とろとろとした微睡みに浸ることはそう多くない。この身は戦うため、戦場で生き抜くために鍛えられたものであり、眠る時はするりと眠り、異変を感じ取ればすぐさま覚醒するように教育されている。だからこそ眠りの浅瀬で遊んでいられる時は珍しく、そうしていようと考える自分は特別なものなのだと知っていた。
タルタリヤにとって、他人の匂いがする寝台は他人のスペースで、自分の居場所ではないはずだった。そういった場所に踏み込む時は、大抵は己が侵略者であり、略奪者である時であると。事実、少し前まではそうだった。
だが今は鍾離の部屋に自ら足を運び、自ら寝台に寝転んで、この身を拓かれることを良しとしている。思わぬ変化だ。タルタリヤにとっても、きっと以前のタルタリヤを知る者たちにとっても。あまつさえそんな他人の寝台で微睡んでいる、なんて。
横に寝転ぶ男の手が、タルタリヤの首筋をなぞる。耳の外殻をなぞり、その後ろへ。ほとんど急所である場所に触れる手を弾かないのは、その手に害意がないと分かっているからだ。
「先生、痕のつけ方がやらしいよね」
――正確には、その唇が刻んだ痕を確かめている手だから、だった。囁くような音量になった声は僅かに掠れている。情事の後はこうなりがちだ。なにしろタルタリヤを抱こうとする男は、あまり声を抑えることを許さない。
「つけて良いと言ったのは公子殿だぞ」
「そうだけど。……先生ってほんと、どこまで見えてるのかな」
とある任務が下った関係で、最近タルタリヤは鍾離のことを避けていた。出来る限り違和感は持たれないよう食事の回数を減らさないようにしたし、宴席では任務のことなどおくびにも出さなかったが。
途中から、街中で鍾離の姿を見かける回数が増えたような気がして、もしやと考えていたものの、間違いなく鍾離はタルタリヤの行動に気付いていた。別に気付かれようと問題が発生する可能性は無に等しかったが、関わらせるつもりは微塵もなかったからこその行動である。過去形だ。
気が変わった結果が今回の誘いであり、痕をつけることへの許可である。
どこで気付いたのかは分からない。しかし思い当たる節はあった。きっとあの見た目の年のわりに敏い子どもの影響なのだろうと思う。敏い鍾離を気にするあまり子どもに対しての意識が薄れていたのは、単純にタルタリヤの詰めの甘さによるものだ。
どうにも、幼い相手に対しては気が緩む。悪い癖だと息を吐いたところで、硬い指先が耳を擽り始めたため、咎めるようにその手を取った。
「ちょっと」
「駄目か」
「それ言えばいいと思ってるでしょ。まだ落ち着いてないから、加減してくれるかな」
ただでさえ抱かれた後で、その手に、指に、その身に、散々泣かされた直後である。僅かな刺激さえぴりぴりと身体を駆け抜けて、少しはまともになったはずの身体がまた欲深にも求め始めそうになってしまう。
明日も仕事の身である以上、さすがにもう限界だった。
「痕つけるのが楽しかったのは分かったから、大人しく寝てくれ」
鍾離の目元を暗くするように掌で覆い隠せば、ぱしぱしと長い睫毛が掌を擽る。間近で見つめることもあったから知っているが、本当に睫毛が長い。いっそ感動に近いものを覚えつつ、タルタリヤも段々と微睡みから本格的な眠りへ引っ張られていく。
最初は耳の裏。タルタリヤ自身ですら見えず、つけられた時に気付かなければ分からない場所。それから項。鏡を使ってもなかなか見るのは難しい場所だ。加えて、服を着てしまえば見えない場所にもいくつか。更にはタルタリヤか鍾離以外に見る者など居ないだろう、際どい場所にも少し。
今までも痕をつけられたことがなかったわけではない。それでも許可を出した途端にこれほどつけられては、この男にも独占欲というものがあったのだなという不思議な気持ちにさせられる。一番大切だったのだろう璃月を手放した男も、たった一人の人間にそんな欲を抱くのか、と。
