掃除の時間終わりに廊下で駄弁ることが定例と化した。呼び名こそかつて呼ばれていたものと同じだったが、話していた内容といえばほとんどが学校でのことだ。それもそうだ、教師と生徒となれば分かり易い共通の話題は学校のことだろう。
長話が出来るほどの時間もないから、あっさりとした、言ってしまえば内容のない雑談ばかりだった。
それに不満を覚えたのはアヤックスではなく、まさかの鍾離の方である。
アヤックスは別に鍾離に昔の記憶を思い出して欲しいわけでもないし、昔のことに触れられない以外は気楽に話せる相手だったためそれだけでも充分だったのだが、思い出したいらしい鍾離にとってはそれでは足りなかったのだろう。
「だから一緒に過ごす時間を増やしたいんだが」
「って言われても……教師と生徒だよ?」
「分かってる。――時に、公子殿は昼食にはいつも姿を消すらしいな」
うげ、と声を出しかけて、ただ渋い顔をするに留めた。アヤックスの表情を見た鍾離はくつくつと笑っている。担任でもない鍾離とアヤックスは、この駄弁る時間さえなければ関わるのは地理の授業の時くらいで、他に接点などない。
とはいえ、鍾離が生徒たちの間で人気の教師であるように、アヤックスも多少なりとも目立っている。目立つということは、それだけ話題に上りやすいということだ。
「特に生徒の間ではちょっとした噂になっていたからな。偶然小耳に挟んだだけだ」
「姿を消すというか、教室で食べてないってだけだよ」
「共に昼休みを過ごす相手は居ないんじゃないか?」
「……まあね。先生、俺の昼食事情について知ってるなら他のことも知ってるんじゃないの?」
目立つということは、遠巻きにひそひそと何かを囁かれるか、よく話しかけられたり何かに巻き込まれたりしやすいということと同義でもある。アヤックスは親しみやすいように人好きのする笑みを浮かべがちだからか、どちらかといえば後者の対応をされやすい。
それが悪いと言うつもりはないが、やりたいことがある場合は単なる邪魔なものに感じられてしまうから、アヤックスはそうして絡まれる可能性を切り捨てることにした。つまり誰も寄り付かないであろう場所で昼食を済ませ、目的を果たしやすくすることを選択したのだ。
とはいえ、アヤックスの昼休みの行動の情報はすっぽりと穴のように抜け落ちているわけではない。試すように小首を傾げて鍾離を見れば、鍾離は満足げに小さく頷く。
「図書室の常連らしい、とも聞いたな」
「せっかく色んな本に触れられるからね。この学校に居られるうちならいくらでも使える特権でしょ」
「昼食をさっさと済ませて図書室に入り浸ってる、というのが真相か」
「そういうこと。さすがにクラスメイトと喋ってる最中に切り上げるのを繰り返すのも相手に悪いだろ? 一人で済ませればそうせずに済む。気を悪くさせずに、目的の図書室に行ける。一石二鳥だ」
「……公子殿に友人は居ないのか?」
心底不思議そうに問われ、アヤックスは「そうだね」とあまり深く考えずに肯定した。僅かに鍾離の表情が硬くなるが、今更の話だろうと思う。しかし鍾離とは昔会ったことがあること、くらいしか未だに伝わっていないのだ、アヤックスの特異性について鍾離はまったく知らないのだった。
そう考えてみると、曲がりなりにも教師である鍾離が生徒であるアヤックスを心配するのも仕方ない話なのかもしれない。遅まきながら気付いた己に内心溜め息を吐き、アヤックスは笑みを作る。
「クラスメイトと仲が悪いってわけじゃないよ? 程ほどの距離感で、程ほどの付き合いだから、仲が良い特定の誰かっていうのが居ないだけ。さすがにクラス全員と同じ感じなのでクラス全員と友達です、なんていうのが成り立つのは小学生くらいだろう」
「本当に居ないのか……」
「その、哀れんでるのか驚いてるのかよく分からない感じ、何なの?」
かつての鍾離は若い男の外見をしながらも、威厳があるようで、しかし茶目っ気もあり、なにより好奇心を溢れさせながら、深い慈愛を抱いていた。動かないように見えて結構動く表情は観察しているとそこそこ面白くて、その僅かな機微もタルタリヤはそれなりに見分けられていたのだが。
