暫くタルタリヤは鍾離の寝台を借りる生活をしてきたが、元々昼間に出歩きにくくなっていたから昼夜が逆転していただけなのだ。つまり昼間に出歩きにくい理由がなくなってしまえば、そんな生活を維持する意味もなくなる。
人の噂も七十五日、とは隣国の諺だっただろうか。
物の流れは人の流れ。商業の港の物流は激しく、人の出入りもまた激しい。国を揺るがす大事件があったとしても、人々や商業を取り纏める璃月七星が正式な発表を済ませている以上、犯人探しは長く続かない。
岩王帝君暗殺の犯人が公子であるという噂は、次第に薄れていった。
それとほぼ同様に北国銀行の悪評も薄れ、ばたばたと方々へ慌しく駆け回っていた銀行員たちの仕事が落ち着いていく。璃月近郊のファデュイを取り纏めている執行官としてのタルタリヤの仕事も減り、銀行関係の業務も落ち着いたとなれば、最早昼夜逆転の生活を送る理由もないのだった。
タルタリヤが絡んでくる輩に傷を残さず伸してきていた実績もあったのだろう。絡まれることもなくなり、厄介ごとはタルタリヤの生活から消えていった。ちりちりと燃える火種の観察は嫌いではなかったからそれもそれで寂しい気がしたが、あれはタルタリヤの利に繋がらない火種だ。なくなったところでそれほどがっかりもしなかった。
元より素人相手なら苦労しないが、下手に騒がれでもして困るのはどちらにせよタルタリヤだ。吹っ掛けた方よりも吹っ掛けられた方が悪者扱いされるなんて心外である。それが冤罪ともなれば尚のことだ。
そんな気苦労も減り、昼夜逆転に近かった日々も終わりを告げてしまうと、朝方鍾離の部屋に行く理由もなくなった。良いことだ。代価の支払いを考えなくて良くなるし、鍾離の謎の企みも知らん振りできる。そのつもりもないのにまた冤罪を吹っ掛けるためのスケープゴートにされては堪らないから、良いことだった。
そのはず、なのだが。
生活が戻り出すと、今度は鍾離と昼食や夕食の際に行き合うようになった。
外食を躊躇する理由がなくなったこと、そもそもタルタリヤがよく行く店は概ね鍾離から教わった店であることが原因だろう。ささっと食事を済ませようと思うとやはりちらほらと見かける名の知れた屋台か、三杯酔や万民堂辺りが定番になってしまっている。
今日はどうやら常連の間では有名である香菱が居ることで、万民堂は賑わっていた。そんな万民堂の席の片隅で食事するタルタリヤの目の前の席に、鍾離は当然のような顔をして座っている。
「瑠璃亭や新月軒には行かないの?」
「あそこは予約待ちだろう。相応の額を払えば問題ないが」
「凡人らしい生活をしてるわけだ」
「それくらいの生活は出来るさ」
無限に金を生み出せなくなった凡人としては、身の丈にあった選択だ。まあどちらにせよ万民堂の食事が美味しいのは事実なわけで、タルタリヤが誘う以外で瑠璃亭や新月軒に行けなくとも困りはしないだろう。
椒椒鶏を箸で摘みあげ、口へ運ぶ。ぴりりと痺れる絶雲の唐辛子と胡椒が良いスパイスとなっていて、鶏肉のジューシーさを引き立てていた。合間に水を飲みつつ、さて次は水晶蝦にでも手をつけようかと視線で皿をなぞり、タルタリヤは動きを止めた。
直接は見ていなくとも、さすがに目の前からの視線に気付けないほどにタルタリヤは鈍感ではない。反応しようかしまいか逡巡し、水晶蝦に箸を伸ばすのはやめて顔を上げた。タルタリヤと目が合った鍾離は微笑んでいる。
「箸も随分上達したな」
「……おかげさまで、せっかく誰かさんが選んでくれたわけだし?」
「ふふ」
何故そこで嬉しそうにするかまったく分からないが、タルタリヤが使っている箸を選んだのは確かに鍾離とはいえ、実際にモラを支払ったのはタルタリヤの方だ。それなのに鍾離が嬉しそうにする理由は――タルタリヤが璃月の文化に親しもうとしているからか。
