polyhedra

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2.

 家に直接来るということは、少なくともあのお気に入りらしい窓辺の円卓に書き置きを残しておけば彼が読む可能性は高いとも考えられる。物は試しだと、朝のうちにさらさらと要件を書き記したそれを円卓に置いておいた。
 そして気まぐれに偶然が重なって、試みは無事に成功した。窓の外が暗く室内の明かりをつけている状態のこの家で、タルタリヤを見るのは初めてだ。向かい合った二人で挟んだ卓には美味しそうな食事が並んでいる。
「やってること自体は不法侵入なんだけど、家主としてはそれでいいの?」
「ファデュイに法を説いたところで今更だろう。それに公子殿は読書の場として以外にこの部屋にあの方法で来る気がないのは分かったからな」
 なにせ書き置きを見た昼間は間違いなく洞天から来たのだろうに、太陽が沈んでしばらくした頃にやってきたタルタリヤはきちんと玄関から、家主たる鍾離に迎えられる形でやってきたのだ。指摘してやれば、向かいの席に座ったタルタリヤは居心地が悪そうに視線を逸らした。
「そのファデュイのたった一回の行動で判断するのは、だいぶ判定が甘いと思うよ。大体、本と本棚と読むスペースを貸すだけだって言ったのは先生だろ」
「元より俺の家への出入りが自由に出来たところで、公子殿にとってさほど利点にはならないだろう。なっていたら出入り出来ることすら明かさなかったはずだ」
 璃月港外から璃月港に入る際に時間と手間の短縮が可能なことくらい分かっているが、わざわざ自己申告してきた時点でその機能を取り消される、あるいは通行証自体を取り上げられる可能性もあったのだ。つまりなくなっても困らなかった、そのくらいにしか考えていないと同義である。
 今後活用して悪事を働くかもしれないが、タルタリヤは既に岩神の神の心という最大の目標の確保を終了している。ならば璃月という国そのものをファデュイが攻撃しなければならない理由もない。何か問題が起きれば人間たちがどうにかすることだろう。
 少なくともあの時目の前の男が呼び起こした渦の魔神を退けるほどの力はあるのだ。神なき国となった以上、人間同士の諍いは人間の間で解決するのが道理である。そこに往生堂の客卿でしかない鍾離がわざわざ介入する必要もないはずだ。
 ファデュイは世界的な悪党で、タルタリヤはその中でも執行官の一人に数えられる大悪党だが、自らの能力と立場を理解しているからこそある程度は弁えている。第一、と鍾離は万民堂でテイクアウトしてきた料理を前にして言い放った。
「書き置きに『夕飯は万民堂のテイクアウトでも買ってくるから酒は頼むよ』なんて書き足して本当に買ってきておいて、今更悪ぶられても説得力がない」
「ファデュイに悪ぶるってすごい物言いだな」
「事実だろう。これが宝盗団ならごっそりと物がなくなっている」
「ごもっともだね」
 債権回収のために、最終的にはその命で支払わせる手も取るファデュイだ。人間を殺すことに躊躇いのない連中、しかもタルタリヤはその筆頭だが、璃月でも他人の敷地に勝手に侵入することは罪であると知っていたのか、と思った程度である。
 鍾離にとって、人間社会における善悪は二の次なのだ。当然法は存在しているからその遵守はされるべきだと思うが、どうあれ裁くのは鍾離ではなく法だ。そしてタルタリヤの持つ通行証が鍵となることを理解していてそのまま持たせている以上、タルタリヤの侵入は最早不法ではなく立派な合法だ。なにせその鍵を渡した者は家主自身なので。
 タルタリヤの杯に酒を注いでやれば、肩を竦めたタルタリヤが今度は鍾離の杯に注いでくれる。お互い目を見合わせ、すっと杯を持ち上げた。
