檻の鍵は開いている

檻の鍵は開いている

 移動の際に他と紛れられて丁度良いからと、どこに赴くにしてもデットエージェントの制服は持ち歩くことにしているし、実際それを着て移動することもままあるが、今日ほどそうしていて良かったと思った日はない。
 が、この運のなさはその揺り戻しか何かか。出来るならこんな形で会いたくはなかった。西日さえ差し込まない薄暗い路地裏をわざわざ通っていたというのに、どうしてこの男は、とタルタリヤは仮面の下でぐっと顔を顰めた。
「璃月に戻ってきていたのか」
「あのねえ、そう簡単に看破しないでくれるかな」
「立ち振る舞いと水元素の気配で分かるぞ」
「それは充分凡人らしくないんだよ」
 湧き上がるものを押し殺し、呆れていますというポーズとしてこめかみの辺りを押さえた。
 無反応を貫いて通り過ぎてしまっても良かったが、璃月所属のデットエージェントでこの男を知らない設定というのも難しいし、そもそもとして相手は自分の判断を間違っているだなんて微塵も思っていない。否定も無視も無駄だと分かっていたから、タルタリヤは応えた。はあ、と息を吐きつつ今は胸元にある偽物の赤色に触れる。
 デットエージェントの制服ではあるが、この胸元の赤だけが他のものとは違う。タルタリヤのこれはガラス玉だ。本当の自分の神の目はコートの下、普段と変わらず腰の辺りで青く煌めいている。だがこのガラス玉をガラス玉と判断できる時点でただの凡人ではないのだ。
 元素の気配が分かる人間は神の目を持つ者に限られるし、人気のない路地裏を選んでいたとはいえ歩いていただけなのに立ち振る舞いと称して誰であるかを見破れる者なんて、神の目を持つ者以上に限られるだろう。
 この男が一般的という言葉から遠いのは相変わらずらしい。周りからそろそろ凡人ではないと察されてはいないのだろうか。そんなことを考えながら意味がなくなった仮面を外し、タルタリヤは目を細めて――鍾離を見た。
「息災なようで何よりだよ、鍾離先生。今日は久しぶりに見かけたから声をかけただけ?」
「それもあるが」
 鍾離の目が顔より上に持ち上げられる。黒いフードで覆い隠されている頭だ。途端に居心地の悪さと窮屈さを覚え、タルタリヤは肩を竦めた。油断するともう一方もまろび出そうで嫌だからあまり長居はしたくなかったが、鍾離に捕まると長くなるのは今に始まったことではない。
 タルタリヤもどうしたものかと考えていたところではあったから、鍾離の方から首を突っ込んでくるならば訪ねる手間も省けて都合が良かったのかもしれない。一応璃月で起こったことだし、長生きで博識な男の知識なら頼る価値がある。
 しかし路地裏とはいえまだ大通りが近い位置だし、立ち入る者が居ないとも限らない。商業の港は活発だからこそ、どこに目や耳があるか分からないため気を抜けないのだ。
「詳細については別の――人目のない、静かな場所で話したい。あては?」
「ふむ。こちらだ」
 ついてこいと言わんばかりに背中を向けられ、雑な扱いだなと思う。けれど決してその背は無防備ではないのだ。追いかけない選択肢はなかった。
 誰よりも璃月を熟知している男は淀みなく歩を進め、くい、と現れた角を唐突に曲がった。そのまま続くようにタルタリヤも角を曲がると、鍾離がそこで待っている。
 その手にあるのは壺だ。旅人が似たような壺を持っていた。塵歌壺。仙人が作った仙具の一つだと聞いている。
「静かで人気もなく安全だ。こちらの方が今の公子殿には都合が良いだろう」
 あの時は通行証を渡されてから招かれたものだが、旅人の話ではその通行証とやらがなければ出入りが出来ないのではなかったか。問いかける前に鍾離の手が蓋にかけられた。
 壺が薄らと開けられる。疑問を解消する暇もない行動に、まあ鍾離のことだからタルタリヤのことを害する目的というわけでもないのだろう、と無駄な思考を切り捨てた。
 静かで人気のない場所を要望したのはタルタリヤの方である。それに遠くの喧騒が聞こえなくなり楽になるのは事実だ。利点の方が大きい。蘊蓄の披露は息をするように行うくせ、こういう時ばかり端折ることには納得していないけれど。
 溜め息を吐くよりも先に、タルタリヤの意識は開かれた壺の中へと吸い込まれていった。

 タルタリヤは女皇と執行官たちの指示で各国を飛び回ることが多く、戻る場所と言えば祖国ではあるものの、ここ数年は祖国に居る時間よりも他国に居る時間の方が長いような気さえしている。仕事があれば移動は当たり前の生活だ。
