無様に愛せよ凡人ども

無様に愛せよ凡人ども

「君たちは仮にも七神の一柱が、凡人に負けるとでも思うのかい?」
 軽く両手を広げ、分かりやすく肩を竦めた。敵意にぎらつく瞳は嫌いではないが、それを暴力で捩じ伏せた後のことを考えられないほどの馬鹿ではない。これは必要なステップなのだ。
 全ては愛する祖国のため、そして家族と、忠誠を誓った己が神のために。
「信仰者である君たちがなによりも武神として名を轟かせ、この国を守護してきた岩王帝君を信じなくてどうする。信じているなら下らない噂話に踊らされるなよ」
 芝居じみた仕草で呆れたように笑えば、喧嘩を吹っ掛けてきた輩どもは顔を顰めながらも退散していった。今日はそこそこ賢い相手でなによりである。救いようのない者は耳を傾けることさえせず、敬愛する神を屠った疑惑のある相手に無謀にも戦いを挑んでくるのだ。怪我をさせずに昏倒させなければならないこちらの身にもなってほしいものだった。
 ひとけのなくなった路地裏で溜息を吐き、空を見上げる。薄青の空は明るく、そろそろ港も活発になり始める時間帯であることが分かった。
「結局夜通しだったな……」
 仕事が立て込むとすぐこれだ。銀行業務を主に行っている職員たちが全員戦闘向きというわけではない。しかし確かに返済をしてくれるならば宝盗団にも金を貸すのが北国銀行である。そういったならず者たちに対して、債権の回収に赴く人員はやはり戦闘向きである方が望ましい。
 現状、昼間はなかなか出歩きにくいタルタリヤが、夜中の方が行動が活発になる宝盗団たちの相手をしている方が効率が良かったというのもある。債権回収が目的である以上は威圧がせいぜいで殺し合いには持ち込めないが、まあそれでもずっとデスクワークをしているよりマシだ。
 とはいえ、宝盗団は拠点を璃月港の外に持っているのが大半である。移動時間と実際の仕事時間とを合わせると、タルタリヤが璃月港に戻ってこられるのが朝方になるのは仕方ないことだった。
 朝方寝て、数時間後には起き、昼食の時間になって人々の往来が激しくなる前に職場へと向かう。それが最近のタルタリヤの生活だ。基本的に睡眠時間は最低限で済む身体にはなっているが、夜通し仕事をする日が続けば疲労くらいする。
「――俺は大人しく帰るけど、何か用?」
 振り返らずに声をかければ、ざ、と靴底が僅かに地面と擦れる音がした。予定外の厄介事は先程の輩どもでもう満腹なのだが、果たして暫く己を観察していた気配のある男は一体何を抱いているのか。
 そちらを向かないタルタリヤにどう思ったか知らないが、気配は足音を隠すことなく近付いてきた。とん、と軽く背に触れた掌に、珍しいことをするものだと諦めて横を見る。この男とは顔を合わせることも会話することも珍しくないが、触れ合うことはとんとなかったというのに。
「何?」
「そう刺々しくするな。眠そうだな」
「仕事終わりだからね」
 タルタリヤが人の多い時間帯に出歩きにくくなった原因に言われたくはない。が、何を言おうとこの男には響くまい。肩を竦め、タルタリヤはじっと見つめてくる鍾離を見る。
 整った顔は道行く人々がふと振り返るような美貌だが、それも真顔で見つめられる側となるとときめきよりも先に不安が先立つし、なによりタルタリヤは鍾離の顔を見慣れてしまったのだった。その程度には、何故か未だに繋がりがある。
 眠そうに見えたのだとして、そこまで顔を見つめる意味が分からないが。とにもかくにも鍾離の視線より、背中に触れている手の方が気になったタルタリヤは身体の向きを変えた。鍾離に向き合うような立ち位置に移動して、出来る限り自然に鍾離の手から逃れる。
「そういう鍾離先生こそ、こんな早い時間から何してるの? 散歩?」
「そんなところだ」
「……ご老人か何かなのかな」
「む。睡眠がそれなりに重要だと判明したから、就寝時間と起床時間の調整を計っているんだ」
「あぁ、生活リズムのための散歩なのか」
 タルタリヤが見ていた限り、鍾離は神の心を手放す前も手放した後も性格や行動にあまり変化が見られなかったが、確かに変調はあったらしい。睡眠が必要となると、ずいぶんとこの世界の生き物らしい生活を送る必要が出てきたというわけか。
 となると、もしかして食事も栄養バランスなどを考えた方が良いのではなかろうか。タルタリヤが口を出すところではないし、そこまで世話を焼いてやる必要性も感じられないから言わないが。
 それはそれとして、タルタリヤが声をかけるまでひっそりとしていた意味も分からない。隠れる理由がないなら――むしろ隠れるという行為を知っているかと時折問いたくなるような堂々とした佇まいをしている男である。タルタリヤは首を傾げた。
「じゃあそれは良いけど、俺に何か用でもあったの?」
 公子の悪評が広まる璃月において、それらを気にせずにタルタリヤを食事に誘う鍾離なのだ。例えタルタリヤが絡まれていようが声をかけてきそうなものだし、実際に過去には夕食中にタルタリヤに絡んできた輩の一切を無視して食事を進めていた男である。
 思えば最近はタルタリヤの生活のズレもあって鍾離と会う機会が減っていたが、それが気になるような性格でもないだろう。確かに鍾離が元岩神だということを知っている数少ないうちの一人ではあるが、結局のところタルタリヤと鍾離はただの知り合いだ。
 タルタリヤの問いかけに少しばかり難しい顔をした鍾離は、そうだな、と一言置いてから言葉を紡いだ。
「寝るなら俺の部屋を貸そう」
「……は?」
「公子殿の借りている部屋は確か遠いだろう。俺の部屋ならば近い」
「いや別に大した距離じゃないけど」
「寝台も枕も良いものだぞ」
「そりゃあ先生のお眼鏡にかなったものならそうだろうけど」
「なにより静かだ」
 なるほど、確かにそればかりはタルタリヤが寝泊りする部屋にはない魅力だった。
「いやでも自分の部屋があるのに先生の部屋を借りるのも気まずいよ」
「無自覚か」
 まるで鍾離の方がタルタリヤのことを分かっているかのような言い草に、凪いでいた水面が波立ったのは事実だ。その勢いのまま言い返そうとしたところで、タルタリヤの言葉を留めさせたのは鍾離の手だった。
 手袋を嵌めた人差し指の背が頬をなぞり、親指の腹がそっと目尻をなぞった。
 目の前に見える金珀は、まだ薄暗さの残る空の下で爛々と輝いている。
「公子殿に庇護が必要ないのは知っているとも」
 するりと顔に触れる手が離れたかと思えば、その手に腕を掴まれた。簡単に解ける程度ではないが、抗えないわけではないくらいの力で。ぐい、と引っ張られ、引き摺られるようにして勝手に足が動き始める。
 では何故目をかけるのかと、問うための言葉を考えようとした頭は飛び込んできた朝日の眩しさに焼かれてしまった。