「まあいいや、食べようか。乾杯」
「乾杯」
 今日は白酒だ。今回鍾離が用意した銘柄は酸味が程よく爽やかな飲み口であることで有名である。口をつければ果物のような香りが鼻腔を抜けていった。度数もそれなりだが、酒を燃料のように呷る冬国出身のタルタリヤには問題ないだろう。
 同じように酒を飲んで表情を緩ませたタルタリヤは、杯を置いて箸を手に取った。その手には見慣れた手袋が嵌められたままであることに気付き、鍾離はしばしそこに目を留める。
「どうかした?」
「読書の時は外すのに、食事の時はそのままなんだなと」
「ん、手袋の話? 外で食べる機会も多いから、いちいち手袋を外すのも面倒だろ。最初から手袋をしたまま使う練習をしていたし、本のページと違って困らないからね」
 言いながら、タルタリヤは上手くなった箸でミントの獣肉巻きを口に放り込む。確かに直前まで読書をしていない限り、食事の時は手袋をしたままだった。そういう鍾離も基本的に手袋を外さない。
 鍾離は本を読む時にも外さないが、タルタリヤにとっては本のページをめくる行為は手袋をしながらではやりにくい、繊細な動きなのかもしれなかった。そう思うと、どことなく柔いところを擽られるような心地になる。
 レンゲでかにみそ豆腐を掬い上げて口元に運び、味蕾を刺激する旨味に舌鼓を打ちながら鍾離はタルタリヤから視線を外した。食事の並んだ卓の上には、汚れないように離した位置に見慣れない本が置いてある。
「公子殿は存外に本好きだな」
「これでも万文集舎で手に入るような本ならそこそこ読んであるよ」
「任務の一環で?」
「慣れない策略のため、に読んだ本もまあまああったけど。帝君遊塵記とか、絶雲紀聞とか。でも竹林月夜とか連心珠とか、それとは関係ない物語は趣味で読んだよ」
「充分読書家だな」
 当然のように鍾離の観劇に付き合って、あれこれと会話できるところからも察せられる部分はあったが、タルタリヤは多趣味かつ教養の幅が広い。それが果たして生まれ育った環境によるものか、外交官の権限も持つ執行官という地位のために覚えたものかは分からないが。
 しかし彼の一番は戦うこと、そうして研鑽を積み、強く在り続けることなのだ。まったく才能とはままならない。
「その新たな蔵書はまたモンドのものか?」
「ああ。寄贈……二号かな? 今日は読み終わってる一巻しか持ってきてないけど、読み終わり次第続きも持ってくるよ」
「またシリーズごと買ったのか」
「先生にだけはそんな呆れたみたいな目で見られたくないな……」
 タルタリヤに通行証を渡す前準備として、タルタリヤが増やす蔵書用に本棚を新たに作って設置しておいたのだが、これは早いうちに本棚を追加しておいた方が良さそうだ。他国の本はあまり鍾離の書庫にはないから、タルタリヤが本格的に他国に赴けば今以上のペースでシリーズごと増えていくことになるだろう。
「あの書庫、九割九分が璃月の本だろ。モンドはもう概ね仕事が終わってるところだし、近くにいるうちに増やすのも悪くないと思ってね」
「……ああ、なるほど。効率的だな」
 風神の神の心も既に氷神の手に渡っている。そのぶん他の神の心はまだのようだし、タルタリヤが任務でモンドに飛ばされる可能性は低いだろう。
 四方平和をもぐもぐと咀嚼していたタルタリヤは、持ってきた本の表紙に目を向ける。鍾離の角度からでは読みにくいが、表紙には『犬と二分の一』と書いてあるように見えた。
「あそこになくとも璃月の本じゃ先生は読んだことがある可能性が高いけど、モンドの本なら読んだことのない可能性の方が高いだろう?」
「そうだな、逸話をまとめた話であればその当時にあの呑兵衛詩人から聞いているものもあるが、創作の物語なら知らないものの方が多いはずだ」
