無様に愛せよ凡人ども

無様に愛せよ凡人ども

「璃月に来るのはいつ振りかなぁ」
 人選――否、神選が間違ってやいないだろうか、とタルタリヤは旅人とパイモンを見たが、二人は特に気にしていないようだった。それで良いのだろうか。そしてこの目の前に居る少年の形をした神も、神の心を奪われた身として、それで良いのだろうか。タルタリヤには分からない。
 助っ人をモンドから連れてくるから、と言われた時点で、モンドにそのような人物が居るのだろうかとぼんやり考えていたタルタリヤも悪かったのかもしれない。ならば望舒旅館で落ち合おうという話で、相談する側になるタルタリヤが金を支払うのは当然だ、と構えていたのだが。
 まさか連れてこられるのが隣国の神だなどと、誰が想像出来るだろう。旅人が元々風神と知り合いであることは淑女からの報告で知っていたが、彼らはタルタリヤの立場を忘れている可能性が高い気がしてきた。そんなことがあってたまるか。
 思わず半目になりそうなのを抑え、向かいの席に座る少年が早速酒を頼みそうになるのを止めている旅人とパイモンに加勢する。
「えー、美味しいものを奢ってくれるって言うから来たようなものなのに?」
「せめて俺くらいの見た目なら止めなかったけど、旅館とはいえ公衆の目がある場所だ。その見た目で酒を飲まれたら俺の方がまた悪者扱いされるから、勘弁してくれ。食べ物ならいくらでも頼んでくれて構わないよ」
「あ、本当かい? それは嬉しいな」
「タルタリヤ……いいの? 遠慮しないよ?」
「それ、もちろんオイラたちもだよな? な?」
「二人のぶんも俺が出すよ。一応とはいえ連れて来てくれたわけだからね」
「やったー!」
 酒造業が盛んであり、言い方は悪いが酒浸りな者たちばかりのモンドとは違うのだ。自由の神とはいえ、ここは璃月なのだから、璃月の慣習を優先してほしい。これが個室であれば止めなかったが、ここは他の利用客も居る旅館のテラス席である。
 わいわいと注文している様子を眺めていれば「タルタリヤは?」と旅人が注文を聞いてくる。俺はいいよ、と手を振って、タルタリヤは頬杖をついた。先に旅館の予約を取り、のんびりと彼らの到着を待っていたものだから、既に腹は満たし終えていたし酒を入れる気分でもなかった。
 こういう時こそ人は酒を飲むのかもしれないが、余計なことまで口を滑らせてしまう可能性を少なくしておきたかった。それに万が一にも子どもの前では潰れたくない。
 とんでもなく品数があった気がする注文が終わり、従業員が居なくなる。ここは天権である凝光の息がかかった旅館だ。下手なことはする気もないが、すべきではないし、きっとタルタリヤが旅館を利用したことは既に七星の耳に入っていることだろう。そこもかしこも柵だらけである。執行官生活の中では慣れたものだが、ふ、と息を吐く。
「前より疲れてない?」
「そうだぞ公子。あ、もしかしてまたなんか悪さして無理とか……」
「してないよ。大体ね、アレは早々使わないから。言っただろう、抑えがきかなくなるって。あれは元からぽんぽん使うようなものじゃないんだ」
「じゃあ、悩み事のせい?」
「……どちらかというと、今目の前に居るモノのせい、かな」
 連れてきた旅人とパイモンもだが、ついてきた風神も風神だ。神の心を淑女に奪われているはずなのに、同じファトゥスであるタルタリヤを目の敵にするわけでもなく、平然と同じテーブルについている。
 一触即発といった雰囲気になるのが正解になるのではないのか、と思いつつ、既に神の心を持たない風神に対して、タルタリヤは何かをする理由がない。となれば、奪った本人ではない以上風神がタルタリヤに敵意を向けないのも当然の話なのだろうか。辺りを見回していた少年が大きな瞳でタルタリヤを見た。