 今回は璃月にて発見された秘境で、先遣隊が調査のために侵入したところ酷い幻覚に襲われて仲間同士で傷つけあうという結果を招いたとのことで、一人でも充分に調査が可能な公子に投げれば良かろうと執行官の誰かが言ったらしい。
 完全に顎で使われているが、戦闘が出来るならば、そして一人でも調査が可能であるという実力を認められたうえでの対応であるならば、タルタリヤに断る理由はなかった。
 そうして入った秘境は、確かに幻覚を見せてくる秘境だった。何が幻覚か、本当の敵はどこに居るのか、生半可な者では見破れない精巧なもので、先遣隊たちが太刀打ち出来なかったのも無理からぬ話だ。
 幻覚と物陰に隠れるように狙い打ってくる弓使いを的確に撃破しながら進むタルタリヤは、途中で秘境に違和感を覚えた。そこはギミックのある秘境だったのだ。
 厄介な幻覚に加えてギミックまであるとなれば、これはむしろタルタリヤに任務が回されてきて正解だった――そう考えながら隠されていた上に謎解きが必要だったギミックを解いた。それこそがタルタリヤの不運の始まりだ。
 耳と尻尾が生えたのである。それも、獣のような。
 そこから、幻覚はタルタリヤでなくても分かるくらい薄っぺらな影法師のように見えるようになり、物陰に隠れている弓使いたちの気配もありありと分かるようになって、確かに秘境攻略自体はずっと楽になった。今思えば、あれはギミックを解いた者へのボーナスのような仕込みだったのだろう。
 だから秘境に居るうちはまだ良かった。必要なかったが分かりやすくなったなら構わない。そこから調査をしながらどんどん進み、問題もなく最奥部に辿り着いて調査は終わった。
 本当の不運はそこからだった。

 鍾離の塵歌壺の中、どんと置かれた璃月様式の屋敷内。
 長椅子に座り仮面もフードも外したタルタリヤの頭には、髪と同色の獣のような耳が生えており、尾てい骨の辺りからはやはり同色のしゅるりとした尻尾が伸びていた。
 洞天は燦燦と日の差す昼間だからか、室内の明かりはついておらず、窓からの陽光だけが光源となっている。その仄かな薄暗さが今のタルタリヤには有難い。
「秘境内の地脈異常による症状は基本的に出れば治るものだが、見事に残っているな」
「博識の鍾離先生は、これについてどこまで知ってる?」
「推測は出来るが、その秘境にそういった仕組みがあったことを俺は知らなかったぞ」
「へえ……秘境自体は知ってた?」
「ああ。元は自然発生した場所だが、それを改造して利用した者がいたんだ。ファデュイが苦戦したという幻影は防衛機構として作られた。だがヒルチャールたちまで混じっていたのなら、もう俺が知っていた頃とは変わってしまっているだろうな」
「仙人の手でも加わってたのか、なるほどね」
 ヒルチャールが住み着いただけにしては弓使いばかりだったし、基本的に知能が低い彼らが、侵入者を的確に迎え撃つように物陰に隠れていたことも違和感がある。
 原因があるとするなら、アビスが何かしらの入れ知恵をしたか、あるいはアビスが防衛機構とヒルチャールを使うことで秘境の奥に隠したものを守ろうとしたか。
 どちらにせよ、ヒルチャールが住み着いていた、というだけでは済まないものになるだろう。タルタリヤがざっと調査した限りではあまりそういった痕跡は感じられなかったが、元々謎解きのボーナスがなくとも戦闘は難なくできていたタルタリヤにとって、この能力は過剰だった。普段ほどきちんと調査出来ていたとは考えにくい。
 あのギミックの解き方を共有した上で改めて調査させる、というのがタルタリヤが次に下すべき選択になりそうだ。再調査に向かわされた部隊が今のタルタリヤと同じ事態に陥らないとも限らないが。
 考えをまとめたところで、座るタルタリヤの横で獣の耳と尻尾を観察していたらしい鍾離に向き直る。
「それで、結局これは消えるものなのかな」
「定着することはないだろう。地脈の力を汲み上げて防衛機構の動力にしていたはずだから、公子殿に現れている異変も地脈の力が元になっている可能性が高い。だがそれらは本来、離れれば自然と消えていくものだ。今回は他の秘境と違い人為的に起こされた異常だから長引いていると見るべきか、術と公子殿との相性が良かったが故に残り続けているとするかは、もう少し」