元とはいえ岩神である鍾離だ。この世界の誰よりも璃月を愛していると言っても過言ではない男だから、むしろ理由がそうである方が納得できた。タルタリヤは息を吐いて、今度こそ水晶蝦に箸を伸ばす。
タルタリヤにとって、鍾離の判断基準はあまり明確でない。しかし契約を重んじること、そして璃月を愛していることは数少ない事実だった。
過保護な神だ、と思う。まあ狂言自殺を図っている以上、民に対して甘いだけの神ではないし、それが悪いと言うつもりもない。ただ他の神を知る者として、こういう神も居るのかと思う程度だ。自分が守ってきた、そして自分の手を離れた民を、璃月というものを、鍾離は心の底から愛している。
そしてタルタリヤは別の神に忠誠を誓う、異国の民である。
「先生って本当によく分からないな……」
「む。藪から棒に」
「今までの積み重ねだよ。自分の胸に聞いてみたら?」
「……ふむ?」
「それは分かってない顔だろう」
水晶蝦を口に放り込み、ぷりぷりとした海老の身の食感を楽しむ。他の店で食べた味とは少々風味が異なるが、これは今日厨房に立っている香菱のアレンジによるものだろうか。旅人とも知り合いだという彼女とは少しばかり共闘した経験があるが、あのサバイバル精神を思うとこの皮の艶やかさにはスライムの何かが使われていてもおかしくないな、などと半ば現実逃避に思考を割いた。
璃月で生まれ育ったわけでもなく、結果的に璃月の成長の後押しをしたことになっただけの、実際は璃月に戦の種を蒔いていた男である。北国銀行は確かに璃月のためになっているが、タルタリヤ自身の行動はそうではない。
そんなタルタリヤに、どうして鍾離はあんなことをしたのか。意識のほとんどが眠りに浸かっている状態だった中で告げられた言葉の意味は。タルタリヤは何も分からないでいる。
これまでは分からなくても問題ないだろうと思っていたが、若干弊害が出始めてしまったのだ。予感はあったから、拒否しきらなかったタルタリヤに問題があったという自覚はあるけれど。
「先生の部屋の寝具、俺の部屋のより良いやつでさ。先生のとこのに慣れちゃったせいで、自分の部屋じゃちょっと寝にくくなっちゃったんだよ。先生のせいだ」
「っはははは」
「寝られないわけじゃないし、体調に影響出るほどじゃないから別にいいんだけど。俺をこんなにして何がしたかったんだ」
睡眠自体はとれている。単純に寝つきが悪くなったというだけの話だ。これまでは寝ようと思えばすんなりと眠りに就けたのに、鍾離の部屋の寝具に甘やかされてしまったせいで入眠に時間がかかるようになってしまった。
鍾離に責任を押し付けるように言ったというのに、鍾離は先ほどよりももっと楽しそうに笑っている。表情はそれなりに動く男ではあるものの、ここまで大きく笑うことはあまりないから少しばかり驚いてしまったほどだ。
もう一つ水晶蝦を口に放り込んで、タルタリヤはじっとりと鍾離を見た。笑いを収めた鍾離だが、その目尻に一瞬涙が見えた気がしたのは気のせいだろうか。いっそそうであってくれと思うほどだ。そこまで大笑いされるようなことを言ったつもりはなかった。
「笑いすぎだろ……」
「ふ、ふふ。すまない」
「いいけどね」
この男のツボはタルタリヤには一生かかっても分かりそうにない。次は何を食べようかと皿に視線を戻したところで、鍾離が「ならば」と口を開く。
「俺の部屋に寝に来ればいい。よほど遅い時間でもなければ応対できるし、追い出しもしない」
「は?」
零れ落ちた声は思ったよりも語気が強くなった。が、それで威圧されてしまうような鍾離ではない。事実、目の前の男はタルタリヤの反応など気にした素振りもなく茶を飲んでいる。心底訳が分からなかった。
防犯意識が足りないという話は確実にしたはずだし、記憶力が良い鍾離が忘れているはずもない。むしろ鍾離にとってタルタリヤは警戒するまでもない存在であると認識されている可能性が高いが、まあ確かにそこは否定が出来なかった。寝首をかくのは趣味ではないのだ。