「キミも悪い人なのかい?」
「少なくとも敵意を向けられるだけの理由はあると思うよ」
「でもキミに攻撃したところで、ボクの失くし物は返ってこない。違うかい?」
「違わないね。ずいぶんと合理的な考え方が出来るみたいでなによりだけど、奪われた側としてはそんなものなのかな」
「まさか。返して欲しいと思ってるけど――今日はボクの友のせいで困ってる人が居る、って聞いて来たからね。戦うためじゃないんだし、今日のボクらはそれで良いんじゃない?」
 タルタリヤの説明は事前に聞いていなかったのだろうか。旅人とパイモンに視線を向ければ、二人して首を横に振ったり両手を振ったり、何かしらの否定を示している。とりあえず伝えはしたのだろう。
 だがそれよりも――笑っている少年は、その見た目に見合わず二千年ほど生きている。なるほど、まあ自由そのもののような存在だ。タルタリヤが考えたところで仕方あるまい。
「柔軟な考え方だね。色々と気になりはするけど、それは嫌いじゃない」
「ふふ、なら良かった。ボクとしてもあのじいさんが積極的に近寄る相手っていうのは気になるしね」
「詳しいことは料理が届いてからにしよう。話の腰を折られるのは避けたいからね」
 どちらかといえば鍾離に積極的に近づいていたのはタルタリヤの方だった気がするが――いちいち指摘しなくても良いかと、テーブルに近づいてくる両手に皿を乗せた従業員を見た。あれきりというわけではないはずだ。一体従業員は何回このテーブルに来る羽目になるのだろう。
「あ、そうだ」
「ん? どうかした?」
「ボクはウェンティ。キミは?」
「ああ……『公子』タルタリヤ。ウェンティ、と呼べば良いのかな」
「うん、そっちで頼むよ」
 にこりと笑った風神は、そうしていると本当に少年のようだった。

 テーブルに乗り切らないかと思われた皿だが、届いた端から主にパイモンが消化していった結果、テーブルから皿が溢れることなく全ての品が無事に届けられた。よく食べるねえ、とそれを眺めるばかりだったタルタリヤは、旅人とウェンティから向けられる視線に苦笑する。
「そろそろ本題に入っても?」
「待たせちゃったね」
「といっても、わざわざモンドから来てもらってまで話すようなことではないと思うんだけど」
「旅人から、部屋の鍵を押し付けられた~っていうのは聞いたね」
 ならば最早タルタリヤが説明するまでもない気がするのだが、ウェンティはタルタリヤから話を聞きたいと言わんばかりにテーブルに肘をつき、指を組んで楽しげにこちらを見てきた。
 年齢だけで見ればタルタリヤが知る中では鍾離の次に年寄りな存在のはずだが、少年の姿も相まって随分と無邪気な印象を抱く。しかしその瞳には老獪さが宿っていた。鍾離も鍾離だが、ウェンティもウェンティだ。中身を知らない相手を騙すのは容易いことだろう。
 話すと言ってもどこから話せば良いものか。そもそもウェンティが璃月における騒動をどこまで知っているかにもよるのだが。
「相棒、例の件に関してはどこまで話してある?」
「あー……大体、全部」
「そう。いや、ありがとう。掻い摘んで話すにも面倒だったし助かるよ」
 気まずげにさせてしまった旅人には申し訳ないが、自分で話すよりずっと良い。にこにことタルタリヤと旅人を眺めるウェンティに警戒の欠片もないのも、もしかすればそのせいだったのかもしれないと思えば腑に落ちた。ウェンティにとってのタルタリヤは現状、あの男に良いように転がされた哀れな人間なわけだ。