「あーそうか、風神から当時の話として聞いたこともあるのか。創作物語を選んで正解だったな」
「あれも真実ばかりを歌うわけではない。適当な詩だった可能性もあるから気にするな」
「先生って風神の扱いは雑だよね」
 笑みを含みつつ水晶蝦をかじったタルタリヤに、鍾離はむっと口を噤む。タルタリヤはバルバトスに会ったことがなさそうだが、実際に会えばああも扱いたくなるだろうと思うのだ。酒ならば基本的に何であろうと浴びるように飲む生き物である。しかも特に酔って浮かれている時の詩の信憑性ほどないものもない。
 とはいえ会ったこともない者に対する愚痴を零しても仕方ないと、鍾離も四方平和を口に運んだ。もち米の弾力とドライフルーツの甘味が程よく、満足感を得られる。鍾離が万民堂に赴く時は大抵が香菱の居る時だから、タルタリヤがわざわざ万民堂を指定してきたということは今日も香菱が居たのだろう。
 食事で思考をリセットしたところで、酒を飲んでいたタルタリヤが浮かべた笑みをそのままに、ぼんやりとどこかへ思考を遣ったような眼差しで言う。
「俺もまだモンドの本はそこまで読んだわけじゃないけど、本……物語も、国民性がかなり出るものだよね。劇も国によって劇場や舞台の様式から演じ方、そういうものががらりと変わるけど、本もやっぱりそれと同じだ」
「モンドの物語はやはり自由に感じられるか?」
「まあ展開が結構突拍子もない部分もあるけど、自由がテーマというか、登場人物たちの行動理念や、物語の展開からも感じ取れるなと思うよ。あとは文化もかな」
 鍾離がよく七神たちから各国の話を聞いていたのも今となっては昔の話だ。現代のテイワット全体をよく知るのは、おそらく鍾離よりもタルタリヤの方だろう。じっと見ていれば、鍾離の視線に気付いたタルタリヤははにかんだようだった。杯で口元が隠される。
「璃月の竹林月夜にも、モンドの蒲公英の海の狐にも、狐という生き物は登場する。けど、竹林月夜には仙人が出てくるのに対して、蒲公英の海の狐には文字通り蒲公英が出てくる。同じモチーフをメインに使っていても、周りの設定には『その国らしさ』があるんだ」
「確かにそうだな。そういった部分から、明言されずともどの国を舞台にしているかが分かる」
「そう。劇でも衣装やセットから舞台となる国が分かるのと同じだ」
 比較に度々劇を持ち出すのは、タルタリヤにとって劇がそれだけ身近なものである証左と言えるだろう。杯を置いたことで見えるようになった男の口元は、やはり弧を描いている。
 ふ、と目を細めたタルタリヤは目線を持ち上げなかった。手持無沙汰になったのだろう右手で箸を持って、けれどその箸が料理に伸ばされることはない。
「例えばこの本、貴族時代のモンドを舞台にした物語でね。ディートリッヒ・ローレンスという坊ちゃんが登場する。冒頭にも書いてあるからこれは易しい部類だと思うけど、モンドの歴史に詳しければ、この時点で大悪党の貴族の一家の坊ちゃんなんだってことが分かる。……あまり喋るとネタバレになってしまうからここで止めるけど、要はモンドの歴史に対する知識があれば、なんとなくこの先どうなるのかが想像がつく、ってこと」
「ローレンスか。聞き覚えのある苗字だ。それに貴族時代が舞台となれば、貴族がどういった性格なのか、周りにどのように扱われているか、読み進める以前に察せられるな」
「うん。璃月に岩王帝君の物語が溢れてるみたいに、歴史を知れば物語を読み解くキーにもなる……から、俺は他国の歴史を学ぶことも、文化を知ることも、物語を読むことも、面白いことだと思うよ」