さすがに当時の鍾離と今の鍾離では、性質こそおおよそそのままであるものの、表情などの部分はまだ読み切れていない部分が多い。こればかりはその辺りの細かい鍾離についての記憶がこの十数年間で薄れてきてしまっているのと、今の鍾離と過ごした時間がまだ短い影響だろう。
「公子殿なりの考えあってのものだろうから、教師とはいえ俺が公子殿の交友関係にまで口を出すわけには行かないだろう……と思った」
「結構その辺は尊重してくれてるんだ」
「普通の生徒であれば心配していたかもしれないが、公子殿だからな」
「俺は例外なわけね」
クラスの中、あるいは他の教師の前であれば十数年しか生きていない子どもとして、ただの生徒として意図して振舞っているが、鍾離に対してはそういった取り繕った仮面など一切ない状態だ。アヤックスの特異性の詳細を知らない鍾離も、あの初対面の時の会話もあってか少しは読み取っているらしい。
むしろ他の生徒と同じように扱われていたら、こうして掃除の時間の終わり際を潰して共に話すようなこともなかったわけだから、最初からそういった部分は織り込み済みで接していてくれているのかもしれない。
未だに他の人間が居る場で鍾離と喋ったのは、授業中の義務的なものだけだ。今の鍾離についての情報が足りないのは、そういった、二人きりの時以外の鍾離を知らないというのも影響している。
「教師として、生徒を区別するのも褒められたことではないだろうが……」
「ああ、大丈夫だよ。俺と他の生徒とわざわざ同列に並べなくていい。やりにくいだろうし、鍾離先生にそういう風に扱われるのは平気だから」
「それはそれで……昔の俺はそういうものだったか」
「ええとね……これは俺が言葉を間違えたな。俺だけ粗雑な扱いをされてたってわけじゃないと思うよ。ただ、そう……それこそ、友人みたいな関係性に近かったんじゃないかな。今みたいにだらだら喋ってるのってそれらしいだろ?」
当時の鍾離とタルタリヤの関係性を一言で表すのは難しい。時期によって多少の変動があったというのもあるが、明確な関係性というのが存在していたかどうかが曖昧だからだ。最初は仕事の取引相手だったが、本来は敵対関係にあるようで――実は裏で、タルタリヤよりも上の存在との契約相手であって。
璃月での神の心を巡った、迎仙儀式に始まった岩王帝君の死による一連の騒動の後は、そういった絡み合った関係性が一度すっぱりと終わって、かと思えば共に食事する機会は変わらずあって。
タルタリヤと鍾離の間の関係性が一体何だったのかは、タルタリヤも、もしかすれば当時の鍾離も、あまり理解していなかったし、理解しようという気もなかったのではないかと、今のアヤックスは回想してみて思うわけだ。
しかし一般的に見て、共に食事することが一種の習慣と化しているのは、それこそ友人でもなければ早々ないのではないだろうか。
「俺からもはっきり言い切れはしないし、先生が何を思ってたのかは知らないけどね。まあ何も知らない周りからしたら、そういう風に見えてたんじゃないかと思うよ」
旅人に同行していた間は、旅人を介した同行者同士であるという明確な関係性があったが、結局のところその程度だ。友人と言い切れるほど仲を深めていたかと言われれば分からない。今のアヤックスは意図的にそうしているが、タルタリヤは友人なんていう存在を持てるような立場になかったのだから。
闘争の中に、忠誠を誓った神が世界に対して仕掛ける戦争における駒として、その身を置いていたのだ。大切なものは家族と忠誠を誓った神、それ以上に増やすわけにもいかなかった。どうしたってタルタリヤの身は一つで、手が届く範囲には限界があった。世界を呑み込まんとしながらも、それを諦められなど生涯しなかったけれど、守れる範囲を間違えるほどに身の程知らずではなかったから。
――友人、などという存在まで、抱え込めはしなかった。
「そうだったのか」
「たぶんね」
食事の誘いはどちらともなくしていたし、タルタリヤも鍾離も互いに好きなように話していたから、気を遣う必要のない相手として楽であったのは間違いないだろう。鍾離に至っては璃月の話や、様々な文化に関する話をタルタリヤに話し、それに対してタルタリヤがどのような反応を見せるか、どのような視点から切り返してくるかを楽しんでいた節もあったように見えたから、まあ。
