3.
皆様でお食べください、と差し出された菓子折りは、非常に残念ながら往生堂には最近よく似たようなものが差し入れられるようになったため、往生堂のスタッフに回すのは躊躇われた。ここ数か月で、食事ではなく甘味メインの店が璃月港内に増えてきたのだ。
今日鍾離が受け取ったのは、円形の箱に入れられ八つにカットされた潮糕である。ついた餅米に砂糖などを入れて蒸した菓子だ。平べったい円形の白い生地で、表面には赤く判が押されている。
この店は他にも、薩其馬を始めとしたもち米を使った菓子の研究を熱心にしているという。箱も形を生かした円形の意匠で可愛らしく仕上げられているから、この店は土産として適していると判断されやすいのか、味こそ違うがこの箱を見るのは直近一週間で二回目である。
これは丹桂――金木犀が用いられているから、香りが良く花の甘味も感じられるだろう。合わせる茶を考えつつ、鍾離は残りの仕事を確認した後、一度家に帰ることにした。ちなみに箱を一応堂主に見せたところ「鍾離さん個人の仕事での報酬ですし、持って帰ってもらって構わないですよ」とのことだった。
陽はまだ高い位置にある。さて、居るとすれば洞天内か鍾離の家か、どちらだろう。
結果として、タルタリヤは家に居た。念のために静かに帰ってきて正解である。寝室の窓辺に収まっている姿を確認するために開けた扉を、閉じ切らないよう少し隙間を残しておき、鍾離は厨房へ向かった。
潮糕はこのまま食べても、温め直しても良い菓子だ。良い区切りに辿り着くまでどれほどかかるか分からないが、温め直して茶を準備して、それでも来なかったら声をかけるとしよう。
鍾離が準備し終わる頃に、タルタリヤは静かに部屋から出てきた。
「……午後のティータイムかな?」
「そのようなものだ。……ふ、」
「人の顔見て笑わないでくれる?」
「そんなにバツの悪そうな顔をされることをしたつもりはないぞ。腹が空いていないわけではないならどうだ?」
「うん……いただくとするよ」
本を触っていたからと先に手を洗い始めたタルタリヤの横で、白い生地からほかほかと湯気を立てている潮糕を皿に乗せる。ふうわりと金木犀の匂いが広がる厨房は雰囲気が妙に華やかだ。すん、と匂いを嗅いだらしいタルタリヤは不思議そうな顔で鍾離を見た。
「この潮糕の匂いだ。林梓潮糕とも言う菓子だな」
「璃月人って金木犀が好きだね。他の菓子でも金木犀の香りのものがあったように思うけど」
「ふむ、藕粉圓子のことだろうか。あれも確かに金木犀を使っているな」
菓子どころか花茶としても金木犀は用いられている。桂花茶もまた、璃月の民にとっては生活の中に自然と存在するものだ。
「独特な香りだなと思うけど、うん、このくらいの香り方なら好きだな」
「はは、旬の頃だと確かにきつく感じることもあるか」
「たまに。それよりも年頃のお嬢さん方の香が時々きつい方が俺としては辛いところだ」
「色男だな」
「先生にだけは言われたくないんだよなあ」
以前にもしたことのある会話を繰り返しつつ、タルタリヤに潮糕を載せた皿を渡し、鍾離は茶器と手拭きを持って移動する。
鍾離の部屋で卓を囲むことにもいつの間にか慣れてきた。手袋と仮面のないタルタリヤが改めて潮糕を見て「あ」と小さく呟く。
「この店か。これは食べたことないけど、別のものは食べたことがあるな」
潮糕の表面にある蒸す際につける赤い模様で、作っている店が分かるようになっているのだ。この店は岩神が死んでからじわじわと売り上げを伸ばしてきた新しい店なのだが、それもこうした新しいからこその販売戦略があったためだろう。
箱の意匠にも用いられていた龍が、幾分か可愛らしい様子に描き直された判で潮糕の表面に赤く押されている。