「っ、触って分かるの?」
「見ているだけよりはな」
 手袋を外した鍾離が頭の上に生えている耳に触れた。さり、と音がする。思わず後ろに避けそうになる身体を抑えた。しかしどうにも耳の動きはコントロールが難しく、自分では見えないが変な動きをしているような気がする。
 わざわざ手袋を外したのは、そちらの方がより異常が感じ取れるからだろうか。すりすりと挟んだ指に擦られたり、耳の内側を親指の腹で撫でられたり、耳の根を軽く掻かれたり。ないはずの場所に与えられる感触にどこかで違和感を抱いているのに、それ以上に身体から力が抜けていくような気持ち良さがじわじわと広がっていく。明確に、おかしい。
「触られている感覚はあるようだな。聴覚や視覚と同じように、こちらも普段より鋭敏になっているのか?」
「さあ……っ、ふ、形も位置も違うし、よくわからない」
「ちなみに人間の耳の方は」
「ほとんど感覚、ない。音も、そっちから拾ってる、かんじ」
「そうか」
 言った記憶はないのに五感、特に聴覚と視覚が異なっていることを見抜かれている。思えば今の鍾離の声は普段のそれより潜められているような気がした。窓からの光だけが光源の部屋は、おかげで仮面もないのに眩しく感じない。
 デットエージェントの格好をしているのは耳と尻尾を隠すためだけでなく、フードと仮面で聴覚と視覚をある程度遮ることにあったのだということまで気付かれていたようだ。
「ほんと、どこまで分かって声かけてきたんだ、」
「街中であれば感じることのない乱れた気を感じたと思ったら、それが公子殿だったというだけだ」
「なんだそれ、っ」
 なら例えデットエージェントの格好をしていた者がタルタリヤでなくとも、この男は声をかけていたのだろうか。
 くだらない、可能性の話だ。耳から生えている毛を指先がふわりとくすぐってきて、堪えていた身体がついに少し後ろへと逃げた。鍾離がタルタリヤの目を見る。
 ゆるりと目を細めた鍾離は何を思ったのだろう。気になりはするが、どんな言葉を吐かれるか考えたくもないのもまた事実。余計なことはしないに限る。
「……治し方、それか治る時期は」
「尻尾の方も見ていいか?」
「そっちも見なきゃ結論出せないっていうなら考えるけど、今のと同じような触り方をしたらたぶん手も足も出るよ」
「やんちゃだな」
 じっくりと表情を観察するように見られていたら嫌でも悪い方向に考えは向くというものだ。頭上の耳から手を離した鍾離が、そうだな、と思案するようにその手を顎へあてる。
「これが生えた時に痛みはあったか?」
「なかった、と思うよ」
「そうか。相性も良かった上に、元々の能力の高さの影響もあるようだな。だが、これなら時間経過で自然と戻るだろう」
「かかる時間は?」
「早くて半日、遅ければ数日だな」
「まあ……待てるには待てるけど、手っ取り早く治す方法はないの?」
「七天神像を利用して体内の気の流れを正すというのも手だが、あれも例の秘境と同じく地脈の力を汲んでいる。しかも同じ璃月の地脈だ、逆に悪化する可能性も否定できない」
「賭けになるってことか」
 治るまでは大人しく過ごしている方が良さそうだ。自分の手で先ほどまで鍾離に弄り回されていた耳に触れる。しっかりと触れているという感覚があった。これが悪化した場合、相性が良すぎたという鍾離の言葉が事実なら、耳と尻尾以外にも外見に変化が出かねないだろう。
 術の詳細は知らないが、五感を強化するための機能としてこれらが生えているのだとしたら、次に生えるならヒゲかもしれない。笑えない冗談だ。
 耳から手を離したところで、すり、と奇妙な感覚を覚えたタルタリヤは、ぱっとそちらを見た。
「公子殿?」
「……どっちも、俺は自分じゃ上手く動かせないんだけど」
「ならば無意識的に動いているということになるが」
「……あいにく動物には詳しくないんだよね」
 奇妙な感覚だと思うはずだ。髪と同じ色をした尻尾が、控えめに鍾離の太腿に添わされている。間違いなくタルタリヤの意思ではないが、無意識の行動なのだとしたらそれはそれで問題なのだった。尻尾を添わせる意味とは何だろう。
 小さく笑った鍾離がその尻尾に触れたと思えば、尻尾は勝手に鍾離の手に絡まるように曲げられる。鍾離の目が面白そうに見てくるが、誓ってタルタリヤの意思ではない。
「そう、いえば。気が乱れてる? らしいけど、そういうのは仙人の得意な領域だろう。先生なら正せないの?」