 

 非常に良い睡眠だった。なにせ寝具が良い。身体を包み込むような絶妙な弾力。程よい重たさと柔らかさ。質の良い寝具とはこうも眠りを誘うものなのかといっそ感動するほどだった。ちなみにタルタリヤを案内した後、部屋の主はさっさと仕事に向かってしまったのだが。あの男の防犯意識はどうなっているのだろうか。

 ――預けられた鍵を返すために会いに行っても、受け取ってもらえなかったことが明確な始まりだったのだろう。
 否、本当の始まりはタルタリヤの行動にあったのだ。

 寝床は寝床であり、鍾離がタルタリヤを嵌めようとしている可能性は否定しきれなかったが、まあそれはそれ。あの男のやることなすことにいちいち突っ込んでいたら身が持たない、と状況を受け入れてしまったから。
 璃月港に朝方戻ってきて、そこを鍾離に見つかること数回。食事の席で鍵を受け取ってもらえないこと数回。繰り返した結果、仕事終わりに鍾離の部屋に寄ることが定番と化してしまった。
 一度経験したことには耐性が出来る。鍾離は必要であれば愛する者たちさえ欺ける男なのだと、タルタリヤは目の当たりにした。璃月に災厄の種を運ぶタルタリヤさえ駒として扱うのだと知っている。
 タルタリヤが禍の因子だからと本国から遠ざけようとしている采配には気付いている。そんな扱いに慣れた身には、禍の因子さえも駒として使いきった鍾離に対して、駆け引きで競り合おうという気は薄れていた。だとすれば、駒は駒だ。プレイヤーに対して気を遣う必要はない。
 どうせ転がされるのが関の山なら、無駄な労力は割かないに限る。
 それに。
 さすが鍾離というべきか、寝具も高級なものを揃えていて、ともすればタルタリヤが寝泊まりする部屋よりも寝心地が良かったのである。戦場で、たとえ木の上だろうと寝られる身ではあるが、身体を効率よく休ませられるならそれに越したことはなかったのだ。

 