「この龍、間違いなく岩王帝君だろう。こんなに可愛くされちゃっても璃月人は気にしないんだから面白いよね」
「岩王帝君の物語にも創作性に富んだものは多い。これもそのうちの一つだろう」
「死人に口はないし、実際本人も気にしてないし、そんなものか」
菓子だし構わないだろうと食器を用意しなかったため、早速タルタリヤが素手で潮糕を一切れ掴んだ。湯気を立てるそれをかじり、蒼い目を細める。口元もゆるりと笑みを描いているから、お気に召したらしい。なによりである。
しかしこの男、好き嫌いをしないのだという。味に関しては率直な感想を口にすることもあるが、不味いという言葉は聞いたことがなかったし、箸に苦戦こそしていたが鍾離の前で食事を残したこともなかった。
先ほどの香りの件は、思えば珍しい『苦手』の話だった。そんなことを思いながら、鍾離も潮糕に手を伸ばす。
「ん、温かいね。金木犀の香りが広がる」
「最近になってぐんと有名になった店だ。機会があれば他の味も試してみると良い」
「そうだね、これは他の味も食べてみたい」
もっちりとした弾力と、くどくない甘味。口内に広がる金木犀の香りは柔らかい。温め直して正解だった。食感は冷めてもあまり変わらないように工夫されているそうだが、この甘味の感じ方と香りの広がり方は、やはり温度なくしては味わえないバランスだ。
もち米が原料だが、不思議と重さは感じない。ぺろりと一切れ食べきった頃には、タルタリヤも鍾離の淹れた茶で一息ついているところだった。
「龍って確かに強さとか神秘性の記号の一つではあると思ってたけど、そんなに良い物として扱われてるイメージはなかったから、最初の頃は驚いたな」
「スネージナヤではあまり馴染みがないか」
「璃月ほど縁起物扱いはされてないよ。そりゃあ古い昔話には時折あるし、本当に一切居ないとは言わないけど、ほら、現代でそこそこ見られる龍種っていうとヴィシャップになっちゃうだろ?」
ヴィシャップは成体はもちろん、幼体でも硬い甲羅と鋭い爪を持っており、特に幼体は尻尾を駆使した回転攻撃が脅威の一言である。神の目持ちでも油断できない相手だ。璃月では岩元素が強く、また歴史的な影響から、ヴィシャップの観測数はおそらく他国より多いだろう。
そんな璃月で民から龍への印象が良いのは、偏に岩王帝君が迎仙儀式にて龍の姿で降臨していたためだ。
タルタリヤは旅人と共に璃月の西に生息するエンシェントヴィシャップに嬉々として挑んでいたし、確か武勇伝の一つにも龍の巣窟を一掃したものがあった。龍に一定の強さがあることを認めてはいるだろうが、璃月の民と違って特別な感情も、敬意の類とてないだろう。
「モンドの東風も少し前までは風魔龍として恐れられていたし、龍への愛着が深い璃月は特殊かもしれないな」
「少なくとも、街中でこんなにファンシーな龍が見られるのな璃月くらいじゃないかな」
笑って、タルタリヤはまた潮糕を一つ摘まんだ。龍髭麺や龍のひげ飴等、食べ物にさえ龍の名を冠する璃月だ。ここまで龍に親しみを持つ国が他にそう無いのは間違いない。
切られずに残っていた可愛らしい龍を一口に収めたタルタリヤの目線は、先ほどまで本を読んでいたためかいつものように少しばかり緩んでいて、何を見ているかが酷く分かりやすかった。タルタリヤにとっては新鮮に映るだろう。
温め直すために潮糕を蒸篭に並べる段階で、鍾離の手袋は外してあった。手づかみで食べている今も素手のままだ。我ながら他人の前で外すことは少ない自覚があったから、以前鍾離が素手のタルタリヤに新鮮さを覚えたのと同様、彼も鍾離の手に気を取られているようである。