 事前に鍾離とタルタリヤに何があったのかを知っており、その上で鍵を押し付けられたというところまで知っているとなると、いよいよタルタリヤはウェンティに自分の口から説明しなければならないことが見つからない。
 補足しようにも、知られたくないからと意図的に伏せた部分もあるのだ。どうするかと思案して、自身のポケットに手を突っ込んだ。
 取り出したのはシンプルな鍵である。旅人たちにも見えるよう、掌の上でそれを転がした。
「もう話すことが見つからないからそのまま直球で言うけど、これが先生の部屋の鍵。返そうにも『公子殿が持っていて構わない』の一点張り。あとは『悪用しないだろう』とか、よく今更俺に言えるよなってことばっかり言われる」
「白々しいにも程があるな、鍾離……」
「だろう? 俺もほとほと困ってしまってね。俺がこんなものを持ってたって仕方ないのに」
 両手を広げて呆れるパイモンに微笑みかけて、タルタリヤは鍵を握りこむ。片手に収まってしまうような小さなものに、これほどまでに振り回されるタルタリヤもタルタリヤだ。わざとらしく溜め息を吐き、ことりと鍵をテーブルに置いた。
 鍾離の方も、どうしてタルタリヤにこんなものを持たせたのか。考えたくなくて、だからとにかく返したくて――しかし真正面からでないと、きっと彼は諦めないのだろうという気がしているから、タルタリヤは動けなくなってしまったのだ。
 タルタリヤの様子をつぶさに観察していたらしいウェンティが口元に手をあて、ふむ、と一つ頷く。
「ボクの見立てだと、もうキミはじいさんの術中に居るよ」
「それはたぶん誰の目から見ても明らかだと思うよ……さすがに俺だってそのくらいは分かる」
「ありゃ、そうかな? そういうわりには抗おうという意志が弱いと思うけど」
 悪戯っぽい猫のような笑みでこちらを見るウェンティに、タルタリヤはああやはりこれも神の一柱かと肩を竦めた。全てを見透かしておきながら誘導尋問じみた話し方をする。逃がしはしないと遠まわしに言われている気分で、それは鍾離とのあの会話を彷彿とさせた。
 追い込み漁をされる魚はこういう気分なのだろう。となると結末は考えるまでもなく、タルタリヤは顔を顰め、こめかみを押さえた。そうだ、逃げ道などほとんど塞がれているようなものである。しかしあの男は「契約関係ではない」などと言い放った。まるでそれが唯一残された抜け道かのように。
 どこが抜け道だ、というのがタルタリヤの感想だった。それで逃げられたとして、あの男に諦めという言葉があるとはどうにも思えないのに。
 そういう、出来もしない凡人のような素振りをやってみせるのが嫌いだ。
「キミが本気で抗えば、凡人になったつもりのじいさんは結構堪えるんじゃないかな。まだボクは直接会ってないから、以前の彼から推測して喋ってるに過ぎないけれど」
「俺にはそう思えないな。例え堪えたとして、手に入れたいと思ったものはどうあれ手に入れるモノでしょ、アレは」
「あはは。なぁんだ、ボクが語るまでもないってくらい彼について詳しいね」
「……そう?」
「そこで不満げな顔するんだ。なるほどねぇ」
 両肘をテーブルについたまま、両手で顎を支えるウェンティは少年というよりも少女のようでもあり、中身を知る身としては複雑な気持ちになる。この顔で竪琴を爪弾き、詩を高らかに謳い上げるさまはさぞかし似合うことだろうが、騙されているような気分にもなりそうだ。
 旅人は茶を飲みつつウェンティとタルタリヤの会話を静かに聞いており、パイモンは杏仁豆腐に夢中になっていた。それくらい無関心でいてくれる方が今はありがたい。胸中に広がる靄にまた零れ落ちそうだった溜め息を飲み下して、ウェンティから視線を外す。見え透いた問答など、したいと思う者の方が稀だろう。
