Feet of Clay

Feet of Clay

 紙束といってもいいくらいの枚数の手紙を、ベッドに寝転がりながらぼんやりと読んでいた。どこかの誰かから、誰かに宛てて送り出された言葉たち。きっとそれは彼以外に向けたものも多いけれど、しかし彼はそうではないものも混ざっていると確信している。
 ボトルレターなんて、本当に届けたい誰かに直接届く方が珍しいのだろう。いつかどこかの誰かが、誰かのことを想って綴られた手紙。まるで覗き見るようで少しばかり後ろめたかったけれど、今はもう後悔していない。
 いつかどこか、誰かが、英雄へ向けたもの。
 直接言ってくれたら良かったのに、と心当たりのあった彼は微笑んだものだ。自意識過剰だと思われそうだが、たぶんあれらは彼のことが書かれていた。彼が知らないうちに、彼に感謝を向けてくれた人々の言葉だった。
 ――直接聞くことなど、叶わない相手もいるけれど。
 彼が拾い上げた手紙たちの中で唯一、送り主が記されたものがある。
 時間遡行を可能とする蛮神。外の星から宿敵を追いかけて来訪した兵器。その関わりが、戦いが、彼の冒険の軌跡が下地となった技術を見た。彼の友人は優秀だったから、その末裔も同じように優秀だったのだろう。
 皇血を引く男に肉体を維持させたまま世界を渡らせ、時間を遡らせた上に、目論見通り英雄その人に対する手紙さえ届けることに成功したのだ。未来の人々の願いの通り、あの紅い瞳の男の必死の努力もあって、第八霊災は限りなく遠いものとなった。本当に素晴らしい成果だ。
 そんな素晴らしい技術の集大成の底で、彼は懐かしい光景を目にした。いつか、彼自身も目撃したその景色は、色鮮やかに映し出されていた。今はもう機能を停止させてしまったからか映らないけれど。調査に入った一度目だけ、目に出来たいつかの景色。
 果たして己の記憶は、あそこまで色鮮やかに、あの景色そのもののままで残っているのだろうか。輪郭は暈けてはしないか。その色は褪せてはいないか。
「ウネ、ドーガ……」
 名前は覚えている。まだ、思い出せる。男と女はそんな、アラグ様式の名前をしていた。それこそがあの二人だった。
 けれど、では、二人の顔は。声は。言葉は。
『英雄に――』
 ひくり、と鳴った喉にただ瞑目した。まだ。
 まだ。それはいずれ来る「いつか」に怯えるような響きだ。
 身体を起こした彼は、駆け出しの頃から愛用している紀行録へ手を伸ばした。掴んだそれをぱらぱらとめくる。全てというわけではないけれど、経験してきたことは出来る限り書き留めてきたつもりだ。彼の冒険者としての足跡が、この紀行録には残されている。
 これを読めば思い出せることがある。これがなければ思い出せないこともある。ぱらぱらと見慣れた自分の文字を流し見て、彼は唇は引き結んだ。ゆるりと身体から力が抜ける。
 繰り返し再生した記憶が、最初に見たままのものであると、どうして信じられたのだろう。
「――自惚れるな」
 二百年後から届いた手紙を折りたたみ、汚れないように仕舞いこんだ彼は立ち上がった。その手は迷いなく大剣を掴む。背負った剣の重さを、彼はずっと勘違いしていたのだろうか。どうだったのだろう。
 初めて大剣を背負った時、一体何を考えていただろう。
 ドアノブに手をかける。部屋を出る。廊下を進んで出口へ向かう。踏み出した屋外で、彼はゆっくりと空を仰いだ。今日の空と昨日の空は同一だろうか。そんなことも、よく分からないでいる。