指摘はしないまま茶を啜っていれば、二切れ目を食べ終えたタルタリヤが思い出したように「それで言えば」と口を開いた。
「あの窓辺にある円卓と椅子は、上等なもののわりに璃月で好まれている形とは少し違うよね」
「気付いたか」
「あれ、木材も上質なものだろ? 前に聞いた木に特徴が似てる。実際先生の部屋に置いてあるんだから良いものなんだろうと思ってたけど」
日差しが気に入ったから使っているのかと思っていたが、家具そのものの良し悪しも見ていたらしい。しかもこうも覚えが良いと話し甲斐がある。そろそろ債務不履行で代価として回収した品の目利きの担当も出来そうだ。そうなると鍾離の仕事も減るのだが。
「もう亡くなっている職人の作なんだが、相当に頑固な職人だったそうだ」
窓辺に置いた椅子と円卓は、鍾離がある商人から買ったものだった。
一目見て良い品だと思った。磨き上げられた飴色は艶々と輝き、木目を柔らかな温かみがあるように感じさせる。背の部分の透かし彫りは範囲は広くないものの細やかで、背から肘置きにかけての曲線はなだらかで美しい。
店主曰く、今は亡きとある家具職人の品だとのことだが、一脚しかないから売るに困るのだ、とのことである。他に買い手がないならば逃す理由もないが、しかしそこで「貰おう」と口にするよりも前に脳裏を過ぎるものがあった。
あまりに軽率に買い求めるせいで、往生堂に割り当てられた私室は物だらけ。往生堂が持つ倉庫もかなりの面積が埋まってしまい、その目が確かなのは分かるけどさすがに限度があるんですよ、とは堂主の談。
然るべき者の手に渡っていくことで物が減ることも珍しくはない。しかし堂主の苦言を受けて以降は買い求めたものを自宅に置いているものの、やはり限度というものがある。暫し考え、鍾離はそれでも「貰おう」と口にした。
愛で、手入れすることこそあれ、ただそこに置くだけならばそのうち横の面積も縦の面積も足りなくなることだろう。だがこれは一脚しかないという椅子である。二脚三脚という数がないから売れないのだという。
なるほど、それでも己ならば困ることにはならない。
ぱっと目を見開いた店主は鍾離を見つめ、おずおずと口を開いた。同じ椅子はないが、対となる小さな円卓があるのだという。鍾離に――対の椅子を買い求める者にならば、と。その意図までは読みかねたが、見せてくれと言えば店主は店の奥へと消えた。
少しして、店主は件の小さな円卓を倉庫から持ち出してきた。
確かに対として作られたのだということが窺える、同様の意匠が彫り込まれている。最初からこの円卓と共に展示していれば、買い手は他にもついたことだろう。店主に視線を遣れば、店主は円卓と椅子に目を向けながら話した。
家具職人の意向だったのだ、と。
「揃いでなきゃあならん、と、口酸っぱく。死ぬまで」
よほど頑固な職人だったのだろう。そして店主は、その人物との縁が深かったのだろう。互いに良い関係を築いていたように感じられる。頑固な職人など珍しくないが、この商業の港で職人のわがままを受け入れる商人なぞ、そう多くは居ないのだ。
「でも結局、行く先を目に出来ないんじゃあ意味がないと思いませんか」
だからこそその人情で、その寛容さで愛され、質の良い商品に囲まれているのだろう店主は、故人への郷愁をそっと払うように鍾離へ微笑みかけた。
――そのような経緯で鍾離の手元にやってきた椅子と円卓は、すっかりと空いていた窓際、穏やかに日の光が差す場所に置くことにした。
「蓋を開けてみれば、俺よりも公子殿の方が長く使っているがな」