「彼は鍵をキミに渡した。そしてキミはその理由を――分からない振りで足掻いている。あのじいさん、気が長いからねぇ。決着をつけるにはキミが動くしかないだろう」
「それって現状を貫き通せば俺の勝ちじゃない?」
「貫き通せないと思ったから、キミは旅人たちに相談を持ちかけたんじゃなくて?」
 別の道を見つけたかと思えば即座に潰される。勝ち目が見えない。乾く口内を潤すために茶を含むと、嚥下音が思ったよりも響いた気がした。神経を逆撫でされている気分になってきて、これは駄目だと頭を振る。
「大体……見ての通り俺はファデュイの一員で、それどころか末席とはいえファトゥスの一人だ。俺には守るべき国と仕える神が居る」
「だからうつつは抜かせない?」
「生憎、これでも守りたいものがあるし、俺の指示で動く部下も居る。そういうものを俺は無責任に手放せないんだよ」
「それって、そういうキミにとっての大切なものと、あのじいさんが等量なんだって言ってるようなものだよ」
「――そうかもしれないね」
 腹芸は苦手だ。自分が見ない振りをしようとしていたものを、突きつけられることも。全部、タルタリヤが目を背けていたことだから。そして今行っている会話は、それらをひとつひとつ丁寧に詳らかにしていく行為である。
 けれどあの男に拓かれていくよりもずっとマシだ。自ら暴いた方が良い。そんなところまであの男にされては堪らない。
 どうやら乗りかかった船だからか、風神は存外に乗り気なようだった。にこ、と綺麗な笑顔を浮かべ、いっそ楽しそうにタルタリヤへ言葉を返す。
「じいさん、あれで結構な策士だからね。キミに迷いがあったら間違いなく見逃さないだろう」
「嫌な奴だな、そう聞くと。そのくせあっちは凡人初心者なところを見せて油断させるんだ」
「ふふ。キミは選択を迫られているよ。頑固で策士で抜け目ない男を受け入れるか、自分自身の立場や矜恃を守りきるか」
「どっちにしたって、俺は先生の思い通りになることが気に食わないんだ。なんでもない顔して俺一人どころかもっと多くを騙して、種明かしが済んでからも悠々としてる。余裕綽々って感じで、それが少しだけ――腹が立ってた」
「過去形なんだ?」
 目敏い風神がにんまりと笑う。完全にタルタリヤはあの男にとってただの駒の一つだったのだと気付かされて、少しばかりショックだった。だが想像と違う形であったにせよ、神の心という目的は果たしていて、ならば深く気にしても無駄かと切り捨てた。
 結果を出せれば良いのだ。己が神の命令はひとつ果たせた。あの件に関してはそれで良かったのである。
 表舞台を降りた鍾離が、知らず知らずのうちに思うように踊らされていたタルタリヤと、何を思ったか知らないが変わらず関係を維持したとしても。この男には惨めという感情への理解があるのかと疑問に思いこそすれ、タルタリヤはそれを手放しにした。
 鍾離の考えが分からないということが分かった。分からないなら、気にしても仕方ないと判断していた。手放しにした理由はそんな単純なものである。
 ――癇に障る、なんて言葉とは無縁だったはずだ。
 ふと卓上、茶碗の中の水面に視線を落とす。映りこんだタルタリヤの顔はどこか不満げで、幼子のようだと自分の顔に感じるには些か不似合いな感想を抱いた。タルタリヤは戦士だ。守るものがある大人で、このようなことに振り回されるつもりなんてなかったのに。
「ここまで来て簡単に折れてやったら、俺が譲ってるみたいで悔しいだろう」
 そう口では言いつつも、胸の内には重苦しい淀みがあった。あの時の鍾離の言葉の通りなら、タルタリヤは鍾離の行動を許していたことになる。けれど、タルタリヤも確かに鍾離に許されていたはずなのだ。
