4.
数日前の朝、往生堂に出勤した時に胡桃から「そういえば公子さんが最近璃月に戻ってきたらしいですよ~」と聞いていたのだが、それは事実だったらしい。彼女は商機を逃がさないために璃月港で起こることには耳が早いのだ。
また「璃月港はもうファデュイを受け入れないのに、相変わらず肝が据わってますよね!」とも言っていたが、璃月港には北国銀行があるし実際タルタリヤは璃月に逗留している間は北国銀行の責任者として仕事をしていた。しかも鍾離が仕込んだ璃月の知識をそこで存分に発揮していたようだったから、実績もかなりある。おそらくそちらで押し通してきたのだろう。
細やかな金物の細工職人の工房から出て、璃月港内を散歩していた鍾離は、三杯酔のテラス席で璃月人らしき若い女性と同席しているタルタリヤを見つけた。
屋内の個室ではなく外という時点でタルタリヤの神経の図太さが良く分かる。七星も睨みをきかせているだろうが、タルタリヤは気にしていないようだ。その程度で萎縮するならばあの件の直後も当然のように璃月港を出歩き、鍾離と食事をし、銀行の仕事に精を出していなかっただろう。
しかし服装こそあの灰色の見慣れた服とは違っているが、プライベートな食事ではなく、どうやら仕事関係らしかった。タルタリヤの表情が違う。少なくとも旅人や鍾離と食事を共にする時のような、気心知れた相手であるがゆえに取り繕っていないそれとは程遠い、お手本のような微笑みである。
だが――今この時期に、ファデュイの執行官たるタルタリヤと接触し、食事の場を持ちたがる若い女性というと些か妙である。身なりからしてそれなりに家が裕福な子女だろう。角度が悪くあまり顔は見えないが、金木犀の話をした時のタルタリヤの言葉が脳裏を過ぎる。
北国銀行繋がりで商家の娘が宛がわれたのかもしれないが、やはり時期が悪い。仮にも商人であるなら、こんな時期に娘をファデュイに関連する人間に会わせるとは考えにくい。あるいは娘側が彼に特別入れ込んでいるなら、少し話が変わってくるが。
遠くから眺めていた鍾離の方を、不意にタルタリヤが見た。距離があるが確かに目が合ったと思った瞬間、タルタリヤの方から逸らされる。そうして向かいの娘に微笑みかけて、何か話しかけたようだった。きっと誰も、鍾離以外は違和感を抱かないだろう動きだ。
鍾離には見られたくないのか、逆に娘の方が鍾離に気付くことを避けたいのか。どちらか判別がつかないが、この場で声をかけたところでさして話も出来ないだろう。鍾離は踵を返し、緋雲の丘へと向かう赤い橋を渡る。
往生堂へ向かわずに石畳を進み、階段に足を掛けた。
ファデュイとしてではない身分で入国している可能性が高いこともあるし、北国銀行に身を寄せているはずだ。元より隠れ蓑として活躍していた組織だから、顔見知りのスタッフに言付けを頼めばタルタリヤに伝わるだろう。
その夜、タルタリヤは鍾離の家に居た。さすがに少々出歩きにくいのか洞天を介して屋内に出てくる形だったが、その手にはしっかりと酒が握られていたのだからやはり変わらない。璃月の酒だから、取引先にでも貰ったものを持ってきたのだろう。
格好は昼間見たそれとは違い、鍾離にとっては見慣れたあの灰色の執行官の制服だった。側頭部には赤い仮面が乗せられ、青い神の目も腹の辺りで輝いている。
鍾離もつまみだけでなく酒を用意していたため、まずはタルタリヤが持ってきた酒を開けることにした。なにせ二人とも蟒蛇だから、話しながらつまみも摘まんで飲んでいれば酒の一本や二本はすぐである。
仕事に差し障るような内容にまでは及ばないまでも、酒が進めば尚更口が回りやすくなるというのはタルタリヤも世間一般の酒飲みと同じだ。ざっくりとした近況報告を終える頃、タルタリヤは酒で濡れた唇をぺろりと舐め、こてんと首を傾げて言う。
「稲妻が開国して貿易が増えて、おかげで銀行も忙しくてついでに俺も大変なんだけど、先生はいつも通りなんだねえ」
「そんな中で女性と二人で食事か。なおのこと大変だろうな」
「……拗ねてる?」