//

「いよいよ駄目かもしれない」
 忘れられた騎士亭の片隅で、彼はぐったりとテーブルに伏せていた。皇都の空は相変わらずどんよりとしている。けれど友人のいる薄暗い酒場は案外落ち着く場所だった。この都市でも彼は顔を知られているから、顔を隠すように帽子を着用している。
「いきなり訳が分からないことを言うな」
「人生相談にくらい乗ってくれたって良いじゃないか、シドゥルグ」
「俺は人生相談だなんて一言も聞いていないし了承してもないぞ」
「シドゥルグ、話くらいは聞いてあげようよ」
 屋内にも関わらず顔を隠そうとしている彼を、酒場の店員も客側もわざわざ指摘しようとはしない。友人である彼らがいるからというのもあるが、イシュガルドにいる間はこの酒場と併設されている宿をよく利用するのはそういうところがあるからだった。
 しかし普段はあえて身分を隠そうともしない彼の珍しい格好に、シドゥルグとリエルはなんとなく思うところがあるようだ。
「前に来た時はいつも通りだっただろう。何があったんだ」
「うん……いや、何がって、そんな人が何かなければこんな風にならないだろうみたいな言い方……」
「ならないだろうが」
 シドゥルグは呆れ顔だ。そう、かもしれない。実際に何もなかったというわけではないのだから、シドゥルグの言うことはもっともなのだった。思わずへらりと笑うと、呆れ顔から一転して怒り顔になる。
 眉間の皴が深い。元々不機嫌そうに見えがちな顔をしているからなおさらだ。それまで口に出すと余計に機嫌を損ねることになるので、彼は冷静に口を噤むことを選んだ。
「で? 顔を隠してきたのは知り合いに会いたくないからか?」
「……シドゥルグ、ちょっと意地悪」
「まあ間違ってないし、今はそれくらいズバズバ言ってもらえた方が逆に楽だから大丈夫。会いたくないっていうか心配かけたくない、が正しいかな」
 リエルはなんとなく納得できずにむくれているようだ。真っ直ぐな少女に彼はじんわりと嬉しく感じながら、シドゥルグに向き直る。きっと話さなくともなんだかんだで優しい男だ、ここでぐだぐだと管を巻くくらいは許してくれるだろう。
 ギムリトの戦線で倒れてイシュガルドで入院し、その後癒えた身体で石の家に戻り、シルクスの峡間で第一世界に跳んだ。あちらでもだいぶ無理をした自覚はあったから、原初世界に戻ってきてから伯爵家にも神殿騎士団本部にも顔を出してある。
 だからというわけではないが、今はそのどちらにも訪れにくい。
「お前……ミストのことを忘れたわけじゃないだろう」
「分かってる。大丈夫、今はってだけだから。そこは信じてくれると嬉しい」
「……ふん」
 分かりにくいがシドゥルグは優しい男だ。それ以上に不器用で恥ずかしがりで素直ではないだけで。
 あまり弄ると本格的に機嫌を損ねると分かっているため、彼はグラスを掴んでゆらゆらと中身の酒を揺らした。
「二人には第一世界のことも話しただろう? その道中で一緒に冒険した、リエルくらいの子が……こう、眩しくて」
「私くらい?」
「そう。あの子は周りに大切にされてるんだけど、少し前まで本当に危険な世界だったから、双剣で一緒に戦ってた。それで、すごく俺のことを尊敬してくれてて……憧れてくれてる」
 水晶のそれとは違う青に、キューティクルのかかったストロベリーブロンド。妖精語で『祝福』を意味する名の少女。
 本来なら、戦いに連れていくのは憚られるような子どもだ。
 少女の親代わりである仲間を悪く言いたいわけではない。あの状況では戦う手段を知らなければ逆に危険だったし、冒険の道中で少女に助けられた彼からすれば恩人の一人だ。
 ただ――そんな少女に、眩しいくらいの尊敬と憧憬を向けられるのが、少しだけ辛かった。それだけだ。
「……それで?」
「その子は稀有な力の持ち主なんだ。だからこの前向こうに行った時、真っ白になった無の大地を戻すために、その子と仲間たちと一緒にあれこれしてきたんだけど」
 そこで彼はシドゥルグとリエルに、始まりの罪喰いたるエデンと、その力を利用した大地の再生について話した。
 彼がかつて戦った蛮神を模した、リヴァイアサンとタイタンといった擬似蛮神を打ち破ったことも。
「お前はどうしてそう、行く先で蛮神を倒すはめになるんだ」
「何でだろうな」
「それを特に誇りもせずに語るのは相当大物の証だぞ」