 声をかけていたのはタルタリヤの方だった。――そして、鍾離がタルタリヤの声に応えなかったことはなく、嫌そうな表情を見せたこともなかったのだから。
 その上で、鍾離はタルタリヤに鍵を預けた。
 何度返そうとしても受け取らず、まるでタルタリヤを、率先して自らの領域に招き入れるようにして。先に与えたのはタルタリヤなのだと男は言った。だから返そうと思った、と。
 知らず知らずのうちに理由を与えて、返され始めてようやく気付いたタルタリヤにも落ち度はあった。先に鍾離の気を惹いてしまったのはタルタリヤの方で――強欲で傲慢で、諦めを知らぬ男に、油断してしまったタルタリヤの負けだ。
「どうやらキミは全部、自分のことも分かってるみたいだね」
「……分かりたくはなかったけど」
「おや? でも、腹は括ったんだろう」
 本当は――物理的に距離を置いてしまえば良いだけの話だった。徹底的に避け続ければ良いだけ。鍾離の機嫌を損ねようと、関係を絶ってしまえばそれが煩わしくなることもない。分かっていた。あるいは鍵など投げつけでもしてやればよかったのだ。
 ――でなければ、俺のようなものに付け込まれて、絡め取られてしまうからな。
 もう勝手に逃げ出すことはないだろうと、確信を持ってから言うなという話なのだ。まるで自由意志を尊重するような言い分で、何もかもを見通しながら虎視眈々と獲物を待っている。勝てないのだろうと思う。だからこそ捻じ伏せてやりたくもなる。
 だからどうしたって、素直に認めてやりたくなくなるのだ。
 老獪な少年から顔を背ければ、ばちりと旅人と目が合った。後ろめたいような表情をしている子どもに、ふ、とタルタリヤは微笑みかける。
「先生に負けるのは癪だから、鍵は投げつけて、一回ぎゃふんと言わせてやれたら――考えてやっても良いかな、ってところだよ」
「……素直じゃないねぇ、ふふふ。じいさんに不満があったらボクに気軽に声かけてよ。お酒を奢ってくれればいくらでも聞いてあげるから」
「随分乗り気だね? 一応先生と友人なんじゃなかった?」
「だって、そうすれば彼に貸しを作れるからね」
 人差し指と中指を立ててふふんと笑う少年は、やはり神らしく非常に強かだった。

 ウェンティを客室に押し込んだところ、個室なら良いでしょ、と強請ってきたために望み通り酒を与えてやった。お酒だ、と目を輝かせていたのは確かに少年のなりに見合った表情だったが、抱えていたのが酒の瓶だったため絵面としては不健全であった気もする。
 タルタリヤは今日一日休暇を取っていたものの、明日には璃月港に戻らなければならず、酒盛りに付き合ってはやれないのだと伝えれば、ウェンティは少々残念がっていた。とはいえ飲まないという選択肢はないらしく、次は一緒に飲もうね、と言いつつ少年のなりをした神は上機嫌で酒を飲み始めていた。
「ウェンティ、酒豪だからさ。もしかすると潰されちゃうかもしれないから、回避したのは良い判断だったと思うよ」
「ハハ、さすがモンドの神様だ」
 出立の前に旅人に引き止められ、タルタリヤは望舒旅館の上層で柵に腕をつき、広々とした璃月の景色を眺めながら会話していた。パイモンは旅人がしたいことを察したらしいウェンティによって話し相手にさせられており不在だ。
 基本的に旅人とパイモンは離れることをしないから、二人きりというのは実は珍しいことかもしれなかった。あの騒がしい小動物が居ないだけでこんなにも雰囲気が変わるものかと、いっそ面白ささえ感じてしまう。
 しかし真剣な面持ちの旅人を茶化そうという気にはならず、タルタリヤは静かに子どもの言葉を待った。まさか鍾離の古い知り合いだからと風神を引っ張り出してくるとは思わなかったが、この子どもの善人な部分への理解はあったからこそ、巻き込むべきではなかっただろう。