窺うような眼差しでの問いかけに、鍾離は逡巡した。あの体調不良の一件以来、タルタリヤとは顔を合わせていなかったのだ。なにせタルタリヤが洞天に滞在する時間は本当に短時間だったし、なのに本だけは着実に増えていく。避けられていたと鍾離は感じたし、この様子ではタルタリヤも意図して避けていたことに間違いない。
しかし避け始めたきっかけを忘れたわけもないだろう。あの時タルタリヤの機嫌を損ねたのは鍾離の方だ。拗ねていたのは鍾離ではない。
「それは公子殿の方では?」
毒で弱弱しい姿を晒していたタルタリヤは、鍾離に面倒を見られるのを嫌がっていた。抵抗できないのを良いことに、その世話を強行したのは鍾離である。ある程度体調が良くなってきた頃、鍾離が席を外した隙に姿を消したのだから、タルタリヤにとってはよほど嫌だったのだろう。
追い打ちをかけるように、それ以来鍾離は避けられた。自覚はあるのだろう、ぐっと苦い顔をしたタルタリヤは顔を背けつつ応える。
「拗ねてはなかったよ……情けなかっただけ」
「ずいぶん俺が洞天に居なさそうな時間の出入りを徹底していたようだが」
「根に持ってるね? というかそんなことまで分かるのか」
「あれを機にな」
卓に肘をついた腕で杯を持ったまま、タルタリヤは俯いて深い溜め息を吐いた。あちこちに跳ねた金茶の頭しか見えない。それはそれで奔放なタルタリヤらしさを感じて好ましいのだが、こうして目の前に居るのだからどうせなら顔を見たい。
頭に乗せられたままの仮面。嵌められたままの手袋。――どうにも、物足りなさを感じる。読書中の彼の姿を見なくなっていたからか、一度それらを鍾離自身の手でひとつひとつ剥がしていく経験をしたからか。考えるまでもなく両方だ。欲深になったものである。
鍾離が内心苦笑しているうちに、のろのろとタルタリヤが顔を上げた。蒼い瞳は逸らされたままだ。
「……避けたのは悪かったと思ってるよ。向こうでも忙しかったから、どちらにせよ長居はあまり出来なくてね。余計な期待をさせたくなかったとはいえ、ちょっとやりすぎた」
「こちらを向いてくれるか」
「え。……なに?」
困惑の滲んでいる眼差しが鍾離を映す。あどけなさを残す、愛嬌のある男だ。ここで強引に世話を焼こうとしたお前が悪いのだと反撃してきても良いだろうに、それをしない辺りが律儀というか、育ちが良いというか。
思わず表情が緩むと、タルタリヤは唇を引き結んだ。眉尻も上がっているが、とてもではないが怒っているようには見えない。それこそ拗ねているようにも見えた。
「人の顔見て笑わないでくれるかな」
「ああ……ふ、馬鹿にしているわけではないぞ」
「してるだろ」
「愛らしいと思った」
「聞かなきゃ良かった……」
心底悔やんでいるような声で杯を置いたかと思えば、今度は両手で顔を覆って隠される。既に成人しているはずだが、どうにも幼げな仕草だ。下の妹や弟の面倒を見る際にでもやっていた名残なのかもしれない。
そういうところが尚のことそう感じるのだが、おそらく本人に自覚はないだろう。あればしていないはずだ。
「つまみがなくなるぞ」
「アンタが食べるのやめたらいいだけの話だろ……いまいちそういうスイッチが分からないんだよな……」
杯に残っていた酒をぐっと呷ったタルタリヤの頬には赤みが差しており、冬国出身の白皙もこうなると少しばかり損なのかもしれないなと思う。顔色の一つも自分の意思で操作できない執行官の方が悪いとも言えるが。
酒を注いでやり、それをまた少し飲んだところで、タルタリヤは落ち着いたらしい。箸を持って豚肉の油炒めをつまみつつ、で、と鍾離に言う。
「わざわざ言付けを頼んで俺を呼んだのは、人で遊ぶ楽しみにでも目覚めたからだったわけ?」
「悪辣な趣味だな。単純にあれから問題がなかったか様子を見るためと、俺が公子殿と飲みたかったからだ」
「その節はどうも。おかげさまで元気だよ」
後半は聞き流すことにしたらしい。しっかり学習している。
あの日はあまりに白かった顔色も今は見慣れた色で、部屋に来た際の動きもぎこちなさはなく、至って健康体なのは間違いないだろう。今のタルタリヤをあの時と同じように抱き上げようものなら、全力で抵抗されて猫のように逃げる姿が想像に容易い。