「うーん……まあ、そうじゃなかったらこうなってないだろうから、な?」
 彼を英雄たらしめた最初のきっかけと言えば、焔神イフリートを打ち倒したことで始まった、蛮神狩りの英雄としての冒険だろう。
 呆れたような目をしたシドゥルグは、溜め息を吐いて頭を振った。英雄の在り方と暗黒騎士の在り方は相容れないと、彼にばっさり言ってのけたのはシドゥルグだ。それでも彼は未だ大剣を手放していないことが答えである。
「でも俺の記憶が元になった擬似蛮神を見て、色々と凹んだんだよな」
「凹んだ?」
「リヴァイアサンもタイタンも、倒してから確かに時間が経ってるけど、絶対にあんな姿じゃなかったんだ。けど、他にも戦ってきた相手と記憶が混ざってたのか、ずいぶんと変型しててさ。自分の記憶力と想像力のなさに凹んだ」
 かなり雑に噛み砕けば、記憶だけを頼りに絵を描くようなものだ。画家や普段から絵を描く習慣があるものなら、それでも充分描けるだろう。しかしそうでないものが描こうとすれば、どうしても自身の想像と推測が混ざり、結果として実物から乖離する。
 深海の都市の創造主と、そこで出会った創造主の邪念の結果の『泡』のことを思えば、創造魔法自体が今を生きる人々には困難なのかもしれない。
 軽い邪念さえ結果に影響するのであれば、曖昧になりつつあった記憶を掘り返した彼の水神と岩神が歪んだのは致し方ないことだったのだろう。
「例え何度狩ろうと蛮神は蛮神だろう。人の手に余るものと相対してなおまじまじと観察していたら、それこそ正気を疑うぞ」
「そう? 観察も戦うためには必要だと思うけど」
「動きで言えばそうかもしれないが、見た目なんぞ弱点らしき場所さえ見えていればそれ以上など気にしていられん」
「やっぱりシドゥルグってかっこいいな」
「阿呆か」
 心底嫌そうな顔をされた。そこまで嫌がられるのは少しばかり傷つく。
 とはいえ、シドゥルグ的には「だからお前の記憶力が特別悪いせいではない」という遠回しな慰めだろう。分かりにくいだけで、シドゥルグもまた暗黒騎士となるだけの情の深さを持っているのだ。
 ――自惚れるな。
 シドゥルグに微笑みかけながら、己を戒める。
 最古の魔導士が遺した都市と比べてしまうから悪いのだ。魔法に関して門外漢とまでは言わないものの、それは遣い手としての話であって知識そのものが多いわけではない。少なくとも賢者たちほどの専門家でない彼が術者だった以上、仕方のない部分はある。
「ところで、その様子だとやはりまだ知らないらしいな」
「何を?」
「四大名家の一家が、先の襲撃の際に大打撃に遭った蒼天街の復興を取り仕切るという話だ」
「蒼天……街?」
 首を傾げると、シドゥルグではなくリエルが詳しく説明してくれた。
 曰く、四大名家の一つであるアインハルト家が、今度新たな事業を始めるらしく――その内容が、雲霧街から繋がる、未だ瓦礫の山のままである蒼天街という区画の復興なのだそうだ。
 シドゥルグの記憶は曖昧でもリエルはきちんと覚えていて、指揮を執るのはアインハルト家のフランセルだという。
「そうか、フランセルが……」
「知り合いか」
「俺がフォルタン家と繋がりを持つことになった、大きなきっかけになった人だよ」
 魔女の谷に身を投げ出すか否か、といった場面でなんとか間に合い、助け出すことができた友人だ。あれがあったからこそオルシュファンとの関係も確固たるものになり、イシュガルドに入国もできたと言える。
 スカイスチール機工房といい、ディアデム諸島を主とした雲海探索といい、次の蒼天街復興といい、アインハルト家は本当に様々な挑戦をしている。
「俺でも手伝えることあるかな」
「職人さんをそのうち募るって話なんだって。その時に名乗り出ればいいんじゃないかな」
「かの救国の英雄が復興事業に従事、か……関係者はさぞ度肝を抜かれるだろうな」
 馬鹿にしているというよりは、ただひたすらに呆れている声だった。やれやれと肩を竦めるシドゥルグに、彼は曖昧に笑うしかできない。
「まあ、しかし」
 ひたり。鮮やかな色の瞳が、真っ直ぐに彼を射た。
「ウジウジと悩む姿よりは、そうして先を見据えて意気込む姿の方が随分とマシだな」
 悪戯っぽい笑みに、彼は居たたまれなくなって帽子のつばをそっと下げる。下手にからかわれるより、その笑みの方がずっと気恥ずかしかった。

