変えさせたいわけではなかったから。約束をさせたいわけでもなかったのだから。
 握り締めた手を引かれた。
 くらりと姿勢が崩れる。引かれるがまま倒れこんで、床よりもよほど柔らかなものに受け止められた。

「――オレが、あんたをそこまで追い詰めてたとは思わなかった」

 いつかの青年の声で、苦渋を滲ませてその人は語る。ゆるりと瞼を押し上げた彼は、ただ首を横に振った。視界には肩が映っている。背中がある。焼けるように痛む喉で息を押し殺して、彼は小さく反論した。
「ちが、う。貴方が、悪いわけじゃない」
「いいや、それはオレの罪だ。……そうだった。オレも年をとって、色々と忘れていたのかもしれないな」
 あるいは本当に残っていた名前に、目が眩んだか。くつりと喉で笑い、青年は彼の背中に回した腕に力を込めた。青年と初めて関わった時、彼は蛮神狩りの英雄で、エオルゼアの英雄だった。まだそれだけの冒険者だった。
 純真さの残る心で、悪戯っぽい青年にも呆れて、苦笑を零すくらいで収めてしまうような。
「そうだ。あんたは綺麗なだけの英雄じゃない。オレがこうして抱きしめられるくらい、普通の冒険者なんだよな」
 二百年後に残る英雄譚。絶望に満ち溢れる世界に残された灯火。
 百年の焦心。
「……あんたがただの冒険者だったことを、オレは知ってたのにな」
 ふるふると彼は首を横に振る。言葉は紡げそうになかった。目が痛くて身体が熱くて頭がくらくらしている。ただ確かなのは、身体を預けている青年の体温だけだ。視界が回るような感覚にも陥って、彼は自由な手で青年の背中を掴んだ。浅い呼吸が零れる。
 声は確かに、共にこの塔を駆け上がった頃の音をしているのに、込められている感情ばかりが柔らかくて、温かくて、混乱する。
 そのままの声で名前を呼ばれた。宥めるように背を撫でられる。くたりと身体の力が抜けていく。重くなる瞼に抗うように手に力を込めた。困ったような声で再度名前を呼ばれる。困らせたいわけではないのに。
「……おやすみ、」
 穏やかな闇が手招きしている。落ちていく意識を止めることはできそうになかった。

 

「……あなたは本当に、他人を優先しすぎる。人が好すぎて心配だ」
 しかもこれほどまでに自身を限界に追いやっておきながら、彼は苦しみの表情を浮かべるだけで涙をこぼさなかった。泣かない、よりは、泣けない、かもしれない。
 誰がただの冒険者だった彼をこうしたのだろう。大切な誰かに死んでほしくないと考えることは何らおかしいことでも、糾弾されるわけでもないというのに。考えるまでもない問いにそっと息を吐く。
 ぐったりと力の抜けきった身体の、その肩口に擦り寄った。
「それは私の方なのにな。……他でもないあなたに惜しまれて喜ぶなど、酷い男にも程があるだろう?」
 失望などするものか。自身の妄信的な感情に反省した程度だ。彼自身を大切に想う気持ちに変わりはない。変わるはずがない。
 叶えられた約束を喜んだ。その幕の閉じられ方を嘆いた。語り継がれるその名に、召喚の成功に至る百年に、積もり積もった感情が重たすぎるものになっていた。自覚はあった。けれど焦がれずにも、憧れずにもいられなかったのだ。
 彼のためにこの命を差し出す覚悟は変わらない。それしかないと言われたら迷いなくそれを選ぶだろう。彼に何と言われようと、変えられようもない想いだ。そのためにただの人の身を捨てた。後悔はない。これまでも、おそらくこれからも。
 酷い男は、どちらだ。
「今更……あんたを、嫌えるわけがないのにな」
 むしろ逆なのだと伝えたら、彼はどういう顔をするだろう。

 


2019.8.7