杯もしっかりと握れているし、その指に震えなども見られないから、毒による後遺症はなさそうだ。武人ともなれば身体の末端でさえも大きな影響になりかねない。ましてタルタリヤは水元素を巧みに操って武器としているから、僅かだろうと感覚の違いは致命傷たりうる。
「いくら耐性があろうと毒は毒だからな。摂取量が多ければ影響が残りかねない。自らを過信しすぎないことだ」
「状況次第だけど、覚えておくよ」
それは本当に従うつもりがあるのかと言いたくなるが、タルタリヤは十一人居る執行官のうちの一人とはいえその末席、最年少の十一位だ。そもそも劇毒のフルコースという治験協力も、あの様子では同じ執行官から振られた仕事だろう。無理な時は無理、とこの男自身が判断したのなら、もう鍾離が口を出せる範囲にはない。
非常に残念だが。そう思いながら言葉を飲み込み、杯をくっと呷った。酒がなくなる。気付いたタルタリヤが瓶を持って笑った。
「良い飲みっぷりだ。さて、じゃあ心配をかけてしまったみたいだし、お礼に稲妻の土産話でもしてあげようか。といっても戦いの面じゃ一つ面白いところに遭遇したくらいで、その他は相棒がほとんど片付けてしまった後だったんだけど」
「目狩り令以外もか。相変わらずだな」
「あの子たちの遭遇率が羨ましいよ」
鳴神島、ヤシオリ島、海祇島、セイライ島、鶴観。稲妻は複数の島があるが、タルタリヤはその全てを踏破したらしい。そこまでしても旅人が平定して回った後だというのだから、どれほど旅人の行動力が飛び抜けているのかがよく分かる。
「それほど動き回っていたわりに、本の寄贈はマメだったな」
「移動中は暇だったんだよ。きちんと濡れたり潮風に負けたりしないように対策はしたつもりだったけど、先生の目から見ても大丈夫そう?」
「特にこれといって問題はなかったが」
「なら良かった。稲妻は娯楽小説っていう文学ジャンルが確立していてね。璃月とは大違いだったから、先生が読んだらどんな反応をするんだろうと思って、つい色々買ってしまったよ」
説明口調のタイトルが多いうえ、表紙や挿絵もかなり意識して美麗な画を用いていると思っていたが、あれはもうああいう文化らしい。確かにあそこまで行けば文学は文学でも、稲妻独特の文化といって差し支えないだろう。
鍾離も寄贈された稲妻の本はいくつか読んだが、まだ全てではない。仕事や散歩、往生堂や自室にある骨董の類の手入れ等をしていると読書ばかりにかまけていられず、凡人らしい生活をしようとすると途端に時間が足りなくなるせいだが、となるとタルタリヤの読書スピードはかなりのものと言える。鍾離は問いかけた。
「公子殿は全て読み切ったのか?」
「ああ、いやさすがに全部は無理だ。稲妻から離れる時期も大体予測がついていたし、折を見て買いに行って書庫に置いて、を繰り返してたからね。出入り自体はどこからでも出来るから、読み終わってないものは後々読みに行くよ」
「さすがにそうか。俺でも追いついていないからな」
「読むのは遅くない方だと思うけどね。読むなら速読で済ませるんじゃなく、しっかりと腰を据えて読みたいし」
概ね同意見だ。ならばまた読書姿も見られるのかと思考の端で考え、杯に口をつけた。洞天から鍾離の部屋には相変わらず来られているのを今日確認したばかりだ。タルタリヤの任務と、本人の気分次第だろう。
気分ならば意図的に向けてやることも出来るが、彼は執行官としてのプライドもしっかりと持っている。こと氷神からの命令であれば、タルタリヤの優先順位は簡単に入れ替わるに違いない。上手くなった箸でつまみを口に放り込む姿を眺め、鍾離は杯を置いた。
氷神と契約し、取引をした身だ。鍾離にとっては既に神の心の譲渡が済んでおり契約も終わったようなものだが、だからといって氷神の目的の阻害をしたいわけではない。
公子は氷神の駒である。それが揺らがない以上、鍾離はタルタリヤがどこへ行こうが、何をしようが、それが直接鍾離や鍾離と親しい者たちへの害にならない限り、口を出せる立場にはないのだ。
思考は脳内にのみ留め、鍾離は酒で湿らせた唇で言葉を紡ぐ。
「いくつか読んだ限り、稲妻の娯楽小説は物語の方向性からして、どれも独特な個性があったな」
「そうだろう? あれ、ほとんどは八重堂っていう書店で買ったんだけど、あの雷電将軍も読んだ! なんて煽り文句もあって笑っちゃったよ。どこの国も商魂逞しいよね」