//

 根を詰めすぎるなと叱られたらしい水晶公と出会ったのは、ペンダント居住館を出てすぐ、彷徨う階段亭でのことである。
 水晶公のテーブルにはティーセットと、小皿に盛られたクッキーがあった。彼が水晶公を見つけ、同時に水晶公も気付いたため彷徨う階段亭に足を向けてすぐ、彼のぶんのカップとアップルパイが運ばれてきてしまったので、二人は苦笑してティータイムと洒落こんだ。
「気を利かせてくれたのだろうが……」
「ありがたいけど、サービスしすぎでこっちが心配になるよ」
「ふふ、そうだな。私のこれもほとんどサービスのようなものだし」
 聞けば、クリスタリウムの管理のことではなく、暁の賢人たちの帰還のためにこれまで集めた資料の類をもう一度洗い直していたのだという。深慮の間に入ったのは未だに二度しかないが、あの山からか、と彼はどんな反応をすべきか悩んでしまった。
 ただ目的の資料を探すだけならまだしも、洗い直すということは中身も改めているだろう。あの量を、全て。いくら水晶公が自ら集めたものとはいえ、確認し直すというのはかなりの手間なはずだ。
「資料といっても、半分ほどは私がこれまで調査してきたことのレポートだ。自分で書いただけあって、読み直すことはそれほど大変ではないよ」
「半分もか」
「ふふ、忘れがちかもしれないが、これでもシャーレアンで賢人と認定されていた程度には学問を修めたし、研究も相応にしていたからね。この年になってもやり方は染み付いていて、気付いたらレポートを作っていたんだ」
「研究者気質なんだな」
「シャーレアンで学んでいたならたぶん皆似たようなものだよ」
 ということは、暁の賢人たちもそうなのだろう。思い浮かべ、なるほどなと彼は深く頷いた。篤学者の荘園といい、スリザーバウでヤ・シュトラが使っていた部屋といい、低地ドラヴァニアのマトーヤの洞窟といい、説得力がありすぎた。
 思えば砂の家もかなりそういった資料の類はあったし、石の家に移転した際にもその資料の一部は運び込んでいたはずだ。研究者や学問の専門家は大抵そういった気質を持っているのだろう。
 水晶公も古代アラグ帝国の歴史に関することで賢人になっていた男だ。当然頭の良いし、記憶力も良かったし、これまでの調査というのもかなりしっかり行われていたはずである。
「そういうあなたは最近、どうしていたんだ?」
 問われ、彼は一瞬言葉に詰まった。別に後ろめたいこともしていないし、冒険という冒険はエデンの一件くらいだった。エデンの話は既に水晶公にもしてあるので、つまり本当に何もしていない。
 思考を巡らせ、原初世界では紅蓮祭があったことを話していなかったことを思い出した。第一世界では特に祭りらしい祭りはしていなかったようだから、水晶公にとっても懐かしいだろう。
向こう(・・・)で紅蓮祭に参加したり、その後片付けで……メッセージボトルを拾ったり、かな。かなりゆっくり過ごしてたよ」
「冒険ばかりのあなたにしては珍しいな」
「なんでそんなに驚くんだ」
「冗談だ。けれど……紅蓮祭か。懐かしい響きだ」
こっち・・・じゃそういう祭りはやっぱりなかった?」
「ああ、祭りなんて催せるほど平和じゃなかったからな。けれど今なら各地と交流が出来るようになったし、そういったものを計画しても良いかもしれないな」
 ヴァウスリー亡き今、ユールモアも変わろうとしている。罪喰いの脅威も退けられたのだから、祭りなどを通して交流を深めていくこともできるだろう。
 水晶公の仕事を増やしてしまっただろうか、と心配がちらりと脳裏を過ぎったものの、ムジカ・ユニバーサリスやミーン工芸館の面々にも先んじて話を通しておけば、水晶公が一人で抱えることもないと思いたい。
 夏は紅蓮祭、秋には守護天節があり、冬に星芒祭、年初めの降神祭、ヴァレンティオンデー、春にはプリンセスデーにエッグハント。挙げてみると結構な数である。