家に居るよりも何かしら仕事で外に出ているか、璃月港を見て回っているかする時間の方が長いのだ。居間ならまだしもあえて寝室に食事を運び込む理由もないため、鍾離が使っている椅子とはもっぱら今座っている椅子である。
話を聞きながら三切れ目をかじり終えたタルタリヤは、茶で口を潤してから頷く。
「なるほど。だからここには椅子が一応二脚あるのに、あそこには一脚しかないわけだ」
「倉庫にあと二脚あるから、合計四脚だな。客を招いた時のための用意だが、もてなすにしろこの部屋だけで事足りる」
「それもそうか。普通家主の断りなしで寝室になんて入らないし」
「目の前に例外が居るがな」
「通行証を取り上げない先生も悪いよ」
くすくすと笑うタルタリヤは堂々としていた。なにせ自他ともに認める悪党だ。一般的に見て悪いことをしているという自覚があっても、それが家主が黙認している不法侵入ともなると罪悪感の類は欠片もないらしい。
それどころかこうして茶と菓子を振る舞っている以上、鍾離の方が助長させているようなものだ。新月軒の料理、書き置きの伝言で行われた食事の約束。茶を淹れるのも今に始まったことではない。最近のタルタリヤは香りでつられて出てくるのが定番と化しているほどだった。
椀を置いて右手で頬杖をついたタルタリヤが、わざとらしい笑みを口元に刷いて鍾離を見上げる。
「じゃあ、あそこはやっぱり読書に最適な場所だね」
「最適、か」
「読書は本さえあれば一人で完結することだろう。人と語らうなら椅子は二脚必要だ」
この部屋みたいに、と卓の上に置かれていた左手が指先で卓を軽く叩いた。客を呼ぶ機会もほとんどない部屋では、その二脚を埋めるのは鍾離とタルタリヤであることがほとんどだ。だがおそらく、タルタリヤはこの部屋の椅子よりも、あの窓辺の椅子に座っている時間の方が長い。
頬杖をやめ背凭れに身体を預けた男は、微笑みながら言った。
「だからあの椅子に座るのは、先生には似合わないだろうね」
まるでタルタリヤには似合っているかのような言い方だ。僅かに眉を顰めた鍾離にタルタリヤは面白そうに笑い、四切れ目をひょいと持ち上げた。先端をかじり、もぐもぐと咀嚼する。言いたいことは言いきったらしい。
「俺とて読書はするが……ふむ。ならば俺の手をつい見てしまう猫のような公子殿には、確かに似合いかもしれないな」
「ぐ。珍しいものを見てる気分だっただけだよ、俺の素手を珍しがってた奴に言われたくはないな」
鍾離が笑みを返せば、タルタリヤは苦虫を噛み潰したような表情をした。しかしそれ以上何か言うわけでもなく、持っている四切れ目を食べ進める。
のんびりと鍾離が茶を飲んでいる間にそれさえ食べきったタルタリヤは手を拭い、茶をぐっと飲み干した。
「さて。ありがとう、お茶もお菓子も美味しかったよ」
「帰るのか」
「夜はちょっと予定が入ってるから、もう戻らないといけなくてね」
じゃあね、と軽く手を振って寝室に消えていったタルタリヤは、こちらの部屋に戻ってくることはないだろう。手袋と仮面と本を回収して、鍵を使って洞天へ入り、そこから元居た場所へと出ていく。
一人になった部屋で、鍾離は先ほどまでタルタリヤが座っていた場所を見た。痕跡一つ残さなかった男が確かにここに居た証拠が、空っぽの茶碗と――綺麗にタルタリヤ側の半分がなくなっている、菓子の載った皿に残されている。
相変わらず律儀な男だ。小さく笑って、鍾離も菓子を一つ摘まんだ。
//
「それにしても」
低く、音よりも息を多く含む声は、初めて聞くものだ。
「ファデュイに対して、本物の古書まで自由に読める権利を差し出してくるって……一般的に見たら、もう、やばいくらいリスキーだよね」
「危険な類の書物は細工がしてある。持ち出すこともそうだが、公子殿でも読めないぞ」