 特に何を摘まむでもなく箸を置いたタルタリヤは酒を呷ろうと杯を持ち上げ、それから酒瓶に目を向けた。いつの間にか空になっていたらしい。らしくない一連の動きに笑い、鍾離はその杯に酒を注いでやった。
 饒舌だった様子から一変して唇を引き結んだタルタリヤは、鍾離と一度目を合わせ、それからむず痒そうに視線を外す。ふは、とついに笑い声が漏れた。
「わ、笑わないでくれるかな」
「そこまで慣れなさそうな反応をされる俺の身にもなってくれ」
「先生と話す時は自分のやったことを話すならまだしも、知識的な話だと大体先生が話す側で、聞いてばっかりなことが多かったから……これじゃあ蘊蓄が長いとか言えないと思ったんだよ!」
「聞いていて面白かったから俺としては構わないが」
「大人しく聞き手に徹されると調子が狂う……」
 日差しとは少々縁が遠いだろう冬国生まれの白い頬が僅かに赤く染まり始めている。しかし髪がかかって隠れ気味の耳は真っ赤に染まっていた。く、と込み上げる笑いを喉で抑えれば、キッと深い蒼の目で睨みつけられる。鋭いはずなのに可愛げばかりが際立っていた。
 モラがないことに呆れられたり、神の心の譲渡の際は少々拗ねられていたような気もしたが、ここまで調子を狂わせるタルタリヤは初めて見る。夜にこの部屋で見るのも新鮮だし、今日は珍しいものが見られる日だったようだ。
「公子殿は各国の文化に明るそうだな」
「揶揄われてるみたいに感じるからやめてほしい……仕事の影響だよ」
 溜め息を吐いたタルタリヤはまた酒を呷った。これが別の者であれば肌の赤さも酒精で誤魔化せただろうが、冬国生まれで酒精に強いことを知っている鍾離にとっては未だに羞恥が抜けていないことが明らかだ。未だ若い男の足掻きに微笑みつつ、鍾離はまた食事に箸を伸ばす。
 タルタリヤもまた箸を持ったが、皿へと向ける前に小さく呟いた。
「けど……せっかくの機会なんだから、何にしても楽しんだ方が得だろ」
「……公子殿は」
「うん?」
「その好奇心が美点であり、欠点だな」
 きょとんと目を丸めたタルタリヤが、今度は面白そうに笑った。
「それはもしかして、先生の強さに興味を持って手合わせの誘いを何度もかけていることへの皮肉かな?」
 やはり敏い男である。鍾離は答えずに酒を呷ったが、タルタリヤは羞恥心から立ち直ったようだった。

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 公子というコードネームらしく、所作に汚いところはないし、会話の端々から育ちの良さが感じられるタルタリヤだが、最も彼の名を世に知らしめたのはその武勇だろう。
 往生堂の客卿として出会ってまもなく、槍使いだということを知られた際にも興味を惹かれているような素振りを見たことはあった。送仙儀式を終えモラクスと知られてからは、明確に手合わせの誘いをかけられるようにもなった。
 が、今のところ鍾離はその誘いに応えたことがない。その一番の理由は、旅人との関係性から察するに、一度でも応えてしまえば強者と戦えることを喜びとする男が再戦を望むことが明らかだからだ。
 圧倒的に叩きのめせば叩きのめすほど、タルタリヤは燃え上がるだろう。研鑽を積み自らを磨き続ける武人とはそういうものだ。自分よりも実力が上の者の方が学びが多く、油断や慢心をしにくい。要は強くなるために都合が良い教材なのだ。
 そんなことに何度も付き合っていたら、まともな状態を保っている土地があっという間になくなるに違いない。さすがの鍾離も、神を辞めた今になってまで新たな山を作るつもりはなかった。
「あっはは、」
 ヒルチャールがずばんと水の刃で切り裂かれて塵となった。飛沫がきらりと光を弾く。それが近くのヒルチャールに付着して暴走した。傍に居たら巻き添えを喰らいそうで、よほど慣れた者でないと戦場で彼の傍には立てないだろうなと思う。
