命が尽きるまで

 それから一週間ほど経った頃、鍾離から「二人で会いたい」という旨のメッセージが送られてきた。メッセージのやり取りも少なくなり、アヤックスのアルバイト先にも来なくなっていた鍾離からのアクションが何を示しているのかは明らかである。
 どこか個室のある店でも良かったが、周りを気にせず話せる場所なら鍾離の部屋で良いだろうとのことで、アヤックスは約束の日、菓子折りを持って鍾離の部屋を訪れた。
 高校を卒業してからというもの、こんなにもやり取りが少なかったのはこの一週間が初めてだったし、最後に会ったのがあの日だ。
 さすがにアヤックスも過保護だっただろうかとか、少し恥ずかしいことを言ったのではないかとか、そんな余計なことまで考えて――鍾離は壊れずに済んでいるだろうか、変わってしまったのだろうか、なんて。
 柄にもなく緊張していたアヤックスを、鍾離はあの日の弱り方が嘘だったかのように穏やかに迎え入れた。
「あ、っと、これ、手土産ってことで」
「っふ、はは、公子殿は丸くなったな」
「開口一番がそれってだいぶデリカシーに欠けると思うんだけど!?」
「ははは、褒め言葉だぞ」
「言い方ってもんがあるだろ……」
 ああ、鍾離(・・)だ。
 感じていた緊張は、たったそれだけの会話ですっかりと消え去っていた。茶を淹れるから少し待ってくれと言い置いてキッチンに立った鍾離を、あの日座っていたソファに腰を下ろしたアヤックスはのんびりと待つ。
 前回の訪問は例外としても、確かにタルタリヤは璃月での一件が終わるまではそれなりに仕事相手としての付き合いだったからある程度は仕事相手らしい振る舞いをしていたけれど、それ以降はあまりそういった部分を気にしていなかった。今更菓子折りを持ってくるというのも妙に畏まりすぎているかもしれない。
 旅人に同行していた頃は異国で何故か共に食べ歩きをしていたのだ。改まるような必要は、鍾離の目で見てもなかったのだろう。
「月餅とは粋なことをする」
「あの頃のやつそのままのものを探す時間はなかったし、簡単に手に入る範囲で目に付いたのがそれだったからね」
 戻ってきた鍾離はテーブルに茶器一式を置いた。手土産としてアヤックスが持ってきた月餅もあり、ふわりと香る茶の匂いに、あの頃飲んでいたものと近いものであることを悟る。高校時代、地理準備室で鍾離がよく飲んでいたものも、璃月名産の茶に似たものだった。
 そういうアヤックスも、スネージナヤの文化に近いものを見つけるとどうにも惹かれてしまうから、鍾離も無意識に感じ取っていた部分なのだろう。アヤックスの隣に座った鍾離に、一週間前のことが脳内を駆け巡った。
「――記憶自体は、少しずつ思い出していたんだ」
 じわじわと、けれど人間の一生よりも長い時間を、何回にも、何十回にも分けて。
 夢に出てきた龍が言った通り、記憶はあまりに膨大で、とてもではないが人の身である鍾離に収まりきる量ではなかった。現代医学では人間の記憶容量は1ペタバイトに匹敵するとの研究結果がある。聞き馴染みのあるテラバイトの更に一つ上の単位だ。
 とはいえ、人間の脳の構造は「すべてを記憶する」わけではない。日常で引き出せる記憶は決して多くなく、ある程度は忘れるようにつくられている。
 朗々と語る鍾離の声に耳を傾けながら、アヤックスはカップに口をつけた。
()の言葉通り、記憶は溢れた。今の俺は岩の魔神モラクスでも、岩王帝君でも、凡人としてテイワット大陸を旅した鍾離でもない。この世界で生まれ育った俺と、それらとが混ざり合っている状態だ」
「自分の意識とかは? 俺の場合は前世と完全に地続きな状態だけど、先生は二十年以上生きてきてから思い出したわけだろう?」
「自然と『俺の記憶だ』と認識して見ていたから、意識の面で特に何が変わったかと言われると、変わった気はしない、というのが正直なところだな。『昔の記憶がある』ようになった、だけに過ぎない」
「……本当に鍾離先生は鍾離先生だね」
「さすがに当時とは身体のつくりが違うから戦えはしないが」
「それは俺もそうだよ」
「昔の公子殿を思うと穏やかになったと思うぞ」
「もう戦えるような世界じゃないし、大義名分もないからね。色々あったけど、先生の部屋がこうやって物で溢れかえってないみたいに、この世界に順応した結果だよ」
 なるほど、と鍾離は自分自身の部屋を見回した。記憶を思い出す前と思い出した後では、この部屋を見て抱く印象も異なることだろう。
 元より性質は昔とほとんど変わりなかった鍾離だ。部屋の中身が異なっているように、当時との環境の差によって生まれた違いこそあるけれど、同じ環境であれば同じことをするのだろうと思えるほどには性質に変化はない。
「記憶の方、溢れたっていうけど、むしろどれくらい残ってる?」
 昔から記憶力が良いと言っていたが、あれは忘却という概念を知らないだけに思われた。今生でも記憶力は良いようだが、所詮は人間の域を出ない程度のものである。限界があるのは当然のことだ。
 しかし昔の記憶を自分の記憶だと認識していたのなら、一週間前のあの疲労は単純に膨大な量によって精神が擦り減らされていたせいなのだろうか。それは本当に記憶の内容の如何ではなく、量によるものなのか。
「印象深い部分は残っているが、それ以外の細かい部分は抜け落ちてしまったな」
「印象深い部分……」
「ああ。例を挙げるとすれば、岩王帝君暗殺の一件はかなり鮮明に覚えている」
「狂言自殺だったけどね」
「間違いなく岩王帝君は死んだだろう?」
「……まあね」
 茶を啜って一息ついた鍾離が月餅に手を出したのを見て、アヤックスはカップの水面へと目を落とす。
 印象深い記憶――それはアヤックスが今も確かに思い出せるタルタリヤの記憶も、きっとそういうものに分類されるのだろう。ファトゥス第十一位『公子』としてタルタリヤの名を賜り、テイワット大陸に名を轟かせていた頃の記憶ばかりだ。
 鍾離にとっての印象深い記憶とは何だろうか。六千年を越える膨大な時間の記憶に、印象深いと言える時間はどれほどあったのか。
 だとすれば、あの日、あれほどまでに疲労していたのは――それをアヤックスが気付けてしまうほど、表に出したのは。
『駄目だな』
 あの抱擁は何だったというのだろうか。
「アヤックス」
「な……に? 先生」
 二人きりの時にそう呼ばれるのは久しぶりだった。弾かれたように鍾離を見れば、目を細めた鍾離がアヤックスの頬に手で触れる。あの日、疲れきっていた鍾離の触れ方と似て非なるものだった。触れ合う素肌がくすぐったい。
 目の前に居る鍾離は、間違いなく鍾離だ。
 けれどどちら(・・・)の鍾離か、分からない。なんだかんだありつつも旅人に同行した、魔神でありながら凡人になろうとした男なのか――丸々三年と少し、共に平凡な生活を送った正真正銘人間である男なのか。
 ――どちらでもある(・・・・・・・)のだろう。
 アヤックスがタルタリヤに戻れないように、今の鍾離は昔の鍾離に戻れない。けれど、間違いなくアヤックスはタルタリヤの記憶をこの身に宿していて、今の鍾離は昔の鍾離の記憶をようやく思い出すことが出来た。どちらでもある、が正しい。
 だとしても――記憶のなかった鍾離は、もう居ない。
「先週は情けない様を見せた。すまなかった」
「いや……それは、別に良いよ。先生の世話焼くなんて今更じゃないか」
「ふ、そうか。ちなみに先週『嫌わないでくれると助かる』と言ったが、覚えているだろうか」
「それも、ッ覚えてる……けど」
 浮かんでいる柔らかな笑みを、タルタリヤに向けられた記憶はなかった。ならばアヤックスにはどうかといえば、似たようなものはあったが、これほどまでに感情が表に出ているのは初めてかもしれない。
 そのくらいに、目の前の鍾離は慈しむような、痛むような、愛おしいというような眼差しを、アヤックスに向けていた。
 ――瞬きのために瞼を下ろした刹那、見覚えのない景色が映り込んだ。
「その与えられた加護らしく、流水のようだと思った」