互いに明確に言い表しこそしながったが、あれは間違いなく友人というやつだったのだろうと思う。
今の鍾離に記憶はないし、アヤックスとてタルタリヤの記憶を全て綺麗に覚えているわけでもない。最早今となっては証明のしようのない話だ。
「だから、鍾離先生が心配する必要ないよって話だよ」
「なら最後に確認だが、友人は『作らない』だけか?」
「作る必要性を感じてない、がより正しいかな」
「そうか」
その場の雰囲気に合わせることには慣れているし、顔色を窺うことも出来る。明確な友人という存在がなくとも困っていないから、作る必要性を感じない。授業で出された課題は自分でやれば良いし、連絡事項だって聞き漏らさなければ良いだけの話だ。
納得したらしい鍾離はもう普段通りの表情になっていて、要らぬ誤解はされずに済んだことを悟る。確かに当時の鍾離は凡人だと言いながらも凡人らしさの足りない男ではあったが、さすがに理由もなくぞんざいな扱いをしてくるようなことはなかった。
窓の外、掃除していた生徒たちはもうほとんど掃除用具を片付けている。梅雨に入り雨続きだからか、春ごろよりも生徒たちの動きはのろのろとしていた。下手をすれば泥まみれになるのだ、その気持ちも理解できないことはない。
そろそろ今日のところも解散かと、窓の桟に腕を置いて寄りかかっていた姿勢を正したところで、鍾離が引き止めるように「公子殿」とアヤックスを呼ぶ。
「本題に入ろう」
「え」
何を言うのだこの男は、とアヤックスはまじまじと鍾離を見た。
「共に過ごす時間が増やせれば、思い出すきっかけも生まれやすいだろう。そして俺は公子殿が図書室に行こうとするなら引き留めはしない。既に公子殿が本の虫だというのは分かったからな」
「……」
「昔は友人のようだったのだとすれば、昼食を共に済ませるというのもおかしな話じゃないだろう?」
「ああ、うん……」
「今のところ地理が専門なのは俺だけだから、地理準備室は俺が自由に使っていいことになってるんだ。周りの目を気にする必要もなく食べられるぞ」
むしろ最も鍾離と共にした物事は食事だったかもしれない、と思うくらいにはよく一緒に何かしらを食べていたし、璃月の食事処は美味なところを網羅していた気がする。旅人に同行するようになってからも、別の国で観光がてら食べ歩いている時には隣に自然と鍾離が居たような記憶さえあった。
生まれ変わってもこうなのか、とアヤックスはいっそ感動に近い感情の揺れを覚える。鍾離の提案は馴染み過ぎていた内容で、どこぞの店へ食べに行かないか、そうしようか、と簡潔だった当時の食事の誘いが脳裏を過ぎった。
「これから梅雨が明けたら、さすがにここでは暑くて話もしにくいだろうからな」
「……分かった。断る理由もないし、いいよ。条件も良いし、それに」
かつての博識な男を思い出す。あれは長い年月の積み重ねによるところが大きいけれど、相変わらず記憶力の良い様子を見れば、今生も様々なものを読んで知識を吸収しては自分の内に溜め込んでいるだろうことは容易に想像できる。
地理の授業中も様々な豆知識が飛び出しているし、この世界に関しては鍾離の方が先輩なのだ。アヤックスの知らないこともたくさん知っているだろう。
「先生がどんな本が好きなのかも聞いてみたいしね」
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それからというもの、二人の雑談場所は昼休みの地理準備室に変わった。
変わらず美しい所作でものを食べる鍾離は、やはりどことなく海産物には苦手意識があると聞いて笑いが止まらなくなってしまったのは今でも記憶に新しい。あれほど鍾離が嫌そうな顔をしたことも今生では初めて見たから余計だ。
鍾離のおかげで夏も冷房の中で快適に過ごせたし、夏が終わって秋になり、更に冬になってからも気温に苛まれずに済んだ。元は人目につかない場所で日向に当たりながら食べていたから、あのままであれば夏も冬も苦労しただろうと言えば、まるで猫のようだなと笑われたけれど。