しかし、タルタリヤが寝台を占領したら鍾離はどこで寝るというのか。少なくとも鍾離の部屋にある寝台は非常に大きく広いものだが、一つであることに変わりない。今までタルタリヤが寝台を借りられていたのは、完全に鍾離と生活リズムがすれ違っていたからこそなのである。
「……あの、鍾離先生? アンタも寝ないとダメな身体になってるんだって言ってなかったっけ?」
「そうだが」
「どこで寝るつもり?」
「寝台でだが」
「……まあ、確かに二人でも余裕のある大きさだったけど」
元より部屋の主は鍾離なのだし、鍾離が寝台を使うのは当然のことである。つまりタルタリヤがあの高級な寝台で眠りたい場合、鍾離と同衾することになるということか。
一度箸を置き、レンゲを手に取った。まだほかほかと湯気を立てている真珠翡翠白玉湯をすくい、口へと運ぶ。材料が少ないがゆえにその味をしっかりと堪能できるスープだ。やはりというべきか、他の店で食べたものとはどことなく風味が異なっているが、旨みが段違いだった。香菱が居る時の万民堂は別格である。
――ひとしきり真珠翡翠白玉湯を堪能して、タルタリヤはレンゲを置いた。
「うん、先生って時々馬鹿だよね」
「ば、」
「質の良い睡眠にちょっと飢えてる自覚はあるけど、そうまでして寝たいとは思わないかな。最終的には寝られてるし、ストレスってほどでもないからね」
誰が同衾するというのか。そしてこの男は裏側で結託していたとはいえ、元は敵であるタルタリヤに何の感情もないのだろうか。否、なかったからこそこうして呑気に食事を共にしているとも考えられるのだが。
タルタリヤが分かる鍾離のことは、数が少なく、至ってシンプルだ。
契約を重んじること。璃月を愛していること。
前者はまあ、置いておくとしよう。タルタリヤは北国銀行を介して鍾離と取引している立場であるが、そこは真っ当で健全な契約関係である。少しばかり鍾離の浪費が多いものの、璃月の一連の事件が収まってからは段々減少傾向にある。凡人らしさを学習しているようなので。
問題は後者だった。タルタリヤは各国で倦厭されている高圧的なファデュイの、その執行官である。ほとんどのファデュイ構成員にとっては上司であり、タルタリヤの命令となれば断れない。そういう、悪党の幹部なのだ。その上で、渦の魔神召喚を策として採用したのはタルタリヤで、封印を一時的に解いたのもタルタリヤだった。
己は災厄の種である。戦乱を呼ぶものである。禍の因子である。諍いの火種である。並べればキリがないほどに悪評はあるだろうし、噂には事欠かない経歴を持つ。タルタリヤが動けばそこには事件があるようなものだった。
そんな、同じ執行官たちでさえ疎ましく思っているタルタリヤと。
何故同衾など。
「公子殿は時々、躊躇いなく言うようになったな」
「そう? 俺は元々そんなに取り繕わないよ」
「取り繕いはしないが、あえて口を挟むほどに世話を焼く相手はそう多くないだろう」
「世話を焼くって、ハハ。大体、先生の財布の面倒見てたのは俺だろう?」
上品な仕草で食事を進めていた鍾離の視線が少しばかり泳いだ。さすがに自覚はあったようだ。なによりである。
本来は璃月七星が率先してやるべきだったはずの送仙儀式に必要となった品の代金を北国銀行が出していたことで、璃月の富豪たちからの風当たりはそこまで強くなかったという実績があった。だからあれは完全に必要経費だったと割り切っているが、それ以外のプライベートな部分の支払いはほとんどタルタリヤの奉仕である。
知識人である鍾離の存在は北国銀行の利に繋がるわけで、タルタリヤとしても鍾離から語られる薀蓄には興味があったし、多少の出費だったが相当な負担というわけでもない。別にさして苦労させられた――騒動後の悪評についても既にほとんど収まっているし置いておく――とも思っていないが。