 見慣れた、隙のない服装をした男は金珀の眼でタルタリヤを見た。ここでお別れだ。旅人に同行こそしていたが、タルタリヤはファトゥスの一人だった。世界に宣戦布告した愛する己が神の駒だった。彼女のために動くことはタルタリヤの義務であり、タルタリヤの願いの一つだったのだ。男の表情が哀切に歪んだ。
 しかしそれはすぐさま取り繕われる。突き刺さる視線はタルタリヤを逃がさないとでも言っているようだったけれど、それに引き止められるタルタリヤではなかった。男のことをそれなりに想っていたのは紛うことなき事実だ。だとしても、男と共に在り続けることは出来ない。タルタリヤはタルタリヤだからこそ生きられた。
 どこか一つ、何か一つ、余計なものを抱え込んでしまったなら、もうタルタリヤでは居られなくなってしまうから。
 この身は忠誠を誓う女皇に。この心は愛すべき家族に。もうタルタリヤに、誰かに渡せるようなものは残っていなかったのだ。そう、だから、男が何を言おうとタルタリヤは変われない。タルタリヤは闘争を起こし、それによって残した傷以外、他人にくれてやれるものなんてなかった。
 タルタリヤは男に背を向けた。生きていたらいずれ会えるかもしれないが、戦場に立つ身である以上確約は出来なかった。世界全てを呑み込まんとしながらも、どうあれ人の域から飛び出せない限り、それが難しいことなど知っていた。それでも諦められなかった。
 そう在る以外に、タルタリヤは生き方を知らなかった。