話す場所を移すきっかけにもなった本の話もたくさんした。図書室で借りた本の話をすれば、アヤックスの後に鍾離がその本を借りることも珍しくなく、貸し借りの処理をする図書委員が不思議そうな顔をしていたが、それが噂になることはなかった。クラスメイトの図書委員は学年が変わっても物静かな性格の生徒ばかりで、それをクラス中に言いふらすこともなかったからだ。アヤックスの学校生活は平穏なものだった。
いつからか昼食後に図書室に向かうこともなくなって、しばらく後に揶揄うように鍾離に指摘されて若干腹立ったものの、鍾離の知識は相変わらず膨大だったのだ。本を読むよりも楽しめるからつい鍾離を優先してしまうのだ、とは絶対に言わないと心に決めた。
図らずも昔のように食事を共にする関係性に落ち着いていたが、億劫に思うこともなく、むしろ昼休みが楽しみでさえあった。
世界の在り様ががらりと変わって、鍾離に記憶がなくて、アヤックスも自分の欲を上手く慰める術を心得たから、手合わせこそなかったが――この平和な世界では、このような関係性が最も自分たちに適していたのだろう。年齢差と立場の差はあったが、教師と生徒というよりも、正しく友人のような間柄だった。
アヤックスは変わらずタルタリヤの記憶に浸ることで闘争を求める己を慰めていたけれど、何も知らない今の鍾離にこれを共有したところでどうにかなるとも思えない。それに運動神経は未だ健在だとはいえ、当時ほど過酷な状況で鍛え上げられた身体を持つわけでもなければ、武器などそう簡単に手に入るような環境でもない。
きっとこの闘争心に突き動かされるがままに行動したところで、この身はアヤックスの望むようには動かないだろう。そして思うように動かない身体で、闘争を愛するけものを満たせるとは考えられない。
だから出会いから一年が経ち、二年が過ぎ、そうして三年目に突入する間近になっても、鍾離が思い出さない現状は――悪いことではないのだろう。
麗らかな日差しは春の到来を予見させる。高校の卒業式は三月の初めで、これがあの国ならまだまだ雪に閉ざされていた頃だと窓から外を眺めた。もうすっかり馴染んでしまったこの地理準備室に来ることはなくなる。
「ついに俺も卒業かぁ」
この世界に生まれ落ちてからというもの、ここまで早く感じた三年間は初めてだったかもしれない。間違いなく鍾離の影響だ。記憶がなくとも鍾離はどこまで行っても鍾離で、間違いなく生まれてこの方凡人であるはずなのにどこか抜けている部分もあって、そういう部分を見るのも面白かった。
アヤックスは進学する。就職する生徒は数パーセントで収まってしまうし、家族も行きたいならば行きなさいと背を押してくれたから、興味の惹かれる学部があった大学に通うことに決めた。無事に合格したから、四月からは晴れて大学生である。
ほとんど毎日のように昼食を共にしていたけれど、この学び舎を卒業してしまえば、明確な関係性は教師と生徒というそれだけしかなかった鍾離とアヤックスの関係は皆無になる。
長期休み中は偶然出先で行き会った以外は会っていなかった程度に、鍾離とアヤックスはただの教師と生徒である。丸三年近く、長期休みのことを鑑みても二年は関わりを持ち続けていたが、鍾離の記憶は戻らない。
会う機会がなくなれば、尚のこと思い出すきっかけは減るだろう。きっと鍾離はただの凡人として、この世界に生まれた普通の人間としてこれからも生きて、そうして死ぬ。それはきっと望ましいことで、アヤックスのように記憶を取り戻すことこそ不幸なのではないかと思う。
アヤックスはまだ良い。ただあまりにも闘争を愛しすぎたが故にそれなりに苦しまされたが、それでも人間の人生としては決して長くはない時間だったから。
だが契約の神であるがために、酸いも甘いも、苦しみも悲しみも、忘却という一つの救いを、神であるがために与えられなかった彼は。六千年を越える時間は、ただの人間に耐えられるものではない。
「公子殿は優等生だったな」
「成績優秀、欠席も稀、生活態度も良し。びっくりするくらい生徒の鑑だったね」
「自分で言うのか……」
「だって事実だろ?」
「確かに公子殿は真面目で、必要なことであれば面倒がりながらもしっかりこなしていたな。生徒会長こそ断っていたようだが、文化祭委員として文化祭では催しの準備に励んでいたし、根回しも怠らず完璧にこなしてみせた」
「え、なに先生、どうしたの」