「でもどの祭りも聖人とか逸話とか、向こう特有のものが元になってるから、そのまま導入するのはまずい……のかな」
「そっくりそのままとは行かないだろう。しかし光の氾濫前には、似たような祭りが元々存在していたようでね」
「もしかしてそういう資料もあったりする?」
「ああ。といってもそれは私の管理しているものじゃなく、博物陳列館にある本の方だな。モーレンに聞けば教えてくれると思う」
 博物陳列館の顔役であるモーレンなら、おそらく蔵書の多くの中身を記憶しているだろう。
 思えば、クリスタリウム内でも誰かの手伝いをしたり何かを作ったりしていて、あまり本を読む時間はなかった気がする。動き回ってばかりだ。つくづく冒険者気質だなと内心笑った。
 けれど、たまには読書も良いかもしれない。
 それが光の氾濫前――アルバートたちが生きていた時代のことを学べるのなら。
「じゃあ博物陳列館で探してみようかな」
「それも良いだろう。とはいえ……読書も良いが、もう少し手伝ってからにしてもらえると嬉しいな」
 若干寝かせられた耳に、彼はテーブルの上を見た。クッキーにアップルパイ。彼が来たからか、途中でティーポットも一回り大きなものに変えられている。子どもたちを呼んで一緒に食べてもらうにしても、紅茶くらいは飲みきってからにすべきだろう。
 まあ彼が手伝ったとしても、そこそこ時間がかかりそうな量だが。
「貴方一人だと夜までかかりそうだ」
「あなたと私の二人で夕方かな」
「かなり長い休憩になるけど、水晶公は良いのか?」
「むしろこれも休ませるための方便だろうさ」
 カップに口をつけた水晶公の伏し目がちな顔は、どこか翳りが見えるように感じる。老人のような年を重ねたがゆえの深みと、どこか寂しげにも見える疲労の影。周りの面々が労りたくなる気持ちは彼にもよく分かった。
 この友人は様々なものを背負っている。主目的であった第八霊災の回避と、彼という英雄の生存は達成されたが、まだ暁の帰還も、これから変わっていくだろうノルヴラントのこともあるのだから。
 水晶公から意識をあえて外すようにアップルパイにフォークを突き立て、一口ぶんに切り分けた。崩れるパイ生地を零さないように気をつけながら口へ運ぶ。かたん、と小さく音がして、顔を上げなくとも水晶公がカップを置いたことが分かった。
「……あなたの」
 小さな呟きに、彼は少し迷って顔を上げる。
 水晶公は真っ直ぐ彼を見つめながら、柔らかに目を細めていた。
「冒険の話が好きだが……危険なことをしていないと聞くと、残念だと思うどころか安心してしまうのは、何故なんだろうな」
「……そんなに危なっかしいかな、俺」
「いいや。そうだな……私が特別あなたにだけ心配性なのだろう。こうしてなんでもない会話をしていると落ち着くんだ」
 鼓動が跳ねる。ふと思い出したのは、深慮の間に二度目に入った時のことだ。おやすみと告げた、暖かで柔らかな、若い声。
 長くない眠りから彼が目覚めた時、水晶公は何もなかったかのように振る舞った。いつかの青年を思い起こさせる声もあれきり聞いていない。
 あの時間がなくなったわけではないが、まるで覚えていないかのように振る舞っている。水晶公も彼も、あの時のことには触れないままでいた。
 最初から結論は決まっていたのだ。彼がただ、どうにも飲み下せていなかっただけで。だから、なかったことにされるのは良かった。それで良かったのだ。
「……なんて、言ってもあなたを困らせてしまうか」
「こま、る……より、恥ずかしいような、気がするな。自分でもよく分からないけど」
 じわりと手汗が滲むような感覚がする。よく分からない、というのがもっとも的確な言葉だった。