「俺が言えることじゃないけど、先生、なんていうか」
「なんだ?」
「危ういよね。自分が強くていざとなってもどうにかなるから、なのかもしれないけど。普通はもっと防犯に気を遣うものだよ」
 受け取ってもらえない鍵を手の内で弄びつつ、もう通い慣れてしまった鍾離の部屋のベッドに腰掛けて溜め息を吐く。鍾離はといえば仕事に向かうための準備をしていた。
 仕事上がりだし汚れていることもあるし、と断ろうとした時には湯浴みさせられ、挙句寝巻まで押し付けられる始末。そうまでしてタルタリヤをこの部屋で寝かせたいのかと、鍾離の謎の執着に疑問は抱いているが答え合わせをするつもりは毛頭なかった。
 そもそも鍾離が答えを明かす確証もない。現状、質の良い寝床と良い睡眠、それからオマケに鍾離の部屋の鍵と、与えられているのはタルタリヤの方だ。タルタリヤが鍾離に対して差し出しているものなど、それこそこの部屋で眠ることそのものくらいである。
 まあさすがに何も返さないのは落ち着かないから、食事に行く際は概ねタルタリヤが支払っているものの、そんなことは今の謎の関係に落ち着く前からもままあったことだった。つまり今は非常に不平等な関係とも言える。
「防犯か」
「少なくとも一般人はそう簡単に合鍵を渡さない」
「間違いないな」
「理解はあるのか。……でも受け取ってくれない?」
「ああ。公子殿なら悪用することもないだろう」
「何なんだその謎の信用……」
 そんな関係を元契約の神である鍾離が黙認している以上、そう感じられるのはタルタリヤの視点においてのみであり、鍾離にとっては別の利があって、それゆえ釣り合いの取れた関係性になっているのだろう。
 往生堂は変わらず北国銀行の取引相手で、鍾離の知識は余所者であるスネージナヤの金融機関がこの商業の港で生き残るために役に立っている。となれば、タルタリヤは鍾離個人に害となることをする理由もない。
 個人的に戦って欲しいという欲求こそあれ、断られてしまえばそれまでだ。本当に戦う気のない相手にまで吹っかけるほどタルタリヤは見境がない男ではなかった。
 決めたことには梃子でも動かなさそうな相手である。タルタリヤは策略の類が不得手だし、鍾離を手玉に取れるとも思っていない。であれば、考えるだけ無駄というものだ。寝台に背中から倒れ、もぞもぞと潜り込んだ。
 これまた質の良い枕に頭を置き、鍾離の方を見る。寝心地の良い寝台に潜り込んで横になるだけの動作で、もうタルタリヤの意識はとろりと溶け始めている。ここは安心して眠って良い場所なのだという刷り込みがされてしまっていた。
 良くない兆候だという自覚がある。これはきっと弱みに繋がるだろう。けれどそれで立ち直れないほどではないし、仕事に支障をきたすほどに軟弱な鍛え方はしていない。その時はその時だ。
 野生動物の塒のような粗悪な場所で寝たこともある。訓練の一貫として眠ることを禁じられたこともある。意識が飛びそうになった時に水をかけられたことだってある。良いならそれに越したことはないが、底の底も知っている身にはどうということもなかった。
「公子殿、……ああ、眠そうだな」
「なに……」
「いいや、寝そうならそれで構わない」
 するりと鍾離の手袋を嵌めた指がタルタリヤの頬を滑る。睫毛を掠めて微かに音を立てた。本当に稀にだが、こうして寝台を借りるようになってから、鍾離がタルタリヤに触れるようになった。その時はいつもこうして、まるで壊さないようにしているみたいに、どうしてか人差し指の背で触れて、そしてほんの少しだけ親指が皮膚を撫でる。
 タルタリヤには鍾離の考えも、鍾離の欲も、何一つ分かりはしない。
 だとしても、鍾離が元契約の神で、今は凡人らしい生活をしようとしていて、タルタリヤとは食事をする仲で。契約には厳正であることに変わりなく、彼が行う評価も渡す対価も、それは間違いなくその対象と等価である。
「なんの契約もしてないのに、なんでこういうことするの」
 与えられているのはタルタリヤだ。寝床も部屋も鍵も、そのどれもが鍾離からタルタリヤに与えられている。それらに対して、タルタリヤは鍾離に何かを返しているのだろうか。食事代はこれらの対価足りうるものなのだろうか。
 眠気に思考を溶かされながらも口から滑り落ちた言葉に、鍾離はどうやら笑ったようだった。瞼が重たく、視界が狭苦しい。
「これは契約関係ではない」
 鍾離がそう言うのなら、確かにそうなのだろう。決して名前のついた関係性ではない。貸し与え、借り受けている。言葉にすればそれだけだ。それ以外のタルタリヤと鍾離の関係性は仕事相手くらいだろう。そのほかに付けられそうな名前は見当たらない。
 はて。
 では契約関係でないとしたら、これは一体どのような関係性なのだろうか。
 契約をなによりも重んじる存在が、そうでないと断言するのは、一体何なのだろうか。
「だから安心して休むといい、公子殿」
 契約関係でないのなら――どうしてタルタリヤに与えるのだろう?
 思考が溶けて、ほどけて、ばらばらになっていく。視界が狭く、暗く、閉じられていく。温かく、重たく、柔らかな眠りがタルタリヤを抱き込んでいく。その腕に抱かれて眠りに就くのは酷く安らかで、その心地よさをこの身はもう覚えてしまっていた。
「おやすみ」
 これもきっといつか手放す心地よさだ。なくす温かさだ。離れる声だ。頬に触れていたものが遠ざかる。この地を離れることになれば簡単に失われるものだと、タルタリヤは知っていた。さして苦しみはしないだろう。一つ所に留まれないのはいつものことだ。
 ああ、けれど。
 きっとそれは寂しいことなのだろう。