「ああ、やっぱり……。璃月の特に古い本棚、前に立つだけで妙に思考も、視線も……うまく定まらないわけだ」
どれほどタルタリヤと親しもうが、彼がファデュイであることは揺らがない。今のところ璃月に牙を剥く理由がなくとも、そもそも争いの火種を探しては育てて燃え上がらせたり、それに飛び込んだりすることを好む男だ。
起こった諍いを解決するのは璃月の民の力だが、だからといって決してこの大悪党を善人で無害で無欲な生き物として手放しにしているわけではない。
二人掛けの長椅子に横になって一人で占領しているタルタリヤを視界の端に捉えながら、鍾離は寄贈された本を読んでいる。どうやって手に入れているのか、最近寄贈され始めた稲妻の娯楽小説だ。はあ、と吐き出された息は溜め息と言うには浅かった。
「仙術はお前たちには悪用しにくいが、古い薬の煎じ方などは今でも場合によっては応用が可能だ。仙人たちの物語ならまだしも、お前に毒物の余計な知識を――しかも璃月特有のものとなればなおさら、覚えさせるわけにはいかない」
「先生も警戒って言葉は覚えてたんだね……部屋の出入りまで好きにさせられてるし、てっきり俺のことなんて、そんなに気にしてないと思ってた……」
寝言は寝て言ってほしいものだが、おそらく本音なのだろう。昨夜の仕事での食事以降、じわじわと体調が悪化しているというタルタリヤだ。しかもここは鍾離の洞天内なのだから、口が滑る条件は揃い過ぎている。
長椅子に横になっているのも、望んでだらしない格好をしているわけではなく、身体を起こした状態だと気持ち悪いかららしい。普段から璃月人よりも白い肌の冬国出身者は、今は文字通り雪か紙かといった顔色をしている。
他に思い当たる理由はないようだったし、原因は昨夜の食事だろう。仕事ならば会食と言いそうなところをあえて食事と言われたことは引っかかるが、二階にある寝台に連れて行こうとしたら断られたから、タルタリヤ自身も思うところがあるらしい。
「今の公子殿には、古い薬の煎じ方が最も必要そうだがな」
「なあに、べつに……珍しいことじゃないんだ。これ、たぶん、殺すためのものじゃないしね……」
「毒殺用でなければ気にしないのか」
「……んん、いいや……」
長く細い息を吐く音。ファデュイの中でも執行官という地位を持つ立場上、毒を盛られる可能性はいくらでも存在する。これが初めてのことではないことには驚かないが、普段の快活な姿を見慣れているためか、今のタルタリヤは妙に儚げに見えた。
瞼が重たそうな瞬きを繰り返し、まとまったらしい言葉を小声で吐く。
「どくさつよう、なら、ひとくちめで吐いてる。他のもああじゃ、なかったら、ある程度でとめてた。……これは、食べないと、いけなかったからね」
「ファデュイの執行官ともあろう公子殿にもそういう状況はあるのか」
「俺たちのこと、なんだとおもってるんだよ……」
長椅子に沈むタルタリヤは、天井を見上げた姿勢のまま笑った。だらりと垂れ下がる右手には手袋が嵌められており、鍾離の側からは見えにくいが赤い仮面も頭に乗せられたままになっている。
少なくともファデュイは一枚岩ではなく、こんなあからさまに体調不良であることを部下に明かしたくはないと思うような、そういう組織なのは確実だ。契約を交わした関係で鍾離は氷神の目的を概ね知っていると言っても良いが、きっと彼女の手駒は全員が全員彼女に従順ではないだろう。
それこそ、そこらの一兵卒より――執行官たちの方が。
「完食せずとも、それらしい言い訳で誤魔化せたんじゃないのか」
「……やけに、つっかかるね」
「ここは俺の洞天だぞ」
「……ふ。はは。ひどいな、おどしなんて」