「担任を受け持つことが出来なくて少々残念に思えたくらいには良い生徒だったぞ」
「何なんだ……そんなに褒めても何も出ないよ?」
自分で淹れた茶を啜りながら褒めちぎられても困惑するばかりだ。今生の別れにでもするつもりだろうか。鍾離がそのつもりならアヤックスはそれでも構わないが。思わず怪訝な顔で鍾離を見れば、カップを置いた鍾離が徐に携帯を取り出す。
持っていること自体は知っていたが、基本的に教師が生徒の前で携帯を使う場面はない。昼休みも話してばかりだったから、アヤックスも鍾離も互いに携帯を取り出すようなことはほとんどなかった。
だから一瞬、鍾離がなぜそれを取り出したのかが理解できずに首を傾げる。基本的にどんなことであれ飲みこみの早いアヤックスがそうした様を見せるのは珍しいからだろう、鍾離は口元を緩めて目を細めた。
「公子殿も意表を突かれるとそうなるんだな」
「……えー、っと。つまり、それは連絡先の交換ってことで、合ってる?」
「その通りだ。分かっていたか」
「いや、そうか、ちょっと驚いたっていうか、考えもしなかったなって思って」
開いてしまっていた口を軽く手で覆い隠して、アヤックスは視線を彷徨わせる。関わりは立ち消えるだろうと予想していたが、それはアヤックスの思い込みだったらしい。動揺を押し込んで思考を回した。
別にアヤックスにとって悪い話ではない。連絡先が一つ増えたところでどうということもないし、知られたところで困らないからだ。とはいえ――本当にそれで良いのかと、冷徹に物事を見据えることを忘れてはならない。金珀の目を見返せば、涼やかな目元は柔らかく綻んでいた。そういう眼差しを、アヤックスは鍾離から向けられている。
かつての鍾離はどうだっただろうか。揺らがぬ磐石。不動の岩。愛するが故に、慈しみ守り続けたものを手放した男。長く、永く、見守り、見送り、看取っていた男。神としての彼のことはろくに知らないが、凡人として――かつての鍾離と最後に会った時、彼はどういう顔をしていただろう。
「公子殿?」
考え込みすぎたのだろう、意識を外側へと向けたアヤックスは、今の鍾離に目を向けた。
凡人だ。アヤックスよりもずっと。
「……昔のアンタはどういう目で俺を見ていたんだろうな」
一般的に見れば正気ではなかったとして、それでもタルタリヤは凡人だった。神の目に認められ、忠誠を誓った神から力を賜っていたから、本当の意味であの世界の凡人とは少しだけ離れていたけれど。
そうして凡人の域を飛び越えようとしていたタルタリヤを、彼はどのような目で見ていたのだろう。
記憶を思い出したがる今の鍾離を、アヤックスはどのような目で見れば良いのだろう。
「昔の俺の話か」
「まだ思い出したいのかな、って。正直途中からすっかり忘れてたけど、先生は元々俺に言いたかった言葉を思い出したくて声をかけてきたわけだろ」
「まあ……それもあるが」
「も?」
「単純に、公子殿とここで縁が途切れてしまうのは勿体ないと思ったからだ」
ぐわりと湧き上がった感情は何だろうか。
丸々三年近くアヤックスと関わり、平日は毎日のように頻繁に話し、食事を共にして、それでも飽きていないのか、とか。思い出すことを諦めるという考えはないのか、とか。自分はそんなにも惜しまれる存在になれていたのか、とか。
色々と思考はぐちゃぐちゃに混ざり合っていたけれど、それよりもずっと嬉しさが勝った。頬が少し熱い。記憶を思い出すきっかけ以外にも、アヤックスに思い入れがあったことが嬉しいと感じてしまったのだ。
気恥ずかしさから表情を隠すように顔を背けつつ、アヤックスは制服のポケットに入れていた携帯を取り出した。鍾離の目が煌めく。嬉しそうな様子が滲み出ている表情に、参ったなあとアヤックスは微笑んだ。
鍾離が記憶を思い出せなくても、言いたかったらしい言葉を聞けなくても、アヤックスは構わないのだけれど。
本当は手放したくなかったのだと、奥底に押し込めていた自分の感情を認めて。
「じゃあ大学生になってもよろしく」
「ああ、こちらこそ」
かつての鍾離と会話できたら嬉しいと感じるかもしれないが、今の鍾離が失われてしまうのも惜しい。そして、どちらかといえば後者の方が上回っていることも――認めざるを得なかった。
2020.12.17