 水晶公から向けられる敬愛は、第八霊災の起きた未来でも希望の灯火として語り継がれていた英雄であり、青年の目覚めた時にしっかり歴史に名を残していた彼に対する憧憬が影響している。
 それはクリスタルタワーの調査の頃からもあったが、たくさん美化され、各地で語り継がれた冒険譚によって更に強まったのだろう。
「貴方の事情は知ってはいるけど、結局知識でしかないから……その、第八霊災を回避できたのに、それでも俺のことを気にかけてくれるのは、嬉しいよ。嬉しいけど……よく、分からないなと思う。世界は救われた。第八霊災は限りなく遠くなった。あとは暁の帰還だけ、だろ?」
 なのに己のことを気にかけてくれるのは、どうしてだろう。せっかく救ったのに野垂れ死なれては困るとか、そんな事情もあるかもしれないが、こと水晶公に限ってそれは考えにくかった。
 向けられる敬愛は眩しくて美しく、尊い。だから拒絶はしたくない。それを壊したいわけではない。
 だからこそ、それ以上のものを感じると、少し怖くなる。
 もっと言えば、彼は分かりたくないのだ。
 英雄として尊敬の念を向けられる、憧憬を抱かれる。その冒険譚を愛される。そこまでなら理解できるけれど、それ以上は、わかりたくない。
 彼は英雄だが、英雄は彼ではない。
 けれど己に、冒険者か英雄以外の何かを求められると、どうしたら良いのか分からなくなる。
 相手がかつての友人であり、恩人である水晶公だからというのもあるだろう。
 失望されたくない、と思う。嫌われたくない。
「まあ、確かに目下の問題は暁の面々の帰還であって、あなたではない。それは事実だが……強敵だな」
「きょうてき?」
「こちらの話だ。どうやら私の方が困ってしまう案件だったらしい」
 言葉のわりに微笑んでいる水晶公に、彼は疑問符を浮かべた。詳しく話してくれる訳でもなさそうなので、アップルパイの攻略を再開する。
 食事に意識を向けてしまえば、途端に手汗は気にならなくなった。我ながら現金なものだ。
「ん、美味しいな」
「これ何人分あるんだろう」
「二人前では済まないのは確かだな」
 水晶公に頷き、アップルパイを口に運ぶ。甘酸っぱいアップルに、さくさくとしたパイ生地。見た目も味も良く、なおかつサービスも良い。瑕といえばマスターの人が好すぎるくらいだろう。いやまあ、彼が言えることではないのかもしれないけれど。
 皿に盛られたクッキーに手を伸ばした水晶公に、彼はなんとなく気が抜けるような心地がした。
 ――あの時のことを忘れられないのは、きっと彼の方だ。
 憧憬を抱かれている。好かれている。それだけならば、アリゼーとリーンも似ている。けれど彼女らには照れ臭さが勝るのに水晶公には別の緊張も孕んでいるのだから、彼にとって彼女らと水晶公は違うのだ。
 では決定的に違うのは何かといえば――それはおそらく、時間という重みと、命を賭けられるほどだったという事実と、あの日のことだ。
 何かがひと段落すると弱る時期がある。彼自身もそれは自覚していたが、他者には見せまいとしていたから、察されることはあっても曝け出したことはなかった。それがあの日、崩されてしまったのだ。後悔と羞恥と、罪悪感。あとは――。
 目を細める。床よりも柔らかなもの。背中に回された腕。
「――?」
「ん、」
 名前を呼ばれ、思考の海から意識を引き上げる。無意識に口に運んでいたアップルパイの欠片が唇に張り付いていて、ぺろりと唇を舐めた。視線を上げる。
 何故か分からないが、水晶公は面食らったような表情をしていた。
「どうかした?」
「……無意識か」
「何のこと?」
「恐ろしいなあなたは……」
「何がなんだ……」
 首を傾げてみるも、水晶公はふるふると頭を横に振ってクッキーを齧るだけで、それ以上を言おうとはしなかった。
「行儀悪い、とか?」
「……マイナス方向ではない、とだけ言おうか」