「お前たちにとっては常套手段だろう」
「ちがいない」
タルタリヤが最初から避難目的で洞天に来たということは分かっていた。今日鍾離が洞天に入ったのは急に仕事の予定がキャンセルになり、タルタリヤが増やした蔵書を読む時間にしようと考えたからで、タルタリヤの来訪に気付いたのは完全に偶然だ。
洞天に入った段階で他人の気配があったから書庫で本を選んでいるか、読書用に整えた場所に居るのかと思ったが、実際はそれとはまったく関係のない部屋で今の状態になっていた。ああ、見つかっちゃったな、という呟きと共に。
本の置き場と読書の場を提供するという理由で通行証を与えた鍾離には、彼を問いただすだけの理由があるはずだ。
「昨夜の食事、と濁していた以上、仕事は仕事でも北国銀行の取引先ではないだろう」
「……俺は璃月港から、出ていてね。部下たちと、部下の作った食事をしたんだ。そこで盛られた。……同じ釜の飯なのに」
身体に力を込めたらしい。先ほどよりもはっきりとした発声でタルタリヤは語った。
「すぐ気付いたよ。でも俺以外は、普通だった。だから、ああ、俺への八つ当たりだ、って」
「最初から解毒剤でも飲んでいた、か」
「執行官への反逆は、立派な裏切りだ。舐められたら困る。陛下の威信にも関わるから。そのために……完食して、効かないんだと分からせて、ね。実際……ほんとうは早いうちに、効果が出る。ただまあ、俺は劇薬の、フルコースみたいな治験、協力してるしね……」
「それでも無効化できずに、結果的に遅効性の毒となっていると」
「なさけないけど、仕方ない。解毒剤、なかったし」
ふ――とまた長く息を吐くタルタリヤは、どうやらそこで力を抜いたようだ。僅かな胸の上下と、緩慢な瞬き以外動かなくなる。今も症状は悪化しているのだろう。どういった類の毒なのかは、本人曰く毒殺用ではないということ以外定かではないが。
鍾離は本を卓に置き、椅子から立ち上がった。タルタリヤは動かない。部屋の端に置いていた丸椅子を持って、タルタリヤの横たわる長椅子の傍に置く。
丸椅子に腰を下ろしたところで、長い睫毛が縁どる蒼い瞳が鍾離を捉えた。
「……なに?」
「璃月で手に入る毒か?」
「……らしくないね。死なないよ」
「だろうな」
「せんせいの得にも、ならない」
「それはどうだろう」
今更ではあるが、タルタリヤの口座には銀行員ですら目が眩むような額のモラがある。それにあの武勇で知られる公子よりも上の立場になれる機会だ、特に璃月人であれば得と捉える者も多いだろう。ばかみたい、とタルタリヤは呟いた。
「恩着せて、も、しかたない」
「仕方ないかどうかは俺が判断することだ」
「……璃月のじゃ、ない。むりだ」
「では何処の?」
鍾離の問いかけに、視線を逸らさないままタルタリヤは口を噤む。ここで余計な嘘を吐こうとしないのは良い心がけだが、物理的に逃げることが難しい以上は不毛だ。なにせ鍾離は大抵の凡人と比べて気が長い。
とはいえ、タルタリヤにはタルタリヤの矜持がある。出会った頃と比べるとよく隙を見せるようにはなったものの、それは仕事が関わらなければの話だ。このまま睨み合ったところでどうにもならないし、おそらくタルタリヤは鍾離に見られていようが寝る時は寝るだろう。
まあ想像はついているのだ。まったくもって故意ではないが、情報ならば先ほどまで鍾離の手元にあった。
「スネージナヤ謹製のものでは難しい可能性もあるが、それなら『劇薬のフルコースみたいな治験』で耐性がついていない理由が薄いだろうな。――稲妻の毒であれば、俺もいくらか心得がある」
「……」