「まあそれは冗談としても、俺は鍾離先生の世話を焼いてるのかな。先生は俺に世話を焼かれるような人じゃないでしょ」
「……ふむ。無意識か」
「無意識って、それ前にも言ってたね。何のことだか全然分からないよ」
「前回は、ああ、朝方のか。あれは完全に無意識だったのだろうが、今回は少し違うな。無意識というよりは、無自覚の方が正しい」
「無自覚?」
目が饒舌な男だ。真っ直ぐにこちらを見据える鍾離の視線を受け、タルタリヤはただそう思った。曲がらぬもの。不動のもの。磐石そのものであった神は、しかし人間の想像に及ばぬ長い月日を経て、滝に削られる崖のようにその在り方を変えることを選んだ。
長く世を、人を見据えてきた男が、ひたと直視するのが果たして己であって良いのだろうか、とぼんやり思う。本当に凡人になりたいのであれば、平々凡々とは程遠い存在など、さっさと突き放してしまえば良いだろうに。
形の良い唇をそっと緩めて、鍾離はタルタリヤの目から視線を外した。その金珀が向けられた先を辿ると、そこにはタルタリヤの側頭部、禍々しさを思わせる緋色の仮面がある。
「そうであるからこそ、縛られることを知らないような顔をして立ち回れるのかもしれないが」
「……今日は遠まわしな気分なわけ?」
「そう急かすな。だが自覚を促すことが必ずしも良い結果になるとも限らないか」
「要は、俺は無意識に先生に世話焼いてるってことだよね。俺はそう思ってないけど、周りにはそう見えるとか、少なくとも先生にとっては焼かれてる気分だったとか、って話なのかな」
公子様はお優しい方ですから。部下から何度か言われた言葉だ。執行官である以上、その場合タルタリヤの比較対象となっているのは同じ執行官たちである。つまりどこかしら突き抜けている者たちなわけで、それは比較対象が悪いのではないかと返すのが定番と化した。
弟と妹の面倒を見ていたこともあり、面倒見が良い方だという自覚はある。あるが、別に他人に対してあそこまではやらない。あれは大切な家族だからだ。家族はタルタリヤにとって例外なのであって、それ以外の他者には基本的に平等である。
分からないと考えているのが顔に出てしまっていたのだろう、鍾離はくすりと小さく笑って、膝の上で手を組んだようだった。
「要約すればそういう話だ。間違いなく旅人とパイモンはそう思っているだろう」
「あの子たちは……俺が代わりにモラ支払ってたから、じゃない? 基本的にあの子たちって金欠だから送仙儀式用の品の代金にいちいち驚いてたみたいだし、特におチビちゃんはモラにも食べ物にも貪欲だしね」
「だが彼ら以外にも、俺との食事の支払いを公子殿がやっているのを見ている者は居る。偶然居合わせた店での支払いをしていたところも、店員は見ていただろうな」
「それってやっぱりモラ関係じゃないか……」
「食事代も、偶然行き会った時も、俺から声をかけたことはなかっただろう」
ぱちぱちと瞬きをする。鍾離との食事の時、鍾離を道端で見かけた時。その全てを記憶しているわけでも、仔細を覚えているとも言えないが、思い起こせるだけを脳内でさらい、タルタリヤは僅かに開いていた唇をそっと結んだ。
言われてみればそうだったのかもしれない。食事代は鍾離が財布を片手に逡巡していたからということもあったが、最近は寝台を借りている対価としてタルタリヤの方が率先して支払っていた。そして店先で行き会った時のほとんどは、鍾離が品物に意識を集中させていたから、タルタリヤの方が気付くのが早かった。
だから――声をかけていたのは確かに、いつもタルタリヤの方だったかもしれない。
本当だろうかと自問して、記憶をもう一度思い返し、覚えている限りはそうだったと自答する。いつの間にか俯いて口元に手を宛てていたことに気付いたタルタリヤは、信じられないと顔を上げた。
泰然とした笑みで、ただ鍾離はタルタリヤを見つめている。
「――それ、は」