//

 眼下には灰色と白の瓦礫が広がっている。
 有志の職人たちの手によって整備された名も無き者たちの広場にて、そんな職人たちの中に混じって復興の支援をしていた彼は空を見上げた。
 お疲れ様、と言い合う人々の頭上には、雲ひとつない蒼が広がっている。
 ドラゴン族たちの襲撃によって破壊された蒼天街。それが、イシュガルド外からの職人も招いて、大々的な事業としてかつての姿を取り戻そうとしている。ほう、と息をついて、身体の力を抜いた。
 ――今ならば、穏やかな気持ちで向き合える気がする。
 神意の地、イシュガルドを展望する見晴らしの良い場所。
 魔大陸、あの旅を共にした者しか知らない片隅。
「……忘れてない」
 そこに彼らが居ないことは知っている。彼らが傍に居ないことも、ずっと前から分かっている。追いたかった背中を、手を伸ばしたかったその後ろ姿を、彼は覚えている。
 けれど、彼らの想いは彼の胸の内に生きているのだ。
 過去になろうとしているのではない。過去は過去である。ずっと分かっていたのに、思わぬ再会によって、寂しさが顔を出してしまったのだ。寂しさを思い出してしまったのだ。古傷がじくりと痛んだせいだった。
 それをあの友人のせいだとは言わない。これは彼が抱える弱さで、だからこそ、彼はまだ前を向いて歩いていられる。彼らに恥じない生き方をしたいと思える。
「お前たち、頑張ったな! 次の作業までよく休め!」
「お疲れさまでしたー!」
「これからも頑張りましょう……!」
 歓声、互いに労う声、今後の計画について現場監督に問い合わせる声。
 ざわざわとした心地よい喧騒から、彼はそっと抜け出した。蒼天街から雲霧街へ抜け、荷物を置いてある、忘れられた騎士亭と併設されている宿屋へ戻る。都市外へ出るのに職人としての作業服は向かない。
 作業服を脱いで、慣れた鎧へと着替える。作業後のほんのりとした満足感を引き摺ったまま、立てかけておいた大剣を背負った。
 大審門の近く、雲海を見下ろす崖。
 きっと、もう一度、なんて奇跡は起きない。期待などしていないし、会えなくて良い。会いたいがために行くわけではなかった。
 花を携えて行こう。二メーヤリリーを、風に届けてもらおう。
 君って人は。
 呆れたような、怒ったような――微笑むような声が、脳裏に響いた。

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 それで生き延びたって、あの人が悲しい顔するなら、最低最悪のやり方だわ!