「毒にも種類がある。主にどこに作用しているか、どんな効果か。見たところ吐血しているわけでもないし、麻薬は食事に混ぜる形では影響が出にくい。分類としては神経毒だろう」
手を伸ばして頬に触れる。手袋越しでは温度がほとんど分からないが、汗はかいていないようだ。タルタリヤの目は鍾離を捉えたままである。その手も足も動こうとしていない。頬から首筋へと手を滑らせると、身じろごうとしたのか僅かに動いたがそれきりだ。
脈拍は落ち着いている。タルタリヤの方から手合わせに誘ってくる程度には強者として見られている鍾離に、首という生物としての弱点に触れられているのに。
鍾離は今ここでタルタリヤを殺すことが出来る。そんな状況下にあってなお抵抗しないのは。
「よほどの毒らしいな。稲妻のもので食事に混ぜてそこまでとなると、自然と選択肢は絞られる」
「……恩きせ、がましいね」
「ここまで回ったのは部下たちを始末したせいもあるだろう。職務とはいえ、後のことを考えなかったお前にも責任はある」
ついにタルタリヤの目が泳いだ。一体毒を盛った部下たちが何人居たか知らないが、パフォーマンスとして派手にやったのかもしれない。執行官としてのプライドがあるとしても、毒が効く身体である以上は無理にも限度がある。
――旅人曰く、淑女が死んだらしい。
殺すためではない毒、八つ当たり。稲妻に居たことといい、推測はしようと思えばいくらでも出来た。
が、あえてここで答え合わせをする必要もない。
「どちらにせよ、ここよりも寝台の方が良いだろうな」
「っ、」
抱き上げた身体はぐったりとしていて、力を入れられないようだ。睨もうとしたらしい眼差しはただ目を細めただけにしか見えない。安定させるため頭を鍾離の肩に乗せるように横抱きにして、はみ出る爪先に気を付けながら扉を通る。
階段を上って二階へ上がり、寝室として整えた部屋に入った。鍛え上げられた武人の肉体も鍾離にとってはさして重くもなく、無抵抗の身体を運ぶのは容易い。これが普段通り元気で、全力で抵抗されたらこうはいかなかっただろう。
そういう意味では、こんなにも大人しいタルタリヤが見られるのは貴重な時間だ。寝台に下し、ブーツを脱がせてやれば、ほとんど見た覚えのない足の下が眼前に晒される。ブーツを寝台の傍に落とすと重たい音がした。
太腿に巻かれたベルトも邪魔だろうと内腿に触れると、頭上で息を詰める気配がする。服越しでも触れてみれば筋肉がついていることが分かる足だ。鍛え上げられた肢体がされるがままで横たわっている姿は、本人からすれば屈辱だろう。外したベルトは傍のナイトテーブルに置いた。
「……どこまで」
「上着も脱がせたいところだが、公子殿はそのままでいい。動きたくても動けないだろうが」
「はらたつな……」
手袋を外させ、側頭部の赤い仮面もさっさと外す。どんどんと執行官らしく整えられた公子の姿が剥がれていく中、上着の留め具を外そうと覆い被さったところで、何かが鍾離の腕に触れた。
タルタリヤの手だ。震えている手は無理をして動かしているのが明白で、鍾離はタルタリヤと視線を絡ませる。抵抗にならないことなど本人が一番分かっているはずだ。ならばこれは抵抗ではなく、何かのアピールと考えるのが自然だった。
深海のような目は至極冷静だ。ふう、と普段より白い唇が息を吐く。
「代価は」
契約の国で学んだ男の言葉に、鍾離はゆるりと笑った。
「隙も弱味も、他人に見せないでくれ」
「なにそれ。……しゅみ、わるいね」
「俺以外にと付け加えれば良かったか?」
鍾離の言葉をどう捉えたか分からないが、タルタリヤはそれ以上否定も肯定もせず、黙って鍾離に看病されていた。