瞼を下ろしたらしい鍾離の目元から手を退ければ、確かに金珀の瞳は瞼に隠されていた。タルタリヤも眠るために目を閉じる。途端、微かに笑みを含んだ低音が、内緒話をするように発せられた。
「俺はお前が何を企んでいるか、全てを見透かせるほど万能ではないさ」
「企んでるのは確定なんだ? っはは、でも安心してくれて良いよ」
下された任務は決して表に出せるものではないが、それは神の心を巡った騒動とは正反対のものだ。
「悪いことじゃないからね。俺たちにとっても、璃月にとっても」
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本国から唐突に下された任務とは、とある人攫いの処分である。
本来は他の執行官の子飼いだったらしい。なにせ他の執行官たちときたら、各々の好きなことをやるためには非人道的なことにだって手を出す。それは戦いが好きなタルタリヤが言えたことではないけれど、少なくともタルタリヤは戦う意思のない一般市民には手を出さない方だ。
そうして使われていたはずの人攫いは、段々とその行為をエスカレートさせていった。最初は執行官様のためだなんだと熱心だったのが、狂信の方向にシフトしたのだという。過ぎたるは猶及ばざるが如し、だ。使いにくい駒は切り捨てられる運命を辿る。
そのギリギリのところで、人攫いは他国へと逃げ出した。元より他国から人間を連れてくる仕事を担っていたのだから、その手のことには長けていて、まんまと逃げおおせた。いくつか痕跡は見つけられても、当の本人は既に逃げた後、というのを数回繰り返していたらしい。
技術を用いて人身売買業者になり今も生き延びている人攫いが、璃月に居るという情報を掴んだのが始まりだった。
ファデュイ内部では指名手配犯扱いの人攫いは、権力者に取り入りたがっているというのがこれまでの痕跡の残し方から察せられていたそうで、ならばと璃月配属ファデュイの最高責任者であり執行官であるタルタリヤも動くことになったのである。
そのために執行官であることを示しつつ、出来る限り一人行動することで、標的である人攫いに付け入る隙を見せようと街中をぶらついた。当然、その裏では部下たちに人攫いの根城や協力者たちの特定をさせており、タルタリヤは人攫いを誘い込むというよりもむしろ、部下たちの目くらまし役だった。
どちらにせよ、元はファデュイ所属であったのなら執行官の存在は知っているはずだ。その能力も、権力も、財力も、取り入るには充分なはず。そうして自分自身を釣り上げるための餌としながら、部下たちの目くらましの役を続けていた。
鍾離のことを避けていたのは、目敏い彼が、タルタリヤに向けられる人攫いやその協力者たちの目に気付いてしまうことを避けたかったからである。
元はと言えば身内の失敗の尻拭いだ。ただでさえ人身売買などどの国でも犯罪だというのに、万が一にも他国で人攫いが逮捕などされてしまえば、出身がスネージナヤであることが割れる。更に元ファデュイ関係者ともなれば、国家間での関係性の悪化は免れない。
今は凡人生活を謳歌する鍾離が気付いたところでどうもしなかったとして、人攫いに鍾離の方が目を付けられたら余計に面倒だったために、鍾離と会うのは基本的に個室のある高級料亭だけにしていた。
――『公子』は人殺しの戦闘狂ではあるが、潔白である。
運良く人攫い一味に潜り込めた部下から上がってきた報告書の一部に、そのような評価をされているとの記載があった。なるほど、戦闘さえ絡まなければ基本的に公子は真っ当であるから、人攫いが仕えていた執行官より取り入りにくいと考えたらしい。まあ納得の一言だった。タルタリヤに人間の肉体や精神を弄繰り回すような趣味はない。
とはいえ、さすがに失笑した。