「……あの話、連れてきておいて言えることじゃないけど、ウェンティに話して良い内容だったの?」
「しかも自分まで聞いて良かったの、ってところ?」
「……タルタリヤは意地悪だ」
「っはは。そんなに言いにくそうにしなくて良いんだよ」
 ウェンティとの会話中、タルタリヤは表情や仕草を取り繕うことをやめていた。腹芸が得意でないという理由もあるが、第一に風神相手に隠したところで無駄だと判断したからだ。なによりあの少年の形をした生き物には、鍾離と同じ気配があった。
 あの会話にはタルタリヤの弱い部分の情報が詰まっている。ファデュイの執行官として、外交官の権限も持つタルタリヤは内外問わず敵が多い。しかもこの望舒旅館は天権の息がかかった宿。利用客や従業員の耳に入っていてもおかしくはない。
 機密性を保持するのであれば客室で話すべきだった。それはタルタリヤとて承知の上だ。
「先生の存在が、俺の敵たりうる者たちにとっての俺の弱みになることはないからね」
 端的に言えばそれだけの話だ。疑問符を浮かべる旅人に、タルタリヤはもう少しだけ言葉を噛み砕いた。
「もし俺の弱みが先生だ、と俺の敵に伝わったとして。先生はそのくらいで害されるような奴じゃないし、それくらいで死ぬならそれまでだ」
「相変わらずの思考回路だね……」
「それに俺が先生に弱いってところを逆手にとって、先生に対して俺をダシにした脅しが行ったとして――先生はそんなのに素直に脅されるような奴じゃないし、例え俺が襲われても負けないから問題ないよ」
 タルタリヤを交渉材料に使うような輩が現れるかどうかは不明だが、それで鍾離が折れるというのも信じ難い。お門違いにも程があるのだ。タルタリヤは鍾離に守られているわけではない。
 加えて――今回の話が利用客や従業員たちから凝光に、七星たちに伝わったとして、鍾離は旅人を導いて送仙儀式を主導した張本人だ。七星も悪く扱えないだろうし、タルタリヤの弱みとして扱うには、あの男は少しばかり使い勝手が悪い。今でこそ盤上の駒となることも厭わないだろうが、元はプレイヤー側の男なのだから。
「……っていうのもあるし、なにより君たちは、今回の件を俺の弱みとして扱えないだろう?」
 にっこりと笑みを作ってやれば、旅人は瞬きを繰り返す。
 ウェンティは鍾離の古い友人であり、旅人も鍾離にとっては友人である。つまりウェンティも旅人も、鍾離を大切に思いこそすれ、傷つけたり害したりする理由がない。むしろそれらから守るためにと動くことだろう。
「俺を傷つけるため、俺を追い詰めるためだとして、先生が傷つくかもしれない選択肢を君たちは選ばない。だから君たちだけが、俺が先生についての話が出来る数少ない相手だったんだよ」
 彼らが鍾離の友人であり、善人であるからこそ成り立つ話だったのである。
「タルタリヤは物理的な被害を考えがちだよね」
「んー、そうだね。もしも俺が先生に弱いとか、先生に弱みを握られてるって噂が流れたところで……ダメージにはならないかな。俺の評価は俺自身の強さによるものだ。悪評が纏わりついたところでそれは変わらない」
 今度は鍾離と好い仲らしいという噂が流れたとして、それを直接鍾離やタルタリヤに問い質してくる者でも居ない限りそれは噂でしかない。明確な是さえなければ噂が真実になることはないのだ。
 そんなものは言わせておけば良いだろうと思う。だからタルタリヤが岩王帝君暗殺の犯人だと噂されたところで、タルタリヤはさして堪えなかった。昼夜逆転の生活のきっかけも、銀行員への被害があったからだ。