どうやらタルタリヤは咄嗟の避難先に鍾離の洞天を選んだらしかった。ということは、まあ滅多にないだろうとは思うが戦闘で深手を負った際に咄嗟に入る可能性もあるのかと、ここに来てようやく鍾離は洞天への出入りを感知できるように調整した。
駆けこまれたところで鍾離が実際に様子を見に行ける状況かどうかはその時によるし、その際に鍾離がタルタリヤの手当てをするかどうかも定かではないが、少なくともタルタリヤは洞天を介せば璃月港にある鍾離の家に侵入できる。感知機能をつけておいて損はないだろう。
だがあの一件以降、タルタリヤは忙しいのか警戒しているのか、あまり洞天に出入りしなくなったようだった。出入りしたとしても、大体は鍾離がよく仕事をしていたり、食事をしていたりする時間帯で、しかもすぐ出て行っている。鍾離と出くわすことを意識してやっているのは間違いなかった。
出入りの回数から、鍾離の家にも来ていないようだ。鍾離の家に入るなら少なくとも一日に二回は洞天に出入りする必要がある。元より部屋には痕跡を残さない男だったから、璃月港でひっそり一晩を明かされでもしたら分からないわけだが。
目利きの仕事を終え、夜に予定されている往生堂での仕事まで時間が空いた鍾離が家に戻ってきても、やはりあの窓辺には誰も居なかった。
璃月にいる間は頻繁に鍾離の寝室で読書をしていたようだったが、タルタリヤも執行官なのだ。しかも璃月に派遣されるまではあちこちに飛ばされて、結果として大陸中を駆け回っていたような男である。
忙しい時は忙しく、しかも最近は七星がファデュイを璃月港から追い出そうと議論しているという噂も囁かれている状況だ。仮にもファデュイの中でも十一人しか居ない執行官の一人である男が、そう軽々と出入りできる状況ではない。
鍾離はふらりと寝室へ足を踏み入れ、自分ではほとんど座ったことのない窓辺の椅子へと腰を下ろした。
昼間なだけあって背中側にある窓からたっぷりと陽光が差し込み、その光と鍾離自身の影が床に模様を作っている。新鮮な角度だ。扉側から手前に伸びている光を、あの男の形をした影ばかりを見ていたから。
ここで静かに本を読む男を、思えば鍾離はいつだって居間の方へと移動させていた。昼食を、菓子を、酒を。何かを共にし、言葉を交わすために、一人ここで座る男を連れ出しては、机を挟んで向かいの椅子から見ていた。上手くなった箸使いや、食事に舌鼓を打つ姿、会話の中でころころと変わる表情。何かを考える際、ちろりと覗かせた舌で唇を舐める癖。
タルタリヤとの記憶は、おそらく大部分が会話を交わしている場面だ。戦いをこよなく愛すくせ、人並み以上に話が上手く、また聞き上手で、鍾離が語るにしろ彼の話に耳を傾けるにしろ飽きない男だった。
面白かった。彼自らが経験してきたことも、その語り方も。確かに家族を愛しながらも戦場で死神と踊り戦乙女に求愛するという、破綻しそうでしていない均衡も。あの武人が一体どんな無茶をして、どこまで到達できるのかという未来への期待も含めて。
公子という立場である限り、どうしたって敵が多い。あれで情に厚い男だが、必要とあれば一切の躊躇いなく刃を振るうだろう。ファデュイという組織の中で、十一人の執行官の中でも、最も危険な男とも噂される人物だ。実際、危険性は高い。熟練した者でなければ同じ土俵にすら上がれないだろう。
そんな男の人生を、そういう舞台を、眺める楽しみを知ってしまったのだ。
それだけでなく――あえて他人に魅せるために踊る姿や、自らが愛す闘争へ求愛する姿、故郷の家族を想って微笑む姿以外に、静かに紙面上の文字に溺れている彼の舞台裏まで見てしまったから。
「――……」
陽の光を落とした円卓を撫ぜる。手袋の装飾がきらりと光を弾いて輝いていた。