 目の前の鍾離を見る。背を向けた後、彼はこんな顔をしていたのだろうか。
「掴めない。捕らえられはしない。一つ所に留まり続ければたちまち濁る。だからその在り方を歪めてまで、離したくはないと思えなかった」
「……だから無言で見送った?」
 こつり、と鍾離がアヤックスと額を合わせる。痛いくらいに向けられていた視線が、鍾離が瞼を下ろしたことで途絶えた。厳格さを思わせた、作り物の彫像のように整っている顔も、こうして見ると確かに血の通った人間のそれだ。昔から、そうだった。
「彼女との別れも、後の世で誤った風説が定着してしまった者たちも、どれも印象深かったが――」
 不意に、気付く。
 鍾離が記憶を思い出したのなら、アヤックスはタルタリヤがあれほど愛してやまなかった闘争を、それを求める心を、鍾離に対して抑える理由などないはずなのに。
 それでも、欲望はこれっぽっちもアヤックスを突き動かしはしなかった。
「お前との別れは、何も特別じゃなかったからこそ、堪えた」
 それはそうだ。ふとした別れが永遠の別れになってしまう可能性は常に視野に入れていたが、だからといってタルタリヤに死ぬ気などなかったのだから。いつだって生きて帰ると思いながら、しかしこれが最後になるかもしれないとも考え続けていた。
 鍾離との別れとて、本当に別れにしたいと思っていたわけではない。別れなど望んでいなかった。死にたいとは思わなかったが、死んでしまう可能性は考えていた。それだけなのだ。そこに矛盾はない。
 誤算だったのは鍾離がずっと、タルタリヤが思っていたよりも、アヤックスが感じていたよりも、ずっと――タルタリヤを大切に想っていたらしいことだけだ。
「いってほしくなかったんだ」
 ゆるりと押し上げられた瞼の下から、金珀が覗く。
 アヤックスは家族を思い出した。大切な家族、それも下のきょうだいは可愛くて、守ってやりたい存在だ。痛みなんて取り除いて、苦しみから遠ざけて、そうして優しさの中で育ってほしい。それが見守る側のエゴであると気付きながら、そう願わずにはいられないことを。
 迷い子のようだ。鍾離に対して、初めてそんな風に思った。
 そして同時に気付く。あの疲労は、焦燥は、確かにかつての鍾離の痛みを回顧していたからだ。
「……そ、うか」
 ぽろりと零れたものがアヤックスの頬を伝った。鍾離の目が見開かれる。
「そん、なの、」
 今更言われたって困る。ああ、けれど、あの時聞いていたところで、タルタリヤは立ち止まれなかった。ごめんねと告げて、大丈夫だよと気休めの言葉をかけて、微笑みかけて、そうして。
 タルタリヤは二度と戻らない。
 だからきっと、更にあの男が傷ついただけに違いないのだ。
「ッ――」
 鍾離の背中に腕を回した。二人の間をゼロにして、ぼろぼろと零れるものを振り払うように鍾離の首筋に擦り寄る。
 あの男の抱える痛みに、まさかタルタリヤまでもが加えられていたなんて、そんなことは露ほどにも思わなかったから。
 あの男を友人と認めきれなかったタルタリヤの、あれ以上を抱え切れなかった、人の身の限界を今も覚えていたから。
「アヤックス」
 困惑したように鍾離の声がアヤックスを呼んでいる。すん、と鼻を鳴らし、その身体に体重を預けた。鍾離は揺らがない。ゆっくりと、鍾離の手がアヤックスの背を擦る。その躊躇いがちな手つきに、思わず笑みがこぼれた。
 視界は歪んでばかりだし、頬だって冷たい。けれどもう、ここはそれさえ凍るような過酷な世界ではないと、アヤックスは知っている。
「しょうりせんせい」
 身体を少しだけ離し、今度はアヤックスの方から鍾離の頬に触れた。両手でその白い頬を包んで、金珀の瞳を覗き込む。
「俺はここにいるよ」
 タルタリヤも公子ももう居ないが、アヤックスはここに居る。鍾離が先ほどから呼び続ける男は、確かにここに存在していた。
「今度は看取ってあげるから、安心して」
 なにしろ七歳も年が離れている。鍾離も体調をほとんど崩さない健康体だが、アヤックスとて怪我や病気の類にはとんと縁のない健康体だ。病院に世話になることなど予防接種くらいで、高校時代だって滅多に休まなかった。
 それに、前世であれだけ早く死んだのだ。今生では長生きしたって良いだろう。
 鍾離の表情がどんどんと歪んでいく。鍾離の手がアヤックスの両頬を包み込んだ。そっと目尻を拭った指先は酷く優しい。
 何度か躊躇うように吐息を漏らした鍾離は、花が綻ぶように笑んだ。
「そばにいてくれ」

 


2020.12.20