 いっそのこと鍾離が困った顔をするような噂が流れたら、タルタリヤとしては面白くなるのになと思う。
「策略、出来ないわけじゃないんだね……」
「これでも執行官として色々やってるからね」
 迎仙儀式からの騒動ではそれはもう見事なまでに踊らされたように、得意ではないのは事実だ。それがあったからこそ仙人と凡人は手を組むことが出来たし、タルタリヤの動きはモラクスが持っていた神の心のためにも必要なことだったわけだが。
 興味を持てないことが、策略を練ろうという意識を削いでいることは間違いなかった。
「さて、じゃあ俺は璃月港に戻ろうかな」
「応援してる。ウェンティの面倒はこっちで見ておくから気にしないで」
「なんだかタチが悪そうだし、その件に関しては後で埋め合わせをさせてくれ」
 互いにひらひらと手を振って、旅人は旅館内へと消えていく。そっとポケットの上から鍾離の部屋の鍵を撫でて、タルタリヤも歩き出した。

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 朝焼けが照らす璃月港は一段と鮮やかだ。さざめく海はきらきらと光を弾き、伝統様式の赤い建物は一層その赤みを強めさせる。こうした色彩は故郷にはないもので、けれど最早新鮮さを感じない自分自身に、璃月で過ごした時間を感じさせられた。
 天衡山から一人、璃月港を見下ろすのはいつ振りだろうか。
 孤雲閣に眠る岩神と因縁深い上古魔神の一柱を呼び起こした、あの嵐の日ぶりかもしれない。打ち付ける雨の中、痛む身体を引き摺って、タルタリヤは現れるだろう存在を待ち空を睨んでいたのだ。結局あては外れて、魔神は再び海に沈み、岩神はその死を強く璃月に刻み付けた。
 随分な狂言自殺だ。この世界は神によって統治されることを望んでいる。それを当然の摂理として受け入れている人々にとって、それはしるべを失ったことと同義だというのに。元よりその神の心を奪うつもりだった立場のタルタリヤが言えたことではないが、酷い男だ。
「ほんっと、酷いひとだよね、鍾離先生」
「――いきなり罵倒か」
「無言で背後に忍び寄ってきておいてよく言うよ」
「気付かない振りをして好きにさせる公子殿も公子殿だろう」
「……いきなり刺してくるね」
 横に並んだ男の方は見ず、タルタリヤは璃月港を見下ろした。故郷よりも温暖で、恵まれていて、商業が盛んで、経済の中心で。三千七百年という時間は、凡人には計り知れぬものだ。愛したものに一方的に別れを告げて、そうしてなお見守っている男の考えなど、タルタリヤに理解できるはずがない。
 それほどまでにこの地を、民を愛しておきながら、どうして異邦のものをその傍に置こうとしたのかなんて、もっと分からない。
「今回はどこから仕組んでたの?」
「人聞きの悪い言い方をする」
「俺が昼夜逆転する前? 後?」
「……公子殿はもう諦めたのか?」
 するり、と人差し指の背が頬に触れた。眠りに誘われていたタルタリヤに、度々鍾離がしていた触れ方だ。ただ輪郭をなぞるように、捕まえようとも汚そうともしないで、タルタリヤがそこに在ることを確かめているみたいな触れ方だった。
 タルタリヤはポケットを探る。もう何度も握ったせいで、掌にその形は馴染んでしまっていた。使った回数はそれほどでもない。鍾離のことを考えるたび、無意識に握りこんでいたせいだ。こんな小さなものに、タルタリヤは悩まされていた。
 横を向き、鍾離がしっかりとタルタリヤを見ていたことを認識しながらも、タルタリヤは鍵を握りこんだ拳をとん、と鍾離の胸に当てる。
 鍾離は虚を突かれたように金珀の目を見開いた。傷を知らなさそうな唇を僅かに噛む姿に、タルタリヤは目を細める。
「傷ついた、みたいな顔するんだ」