「どこで生まれ育っても人は人だということだろう」
「でも今のところ、物語の中で神に成り代わる話まで書いてるのは稲妻くらいのものだろ。璃月であれをやったら業界どころか国を追われそうだ」
言いながら笑うタルタリヤは、まさに国の上層部たる七星から睨まれている身だ。即刻追い出されていないだけまだ良い――曲がりなりにも執行官だから様子見をするしかないというのもあるかもしれないが――方だろう。
とはいえ、既に講談のネタにされており、彼自身も物語の中では悪役である。しかも野望を打ち砕かれ、情けなく敗走するような役が多い。だが他人事のように聞いているし、そのあまりの情けなさにけらけらと笑っているほどだった。
所詮は大部分が創作だし、そうして歴史や文化に編まれていくさまを見るのは面白い。語られ慣れた側としてはその程度の感覚である。
「いずれ娯楽小説が璃月でも流行り始めれば、岩王帝君も似たような話が作られるだろう。今も神ではなく人の話が語られ始めているし、旬などきっかけさえあれば瞬く間に変わっていくものだ」
「神の話も旬と来たか。ふふ、もしそんな話が出てきたら、先生はいの一番に手に取りそうだね」
「出てくれば読むだろうな」
迷いない断言に、タルタリヤが楽しそうに笑い声を上げた。
実際、稲妻の娯楽小説も読んでいる。雷神に成り代わった人間の小説も勿論。なにせあれが最初に寄贈された稲妻の小説だったから、鍾離が初めて読んだ娯楽小説は神の成り代わりものだったのだ。
今でも岩王帝君の物語には創作が多い。きっと将来的には今以上に創作物が増え、歴史に即したものは影を薄くしていくことだろう。それもまた人の営みであり、時間の経過の表れだと思っているから、鍾離はそこに憂いも悲しみも抱かない。
そうして神が風化してこそ、人の時代と言えよう。
「はーっ、作者が今から哀れになるなあ。ふは、そんな本が出たらぜひ書庫に置いておいてくれ、俺も読んでみたい」
「ああ、覚えておこう」
璃月の民が娯楽小説を受け入れられるようになるにはいくらか時間が必要そうだが、そんな時までタルタリヤは鍾離との付き合いを続けるつもりらしかった。戦いを心の底から愛し、望んで命を削っている、いつ死ぬともしれない男が。酷くささやかで、実現するかも分からない未来を他でもない鍾離に語っている。
指摘すればせっかく上向いた機嫌を損ねてしまいそうだから、湧き上がる喜びは全て胸の内に押し込んで微笑んだ。楽しそうに笑う幼げな表情を、今はまだ眺めていたいのだ。
//
層岩巨淵の封印が破られたことを鍾離は察知していた。こればかりは元神であり、今も生物の性質としては魔神のそれに近い存在であるため当然とも言える。その底にあるものを、鍾離は決して知らないとは言えない立場なのだから。
だが封印が破られた以上、今まで侵入が出来なかった者たちが飛び込むために集まるだろう。輝山庁を始めとした七星八門から仕事を割り振られた面々や、元々層岩巨淵に居た鉱夫たち、それから火事場泥棒が得意な宝盗団にファデュイ。
どこの誰が動こうが、璃月で生きる一凡人たる鍾離にはさほど関係がない。大木の下で眠る友は旅人と共に再封印を施したばかりだし、層岩巨淵から響き渡る岩元素によって目を覚ますことも暫くないだろう。
だから鍾離がこうして璃月港を出て、すり鉢状に近い層岩巨淵を一望できる東端である琉璃峰の断崖絶壁へやってきたのは、至極私的な用事のためだ。
夕陽が沈んでいく黄昏時、崖の端に背筋を伸ばして立つデットエージェントの格好をした男。その背中に歩み寄り、左横に並んで層岩巨淵を眺めた。幾分か距離と高低差があるが、ここからでも中央付近にはちらほらと人影が見える。
封印が破られてから一週間ほどか。封印を破った張本人はそろそろ最深部まで到達しただろう。とはいえ、個人で動けるあの子どもと違い、組織である輝山庁はまだ大きく動き始められていない時分だ。
やはりこういう時、組織立って動ける彼らのような迅速さは重要である。決して璃月にとって有益になると言えないことが残念だが。