「俺に体内の気の流れを操作されたいというなら構わないが」
「……良心的な対応に感謝するよ」
「迂闊なところも相変わらずのようだ」
「一言多いよ」
 話を逸らそうとしても上手く行かなかった。むしろこれでは自分で墓穴を掘ったようなもので、どうしようもない気分だと言うのに尻尾は元気に鍾離の手に絡まっている。
 はあ、と息を吐いたタルタリヤは、自分の手で自分の尻尾を掴んだ。鍾離の手から引き剥がして、反対の手で勝手に動かないように軽く掴んだままにする。鍾離は残念そうな顔をしているが、これ以上耳や尻尾から察されては困るのだ。
 タルタリヤの様子を見て苦笑を零した鍾離は椅子から立ち上がった。つい、と視線が壁際に向けられる。
「暇を潰すならそこの本を読んでいても良いぞ」
「まだ仕事でも残ってた? なら悪かったかな」
「いや、食糧がないからな。今ならまだ調達が間に合うし、買い物に行こうと思う」
「……ここで、治るまで過ごさせてくれるつもり?」
「部下に示しがつくつかない以前に、その五感の異常が治るまで外に出るのは苦痛だろう。好きに使うと良い」
 ファデュイは決して一枚岩ではないし、執行官だからといって下の者たちが害しに来ないとも言い切れない。公子タルタリヤは武功によって大陸に名を轟かせる存在ではあるが、だからこそ挑んできたがる者も居るのだ。
 それにここは鍾離の洞天ではあるが、外に出れば璃月港だ。結果的に最後となった迎仙儀式から時間が経っているとはいえ、まだ公子にまつわる噂が人々の記憶から消えたわけではない。弱味になり得る情報は握らせるべきではなかった。
 タルタリヤにとっては有難い話だが、今のタルタリヤはこの洞天に自由に出入りできる権限がない。これで相手が旅人であればここまで警戒しなくても良いかと楽観的に構える選択肢もあるが、鍾離相手となるとそれは悪手だ。
「俺、通行証は渡されてないけど? 治ったらきちんと外に出すと約束してくれよ」
「そう警戒せずとも幽閉するつもりはない」
 素手のままだった鍾離の手がタルタリヤの頬に添えられた。掌で頬を撫で、指先が顎の下を擽る。
「どうせなら手元で愛でていたいだけだからな」
「……惜しくなったから延長させる、は無しだよ」
「ハハ、しないさ。物珍しくはあるが、外で遊び回るお前もまた同じかそれ以上に捨てがたい」
 久しぶりなんだ、このくらいは良いだろう、と男が囁く。その裏に潜む感情を感じ取れないほど鈍感ではなかった。
 頭上の耳が変な感覚だ。ぴんと立っているのではなく、フードに押し潰されていた時のような、ぺたんと伏せているような形になっている気がする。
「気の乱れも俺なら完治したかどうかが分かるし、公子殿にとっても悪い話ではないだろう」
「そう、だね。……忘れないうちに報告書もまとめたいところなんだけど、俺は愛でられていれば良いのかな?」
「好きに過ごしてくれればそれでいい。お前がここに居ると感じられるなら」
 紙とペンであればすぐに用意出来るぞ、と鍾離は快諾してくれる。ファデュイがどういう組織か知っていて、その仕事の邪魔をするでもなければむしろ支援してくれるというのは、一般常識的には異端の類だ。ファデュイに属するタルタリヤにとっては有難いけれど。
 この男にタルタリヤを閉じ込めようという意図はないし、今すぐにでも出せと言えばきっと洞天から出してくれることだろう。鍾離はタルタリヤの自由を束縛しない。タルタリヤがタルタリヤであることこそを望んでいる節まであった。
「……」
 狂人と一部から囁かれていることも知っているが、タルタリヤとて一般的な感覚全てを失っているわけではないのだ。相応に感情はあるし、揺れ動きもする。だから罪悪感が全くないとは言わないし、タルタリヤにも、鍾離が抱いているような感情がないとは言い切れない。
 向けられる微笑みに息苦しさを覚えて、そっと鍾離から顔を隠すように俯いた。遮るもののない手に頬を擦り寄せる。きっと掌から温度の変化は伝わってしまっているだろう。
「そうされると、本当に猫のようだな」
「……爪じゃなくて武器が出るけど」
「やんちゃ具合は獅子以上だが、可愛いものだろう」
 魔神の前には獅子も猫も同じらしい。相変わらず規格外だが、それも鍾離らしい。どこかで張り詰めていた糸が緩む。
 ぐるぐると、鳴らないはずの喉が鳴りそうだった。

 


2022.2.22