「そこまでされてしまえば、俺としても疲れた様子の公子殿を見てみぬ振りを貫く気にもならなかった。一度声をかけて以降、顔色がまともになっていると分かれば尚のこと、な」
「っ、いや、でも、俺が先生の買い物の支払いを数回したこととか、そんなに貯蓄に響いてるわけでもないって知ってるわけだろう、先生。それに俺はファデュイだよ。しかも執行官だ」
「知っている。公子殿は、だから璃月に居るのだろう」
「そう……だけど……」
頭が内側から割れそうなくらい喧しく、警鐘が鳴り響いていた。これ以上は良くないと何かが告げている。それ以上はやめておけと、何かが訴えている。
けれど、目の前の男がそっと口を開くのを、ただ眺めるしか出来なかったのだ。
「それも一種の才能だろうが、俺から言わせてみれば公子殿も充分危ういぞ。――その諦念は、許諾ともとられかねない。そしてその許諾は、言葉を変えれば甘やかしだ」
「……」
「相手は選んだ方が良い。敵が多いのであれば尚のこと」
選んではいる。そのつもりだ。もしもスネージナヤに牙を剥く存在であれば目をつけておく必要があるし、その末路は惨いものになるだろう。だがもしそれがスネージナヤのためになる存在であれば、媚を売っておいて損はない。多少タルタリヤが身を削ったとて、どちらにせよ仕事が終わればまた別の地へ赴くことになるのだ。長居しないタルタリヤの害にまで繋がることはなかった。
――ない、はずだ。
鍾離が目を細める。そうすると、切れ長の目はより威厳を強めて見せるのだった。この男は凡人を名乗りながら、しかし魔神戦争を勝ち抜いた現存する魔神の一柱でもある。神の心を失ったとて、その積み上げた経験が消えるわけもなく、そうして積もった知識や経験が今の鍾離を鍾離たらしめている。
どく、と心臓が脈打つ。鍾離の荒れなど一切見られない唇が、とろりとした耳障りの良い低音を奏でた。
「でなければ、俺のようなものに付け込まれて、絡め取られてしまうからな」
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タルタリヤの感性がおかしいのだろうか。鍾離の言葉が耳にこびりついて離れない。あの言葉がどういう意味だったのか知りたくなくて、理解したくなくて、音ばかりを繰り返し再生し続けている。
慈しむようなというよりは、どこか熱が籠ったような。あの後ふ、と笑って食事を再開した凡人はそれ以上深く説明するつもりがなかったようだし、タルタリヤも思考が停止してしまっていたから、数日経った今でも謎は謎のままである。
分かりたい、と思っているわけではないはずだ。しかし思い出すたびに頭がぐわんと揺れるような心地がして、呼吸がしづらくなる。ふとした瞬間にそれが脳裏を過ぎるものだから、日常生活を送る上で若干の不便が発生するようになった。いっそ理解してしまえば良いのだろうかと思うも、それもそれで問題な気がしてならない。
タルタリヤはのっぴきならない状況にあった。意地でも仕事に支障は出さないが、だからといってプライベートが侵食されるのも気に食わない。
とはいえ、本人に直接意味を問い質すのも憚られた。
あの言葉をそのまま鵜呑みにするのであれば、鍾離はタルタリヤに付け込んで絡め取ろうとしていた可能性があるわけだ。実際にそうしているかどうかまでは明らかでないから、可能性があるとしか言えないのだが。
ならば鍾離に問い質しては、見え透いた罠にわざわざ自分から突っ込んでいくようなものである。タルタリヤには鍾離が分からない。鍾離の考えも、欲求も、タルタリヤに分かりはしない。そう、だから鍾離が仄めかしたとて、直接乞われていないタルタリヤが何もしなかったとして問題にはならないし、それで腹を立てられるのもお門違いなのだ。無知は罪となることもあるが、それが免罪符たりえることも知っている。