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 魔法宮殿グラン・コスモスを踏破し、隠者ベーク=ラグに協力を取り付けた結果、行き詰っていた暁の面々の帰還に光明が差した。手がかりが乏しい状況は脱したからか、暁の面々も、水晶公もかなり精神的に余裕が生まれたように見える。
 根を詰めすぎることも以前より少なくなったのだと、手伝いで医療館に行った際に会ったシェッサミールから聞いた。闇色のシロップを処方する機会が減ったと、残念がっているのか嬉しがっているのか、微妙に判断しがたい声音だったけれど。
 遠目から観察した限りでは、確かに水晶公は仕事以外にも軽い休憩のためにクリスタリウム内を散歩していることもあり、同じく様々なところを見学して回っているベーク=ラグとなにやら議論しているところも見かけた。
 研究者とはやはり、通じ合うものがあるのだろうか。専門的な会話には入っていけない彼には踏み込めない領域である。
「暁の帰還に必要なことである以上、あなたも無関係ではないのだがな」
「うん……それはそうなんだけどな」
「これは私が主体となって進めていくことでもあるから、あなたが無理に理解する必要はないんだ。良い結果が出せるまで少し待っていてくれ」
 久しぶりにライナと話し、その流れで顔を出そうかと星見の間にやってきた彼を迎えた水晶公は、彼の様子を窺うように顔を覗き込んできた。
 グラン・コスモス以降は特に冒険らしい冒険もなく、やったことと言えば原初世界で守護天節などの催しに参加したり、蒼天街の復興の支援をしたり、くらいだ。シェッサミールからも及第点をもらえた程度には、彼も元気である。
「確かにあなたも、以前のような雰囲気がなくなったな」
「……まあ、誰かさんが俺には言えないことを言ってくれたおかげかな?」
「おや」
 魔法宮殿に挑む前のことだ。何に対しても真っ直ぐな彼女は、彼には絶対に紡げない言葉で水晶公を痛烈に批判した。彼女なりの言葉で、彼を想っての言葉で、水晶公の提案を否定した。
 瞠目した水晶公は、困ったように小さく笑った。おそらく彼の言わんとすることが分かったからだろう。それもそうだ、水晶公は彼の憂いを知っていたのだから。
 英雄のため、命を投げ出す覚悟。それを否定したいわけでも、その敬愛を拒絶したいわけでもない。どうかそのままであれば良いとさえ思う。『英雄』を大切に思うことは、決して悪い話ではないだろう。
 そんな思いは今も変わらない。間違いなく彼の本心で、彼の願いだ。
「少しばかり耳が痛い話だな」
「でも、俺はおかげで踏ん切りがついたよ」
 彼女の言葉に虚を突かれたのは、水晶公だけでなく彼もそうだったのだ。
「貴方を犠牲にさせないために、俺が頑張れば良いんだ」
 無論一人では限界があるし、彼だって倒れることくらいある。無理を押してまで頑張ろうとすれば潰れてしまう。人の身である以上は避けられないことだ。
 けれど、彼は一人ではない。周りには仲間がいる。
 大切に想ってくれる人々がいる。
「俺や貴方の周りには、頑張りすぎたら止めたり叱ったりしてくれる仲間がいるんだから。俺は皆を信じて、俺にできることを頑張っていけば良いんだって、そう思えた」
 どうしたら悲しませずに済むのか。どうしたら失望させずに済むのか。そんなことばかりを考えていて、前へ向く方法をすっかり忘れていた。一人きりで立ち向かわなければならないのだと錯覚していた。
 そうではないのだ。守ることで、大切な人々が無事であることで――彼は安らぎを見出す。人々が彼を心配してくれるから、大切にしてくれるから、彼は死ぬわけにはいかないのだと思える。
『そして、どうか……彼のことをよろしく頼む』
 それは彼だけではなく、水晶公も同じだと思うのだ。

「だから――貴方に守られてばかりじゃ、いてやらないからな」

 ふふん、と大げさなくらい自信たっぷりに笑う。
 守られてばかりではいられない。それもそうだ。彼は守るために剣を取った。そのために脅威に立ち向かおうとした。大切なものを守りたいから戦う。水晶公も、大切なもののために命を擲たんとした。本質的には同じだったのだ。
 ならば彼にできることは、水晶公を死なせないために守ることだ。
 大切な人々を守りながら、彼自身の命を蔑ろにしないことだ。
 ぽかんとした表情の水晶公は、それからすぐに笑い出した。
「っはははは! ああ――あなたはそういう奴だ。うん、あんたらしい答えだと思うよ」
 いつかの声で、青年は眩しげに目を細めた。
「気付くのに、だいぶ時間かかったけどな」
「あなたは自分に関することに鈍感過ぎるんだ。もっと自分のことや、自分に向けられるものに頓着してくれないと、こちらの方がじれったくて仕方ない」
「それ、貴方も似たようなものだからな?」
「否定はしないさ。でも、あんたよかマシだと自負してるよ」
「嘘だろ……」
 青年が笑っている。彼の表情が予想以上にツボに入ったらしい。彼としては大真面目な発言だったのだが。
 楽しそうにしているのは良いけれど。一部が水晶化している以外はあの頃とほとんど変わらない青年の笑顔は、彼の心を暖めてくれる。あの別れの延長線に立つ青年は、時を経ても変わらず活発なのだ。好奇心が強くて、悪戯っぽいところがあって、責任感が強い。永遠の青年は、変わらずそこに在る。
 いつか置いて逝くひと。寿命を捨てた端末。それは痛ましいけれど、だからこそ彼は生きている。だから、この人のためにも生きなければならない。
 この人のためにも、生きていきたい。

「っふ、はあ……憂い顔も、思索に耽る表情も魅力的だが、あなたにはやはり笑顔が一番似合うな」

 笑いを収めた青年の、そんなとろりとした微笑みに、ぎゅう、と心臓を握られるような感覚を覚えた。

 


2019.12.25