 無論、今のように旅人の探索を共にする際に共闘することもあるから、タルタリヤがきちんと敵味方の判断をして水元素を操作していることも分かっている。が、タルタリヤのことをある程度信用しないと難しいことには違いない。
 ヒルチャールの集落一つ程度であれば、よほどのことがない限りタルタリヤ一人で充分だ。誘った張本人である旅人さえ、パイモンと鍾離と共に離れた位置でそれを観戦していた。
「タルタリヤって、軽々とした感じの戦いの時はよく笑うよね」
「そうではない戦いの時は違うのか?」
「こいつと戦った時、邪眼とか魔王武装とか使ってた間は、ちょっと……かなり怖かったぞ!」
「うん、相手によってかなり違うんじゃないかな。鍾離さんが居るとシールドがあるから、遺跡守衛が複数体居ても苦労することがないけど」
 黄金屋で旅人と戦った時には違っていたらしい。金髪の子どもはタルタリヤを下したことのある強者だ。対して今殲滅されんとしているヒルチャールは、タルタリヤにとっては弱者である。だからといって手を抜くことはしないのだから、致命傷を負うなどそれこそ奇想天外なイレギュラーでもなければあり得ない。
 槍すら持たず腕を組んで観戦している間にも、ヒルチャールを片付けたタルタリヤは残党が居ないかの確認をしている。
「確かに、その時々によってかなり表情を変える男だな」
 人間とはそういうものだ。笑っている顔のまま心の内では怒り狂っていることなど珍しくもないし、表に出るものだけで感情を正しく察知することは出来ない。人間はその多くが多面性を持つ。様々な名を持つ鍾離も似たようなものだが、タルタリヤもまた、役者のように複数の顔を持つ男だった。
 ファデュイでありながら家族愛が深く、戦闘に魅せられながらもその趣味は多岐に渡る。本を読む際の静謐さは、水飛沫を散らしながら戦う姿とは似ても似つかない。水は自由に形を変える。タルタリヤも同様に、そういった性質を持っている。
「……鍾離さん?」
「なんだ?」
「いや……」
「鍾離って公子のこと、璃月をめちゃくちゃにしようとした奴なのに気に入ってるみたいだよな」
 旅人がパイモンにもの言いたげな目線を遣るが、パイモンは気付いていないようだった。ふわふわと浮かぶ小さな少女の言葉に、鍾離はしばし逡巡する。
 気に入っていることを否定する気はなかった。内外からあれほど酷評され、非難され、根も葉もない噂まで囁かれた男は、しかしそれらを微塵も気にしていなかったのだ。気にしていなかった、というのは正確ではない。当然のようにそれらの評価を塗り替えていくつもりであれこれと動き回っていた、だ。
 端的に言えば、諦めることを知らず、容易に手折られず、彼の実力に基づいた自信の揺らがなさに、そうして目的のため奔走するさまが。
「面白かったから、だろうか」
「……ええっ!? お、面白かった……?」
「璃月を滅ぼそうとした選択が、というわけではないぞ」
「だ、だよな、オイラびっくりしたぞ……」
「なに、鍾離先生がおチビちゃんを怯えさせたって?」
「タルタリヤ、お疲れ様」
「簡単な気晴らしにはなったよ」
 戻って来たタルタリヤが、ヒルチャールの拠点から回収した戦利品や食材の類を旅人に渡す。仮面に絵巻、矢先、角笛。それからキャベツ、トマト、獣肉、小麦。あれだけ派手に戦っておいて食材は見事に傷がないのは、箱は壊さないように意識的に立ち回っていたためだろうか。
 器用なことをする。感心していれば、パイモンがタルタリヤの方を見ながら鍾離を指差した。
「公子野郎! おまえ鍾離に面白がられてるぞ!」
「パイモン、行儀悪いよ」