まずもって、往生堂と北国銀行という所属組織で言えば契約関係があるものの、鍾離個人とタルタリヤ個人の間に契約関係はない。それは鍾離が断言していたから間違いなかった。ならば頭を悩ませ続ける必要もないだろうと思っても、どうしたってあの声が頭の内で響くのだ。
――だからといって鍾離のことが相談できるような相手など、思い浮かぶのは一人とそのオマケくらいしか居らず、素直に相談を持ちかけられないという別の悩みが発生しているのだが。
タルタリヤと鍾離のことを知っているといえば部下たちも該当するが、まさか部下たちにこんな話を聞かせられるはずもない。彼らとしても上司のプライベートなところなど知りたくないだろう。それくらいは分かる。
だがタルタリヤはファデュイの執行官だ。鍾離も言っていたが、敵が多い身である。そう易々とプライベートにあたることを話せる相手など居らず、となるとやはり選択肢は一つきりだった。
「鍾離さんとはどうなの?」
だとしても、まさかタルタリヤからではなく相手から鍾離の話を振られるなど、まったくもって想定していなかったのだけれど。
璃月港に来ていた旅人とパイモンを見つけ、じゃあ立ち話も何だし今日は三杯酔にでも行こうかと誘って、なら公子の奢りだなとパイモンが盛り上がって今に至る。パイモンはまだ食べているものの、旅人は食後のデザートとして杏仁豆腐を食べていて、タルタリヤも食後の茶をのんびりと啜っていたところだった。
どうなの、と曖昧に聞かれても困るのだが、どうなのかと言うと。
「色んな意味で困る質問なんだよね、それ」
「え、なんで?」
「うーん、相棒が純粋すぎて俺の方が恐ろしくなってきちゃうよ」
「公子は鍾離と仲良かっただろー?」
「君もか。ああ、まあ、そうか。そう見えてた、のか……」
鍾離との一連の会話を思い出し、タルタリヤは息を吐いた。旅人が杏仁豆腐を食べていた手を止めて目を見開いているし、パイモンも口を開けている。よほどタルタリヤの弱ったような姿に衝撃を覚えているらしいが、テウセルの件でもっと情けない姿を見せていたのを覚えていないのだろうか。
一から十まで吐いてしまっても良いのだが、不純異性交遊ならぬ不純同性交遊ではないとはいえ、なぜか寝具を貸し借りする関係性が追加されてしまった男ども二人の話をされても困るだろう。タルタリヤなら相談されても返答に困る。
「……タルタリヤ、本当に鍾離さんと何かあった?」
「あったと言えばあったし、なかったと言えばなかったこと……になると思いたいな」
「どっちだよ! しかもそれ、あったって言ってるようなものだぞ?」
「詳細は伏せるけど、ないとは言い切れないかもな。というか君たち、俺に会うより前に先生には会ってない?」
「うん。辛炎と香菱には会ったけど、他は会ってないな」
「そうか。じゃあ、どこから話そうかな」
旅人が鍾離に直接聞いたら、鍾離は隠すことなく全て話すだろう。それは避けたい。だから旅人が鍾離からわざわざ聞き出すことがないように、しかし概要は分かるように話さないと、この優しい子どもは気が済まないに違いない。
旅人とパイモンに食事を促しながら、タルタリヤは口を開く。
「例の騒動の後の噂は君たちも知ってるだろう?」
「おまえが犯人だっていうやつか?」
「そうそう。俺だけだったら気にしなかったんだけど、北国銀行のスタッフにも冤罪を吹っ掛けられるとさすがに支障が出るから、人の多い時間は出歩かないようにした結果、一時的に昼夜逆転生活をしていてね」
「無関係の……いや本当に無関係かどうか分からないけど、吹っ掛けられたのか!?」
「信じ込みやすい盲目的な人間っていうのはどこにでも居るからね。本当に、噂の張本人の俺に絞って喧嘩を売ってくるなら良かったんだけど」
仕事の関係で銀行スタッフと外出した際に、危うく銀行スタッフが負傷しかけた事件があったのだ。全員が全員戦闘向きというわけではない。それにタルタリヤは悪評に苛まれて気疲れするような性格ではないが、スタッフはそうでなかった。