「……」
「絡め取るとか言って、自分で俺に気付かせておいて、諦められるんだ?」
 そんなはずはないだろうと挑戦的に笑えば、タルタリヤの手首を掴んで、鍾離は眉根を寄せた。眉目秀麗を絵に描いたような形をしている男のその表情は、タルタリヤの逆撫でされていた神経を宥めてくれる。そんな風になってくれないと、らしくもなく懊悩したタルタリヤばかりが損している気分になってしまうのだ。
 誤算だったのは、存外に鍾離にも懊悩があったのだと、そこで見抜けてしまったことだった。
「望んでここに在ることを選ぶよう、仕向けるつもりだった」
「つもり、だった? 本当に過去形なのかな」
「捕らえてしまっては意味がない。繋ぎ止めるというのも正しくない。公子殿にここ(・・)を選ばせたかったんだ。なのに逃がしたくない、と思うようになってしまった」
 手首を掴んでいた手が鍵を握りこむタルタリヤの拳を覆ったかと思えば、鍾離はそっと距離を詰めた。自然とタルタリヤの肘が曲がる。タルタリヤは額同士がぶつかるまで、近づく鍾離をひたと見つめ続けた。
 タルタリヤの瞳を覗き込むようにしている鍾離の瞳は不思議な虹彩をしていて、岩の心とも称される石珀に本当に似ているなと思う。しかし光を照り返して輝くさまは金属じみているようにも見えた。それは人ならざるものが持つ異様な美だ。
「そこまで来ちゃったのに今更悩むの? 臆病だな」
「公子殿にはそう見えるか」
「人間は欲がなくちゃ生きていけない。博愛で手に入るのは信仰だけだよ。俺にそんなものを求めてるわけじゃないだろ」
「信仰は必要ない。俺は凡人だからな」
「なら求めればいい。……ただの凡人程度に俺は囚われてやるつもりなんかないし、捕らえられると思ってるならそれはアンタの驕りだ。舐めないでくれるかな」
 必要だと思ったことに対して手段を選ばないのはタルタリヤも同じだ。欲しいもののためには手間を惜しまないことも同じく。諦められないと判断してしまったものを前にしながら、思い悩むことの何と馬鹿馬鹿しいことか。
 とはいえ、指摘してやろうという気は起こらなかった。
 まるで神のような気で居るのだ。望んだものを手に入れられる力が自分にあると、当然のように思っているのだ。神であるためのものを自ら手放して、望んでその座を降りたくせに。凡人になったと口にしながら、到底凡人らしくない考え方をしていることに気付かないままで。
「嫌だと思えば逃げるし、捕まってやる気なんかないんだよ。……簡単に捕まえられるだなんて思わないでくれ。俺はその気になれば確実に逃げ切るよ。例え鍾離先生からでもね」
 朝方の遭遇。食事時の邂逅。どれも避けようと思えば避けられたものだ。
 しかしタルタリヤはそれらを厭わなかった。もう、その時点で答えは出ている。
 睨み付けるようにしてそう言えば、鍾離は気が抜けたように小さく笑った。柔くゆるんだ表情は一片の緊張もなく、鍾離は静かに額を離す。遠のく鍾離の顔を見つめたままでいれば、掴まれたままだった拳を持ち上げられた。
 鍵を握りこんだままのタルタリヤの拳に、鍾離が目を伏せてそっと口付ける。
「持っていてくれ。出来ることなら、ずっと」
「……適当に理由つける前に、さっさとそう言えばよかったのに」
「素直じゃなかったのはお互い様だろう」
「何のことだか」
 とぼければ、拳から離れた唇が近づいてきた。それが何を求めているか分かっていて、タルタリヤは静かに瞼を下ろす。――溜飲は下がった。もう満足だ。
「公子殿の唇は柔らかいな」
「……恥ずかしいからやめてくれる?」
 朝日に照らされた黄金色は、柔和な光を宿して煌めいていた。

 


2021.1.17