「うっ……そうだけど」
「先生が俺のこと面白がってるなんて、今に始まったことじゃないだろ?」
 けろりとした様子で言ったタルタリヤに、パイモンは信じられないものを見るような目で絶句する。固まってしまった少女にタルタリヤは首を傾げた。それから荷物の整理をしている旅人の方を見る。
「……うん? 俺が気付いてないと思ってた?」
「いやそうじゃないんだけど……タルタリヤは前向きだね」
「後ろ向きに考えたって仕方ないからね。別に先生に面白がられても、たまに腹立つこともあるけどそれくらいだし」
「む」
「しっかり腹は立つんだね」
 苦笑している旅人を見て、次に本当に気にしていない様子のタルタリヤを見て、パイモンは両手を軽く挙げた。小さな少女の大きな溜め息に二人揃って笑みを零す様子を目の前にし、鍾離はタルタリヤを苛立たせた記憶を思い返す。
 まあ、あるだろう。思い当たる節もあった。とはいえ実際にきつく当たられたような経験はないし、酷く詰られたこともない。基本的に鍾離とタルタリヤの会話の機会は宴席や仕事の場が主だったから、というのもあるが、戦闘が絡まないタルタリヤは存外に冷静なのだ。
「それに講談師でもない俺の語り口でも、この何においても求めるクオリティの高いひとが面白がってるって言うなら、まあ悪くないかなと思って」
「あー……選ぶなら何でも一番良いものを、だから?」
「そうそう。一番人気の役者を、一番高いガビチョウを、って選ぶ男が、俺の話を聞く価値のあるものだと思っている。俺も舞台に立つことのある身だし、悪くない気分だろう?」
「公子殿は俺の話すことを、何でもある程度楽しんで聞くから、というのもあるが」
 つまり話し手ではなく聞き手としての価値である。しかも気になることは質問してくるから、きちんと聞いていて理解する気もあるのだと分かりやすく、こちらも話を広げ甲斐があるというものだ。
 口を開いたことで、鍾離に三人の目が集まった。金色の瞳、夜空色の瞳、そして深海のような蒼の瞳。睫毛の影がその頬に落ちている。陽光を背負う姿が脳裏を過った。
「お前ほどめちゃくちゃなことをする男は早々居ないからな」
「誰のせいで東奔西走する羽目になったと思ってるんだよ」
「……ウェンティとか良い勝負しそうだけどなあ」
「あの呑兵衛詩人と違って公子殿は味をきちんと判断して酒を飲むぞ」
「鍾離って吟遊野郎に厳しいなぁ……」
「そもそも公子殿と違い、あれは腐っても七執政の一柱だぞ」
「ああうん、思ってた以上に鍾離さんがタルタリヤを気に入ってるのは分かったよ……」
 神の治める地ですくすくと生まれ育った人間であるタルタリヤと、治める側である神の一柱たるバルバトスを同列に並べる方がおかしいのだ。
 旅人の言葉に動きを止めたタルタリヤは、何かを考えるように口元を手で隠す。呆れたようにくるりと回ったパイモンも気付き、どうしたんだ、とその顔を覗き込むように問いかけた。
 タルタリヤは「いや」とパイモンに対して微笑みを張り付け、次に鍾離の視線に気付いて、あからさまに視線を逸らす。旅人は何も言わず見守っていた。
「公子殿?」
「……面白がってくれてるくらいがちょうど良いんだろうなと思って。さて、大方やりたいことは済んだわけだし、戻ろうか。最近は相棒も稲妻の方で忙しいみたいだし、惜しい気持ちもあるけれどね」
「そうしよう」
「あっおい、なんか誤魔化しただろ公子!」
「世の中には墓穴を掘るって言葉があるんだよ、おチビちゃん」
 ひらりと赤いストールを泳がせて歩き出したタルタリヤの後を旅人が何も言わないまま追い、納得の行っていないらしいパイモンが飛んでいく。鍾離は少しだけ三人の背中を眺め、それから置いて行かれないように歩き出した。