策略を好かない。だから他の執行官たちとは少し違う存在に見える。実際のところたったそれだけの話で、タルタリヤが戦場で殺してきた人間の数は、きっと実験で犠牲になった人間たちの数とそう変わりないどころか、上回っている可能性だってある。
あまりにも馬鹿馬鹿しく、目尻に浮かんだ涙を拭って、そうか、と呟いた。タルタリヤの軌跡は最初から血で塗れている。けれどこの身を潔白だなどと評価する者が居る。戦場に立つタルタリヤを直接目にした事がない者は、もしかすればそう考えているのかもしれない。
そう思ったら戦いたくて仕方ない気持ちになって、けれど虐殺など起こせばようやく持ち直してきた璃月でのファデュイの評価がまた地に落ちかねない。璃月において、タルタリヤの心を躍らせる強者は片手の数で足りてしまう。それに誘いをかけたところで戦ってくれない者ばかりだ。
どちらにせよタルタリヤは餌であり目くらましである。部下が一味に潜り込めている時点で、今回の任務の終点はもう目の前だった。
この任務が終われば、また通常業務に戻る。銀行業務の書類に目を通しながら、外交官らしくスネージネヤと璃月の輸出入に関しても確認しつつ、璃月のあちこちにある遺跡の調査結果をまとめて本国に送りつつ、そんな平々凡々な日々がやってくる。
だから無性に、わるいことをしてみたくなったのだ。
凶器である水元素の短剣を消して、呆気なく事切れた人攫いの死体を見る。『公子』様も良いご趣味をお持ちのようだ、なんて言われた時には今すぐ殺してやろうかと思ったが、耐えたタルタリヤは褒められても良い。
「攫われた人間は?」
「解放中です。処分は」
「見ての通りだ。後は残党の処分だけど」
「そちらも恙無く」
「そう。じゃあこの死体の後処理はよろしくね」
「畏まりました」
部下たちに指示し、タルタリヤはその場を後にする。人攫い一味の根城はある宝盗団の一派の根城だった。人攫いは宝盗団と手を組んでいたが、それが運の尽きだったのだ。なにせ北国銀行はきちんと金を返すなら宝盗団にも金を貸す機関である。宝盗団のほとんどを把握していると言って良い。
まあ人攫いと手を組むような宝盗団も、宝盗団の風上にも置けないとのことで、他の一派たちから罰せられたらしい。彼らにも彼らなりのポリシーがあり、それゆえに各国で活動が出来ているのだ。
「……七星にも恩売れば良かったかな」
結果的に宝盗団とは協力関係が強まった。そして人が攫われて困るのは国であり、為政者たちだ。そんな事件が頻発すれば彼らは動かざるを得なくなる。その事態を未然に防いだ――あるいは大事になる前に解決したのだから、ファデュイの行ったことは璃月七星にとっても得だったはずである。
元はと言えば身から出た錆であったため、出来る限り外部に漏らさないことを重視していたが、出身や所属などは揉み消してしまえば良かった。岩王帝君が逝去した後の行政体制の変更の際には、タルタリヤを悪役とすることで市民の注目を集めさせて良いように進めていた彼らだ。そのくらいはやっても良かったかもしれない。
とはいえ、過ぎたことである。今更それらの手回しをするのも面倒だし、解決した以上は本国に今回の任務の報告をしなければならない。このところ必要最低限の業務しかやっていなかったから、任務を終えたところで仕事は山積みだ。
けれどまあ、璃月港に戻ったら、まずは食事でもしようか。
「ふー……っ」
ぐっと腕を上に伸ばし、脱力する。タルタリヤの動きに合わせてゆらりとピアスが揺れた。それで存在を思い出し、ピアスがついている左耳、その裏の辺りに指先で触れる。
付け入る隙を見せるため。潔白などではないというささやかな主張は、しかし目的のために隠されることなく、溶けるような夜の痕跡を示していた。普段であれば絶対に許さないそれを、まるで見せびらかすように、白昼堂々と出歩いていたのだ。
じわ、と頬が熱を持つ。
「……はあ」
任務こそ終わったが、これはあと何日で消えるだろうか。
2021.2.27