ならばタルタリヤは出来る限り他人と行動すべきではない、と判断したのである。その結果が昼夜逆転の生活だったのだが――ああ、鍾離にはその話をしていただろうか。記憶が薄い。
「昼夜逆転生活してたんだ……全然気付かなかった」
「話す必要もないかなと思ってたし、君たちと会うのは大抵が夕食の時間帯だっただろう? とにかく、そういう生活をしていたというのが前提にあって。夜中のうちに債権回収しに行って、朝方こっちに戻ってきて昼ごろまで寝て出勤してた時期があったんだよ」
「すごい生活してたんだな、公子」
「で、朝方戻ってきた時に偶然鍾離先生と行き会うことがあってね」
はあ、と息を吐いて、出来る限り簡潔にまとめられるように言葉を選ぶ。
「それで――俺もよく分からないんだけど……先生に世話を焼かれる羽目になった、というか」
「え?」
「公子が鍾離に、じゃなくて、鍾離が公子に、か?」
「君たちが俺をどう思っていたのか気になってきたけどまあ良いや。ええと……端的に言うと、お高いベッドだし、俺の部屋よりも近いし、静かだし、って理由をつけられて、先生の部屋のベッドを借りて寝るっていう時期が一時あったんだよね」
マイペースに各々何かを食べていた旅人とパイモンが動きを止め、二人で顔を見合わせた。そしてもう一度タルタリヤを見て、訳が分からないという顔をする。それはタルタリヤもしたい表情だった。
「な、なんでだ!? なんでそうなったんだ?!」
「俺も分からないんだよ。先生曰く、俺が先生に世話焼いてたからそのお返し? みたいな感じだったらしい」
「それで自分の部屋に招いてベッドで、タルタリヤを寝かせたの……?」
「確かに先生が使ってるベッド、本当に良いやつでね。寝心地は最高だ。二人も先生の部屋に行く機会があったら一度寝転がってみると良いよ」
「誰がやるか!」
威勢の良いパイモンに笑いつつ、タルタリヤの感覚がおかしいわけではないことを再確認する。部屋に招き入れるという部分だけを見ればまだ良いが、自分も使う寝台で寝かせるとなると疑問も芽生えるというものだ。茶を一口飲み、さて、と思考を回す。
相手が旅人とパイモンだとしても、全てを明かすつもりはない。そろそろどこかで話を切り上げないと、不要なことまで言ってしまいかねないのだ。どう話にオチをつけるか考え、視線を彷徨わせる。付け込まれるだとか、絡め取られるだとか、そういう話をするには彼らは少々幼すぎた。
「誤解されたくないから言っておくけど、噂も落ち着いてきたから、昼夜逆転も直してあるよ。先生の部屋も借りてない」
「タルタリヤが微妙な顔したのはそういうことだったんだね」
「納得だな」
「なんでそうなるんだよって思うだろう。しかもその時に預けられた鍵もまだ受け取ってもらえないし、俺には鍾離先生の考えてることが分からないよ」
「鍵?」
「先生は夜寝る生活だけど、俺は朝寝る生活だったからね。先生が仕事に行く時間に俺が部屋で寝てるから、必然的に俺が出勤する時に部屋を閉めるための鍵が必要になってたんだよ。で、結局鍵も借りてたようなものなんだけど……なぜか返そうとしても受け取ってもらえなくてね」
本気の溜め息を吐いて、タルタリヤはへらりとした笑顔で表情を塗り潰した。
「どうしたら鍵を受け取ってくれるかっていうのが今の俺の珍しい悩み事なんだけど、相棒、何か良い案はないかな?」
本当は旅人に託してしまうという選択肢があることにも気付いていたが、それをするとなんとなく鍾離の機嫌を損ねる気もしたし、タルタリヤが逃げたようにも思えるから返却を頼むのはやめた。
ぱちぱちと瞬きした旅人とパイモンは、お互いに顔を見合わせる。それから旅人は少しばかり悩むように、パイモンは溌剌とした様子で、ほとんど異口同音に言葉を紡いだ。
「鍾離さんのことなら、頼れるかもしれないひとが居る」
「鍾離のことなら、頼れるかもしれないやつが居るぞ!」