横に立つ男は、他の多くのデットエージェントたちと同じようにフードまで被っていたが、手袋と仮面だけは異なっている。指先は灰色をしていて、ちらりと肌色が覗いていた。彼に与えられた仮面は、今ばかりは側頭部ではなく腰元を彩っている。
じっと層岩巨淵を眺める男は鍾離を見ない。すっと通った鼻筋は高く、淡い珊瑚色の唇が、雪のような白皙の中でほのかに色づいている。深海のような姿をしているはずの瞳は、金茶の前髪で隠れてほとんど見えなかった。
「やはり行動が早いな」
呟いた鍾離も視線を男から外し、ここよりもずっと低い層岩巨淵の中央部、ぽかりと口を開ける地下への穴を見た。地上と地下鉱区を出入りできる場所はあの穴以外にも複数ある。だがこちら側からも見えるくらい視界が開けているためか、ひと際目立つからか、その辺りには人影が他の場所よりも多く見えた。大半は宝盗団だろう。
「鍾離先生もやっぱり気付いてたんだね」
間違いなく鍾離が近寄ってきた段階で気付いていたはずの男は、そうしてようやく口を開いた。高所を吹く風に攫われてしまいそうな声だった。
「でもわざわざ俺に近寄ってきたのは何の用?」
「用がないと近寄れないのか」
随分な話だ。稲妻に行く前の彼は、街で姿を見かけた時には鍾離に微笑みを向け、時間があれば近寄ってきて声をかけてきたものだった。最近は自らの立場的な問題もあるのか、はたまたあの娘や銀行員など連れが居ることが多いからか、視線さえろくにくれなくなっているが。そう思えば確かにもう表面的には遠くなってしまったのかもしれなかった。
けれどそれは結局のところ表面的な話に過ぎず、彼は相変わらず洞天へ本を読みに来る。そこで鍾離と顔を合わせれば会話もするし、食事や酒を共にすることだってあるのだ。
こちらを見ないが、逃げようともしない男の手の甲にそっと自らの手の甲を擦り寄せれば、ぴくりと僅かに跳ねこそしたがやはり動こうとしなかった。ならばと指の腹同士を触れさせ、掌を重ねる。
「こんなタイミングでつけこんで来るなんて、悪い男だな」
「弱っているのか?」
「自分のやったことを認識するのは大切なことだ。けど、俺たちはこれくらいで弱りはしないよ」
静かに指を絡めてみても、彼の手は抵抗を見せなかった。握り返されこそしないが、かといって逃げられることもない。絡んだ指をそのままに彼は続ける。
「ここに派遣されてたのはアイツの部下だ。他の奴等以上にそうなる可能性も考えて、覚悟もしていただろう」
真っ直ぐにぽかりと口を開ける地下鉱区は、璃月港が渦の魔神に襲われる前まで七星とファデュイが協力して調査をしていた区域である。迎仙儀式に合わせて送り込まれてきた彼は、そういった璃月の情報をどこまで知っていたのだろう。
きっと誰よりも身軽に見える男。戦いに見初められた男の生き方は、多くの者たちには理解しにくい奇異なものだ。けれどその身にも多くの人間と同じ赤い血が通っている。一騎当千の武人は痛みを知っていたし、残念なことにただ戦場を駆ける兵器であるだけでは居られない。
「自由にも責任は付き纏う。俺の取った選択による結果なのであれば、これもまた俺が遂げるべき責務だ」
執行官という地位まで与えられてしまったのだ。人の上に立ち、人を使う立場は、自らの行動の自由と引き換えに、多大なる責任を彼の肩に乗せている。それを分かっている。こういうところなのだ。絡めた指に軽く力を込めた。
少しだけ拗ねてみせた彼は、結局その後も鍾離を酷く詰るようなことはなかった。なにせ取引相手は氷神、彼が忠誠を誓うものだ。彼女が告げなかった時点で、彼の役割は自然と絞られていた。粛々と自分の役割を再認識し、目標が達成された結果を見て飲み込んでいる。ここに居るということもまた、そのうちの一つだ。
「ずいぶん楽しそうだね、先生」
「む」
「見なくても分かるよ」
言葉通り横顔は鍾離を見ていない。しかし淡い珊瑚色の唇を開いて溜め息を吐き、僅かに顔を俯かせた。ぎゅう、と繋いだ手を強く握られ鍾離は目を見張る。
「あの御方の御意向に結果として沿うことが出来たのは良かったけど、全体的に見たらアンタの一人勝ちって状況になってるのは気に食わないんだよな……」
一般人であれば骨が軋みそうなほど強い手の力がぱっと抜けた。水のようにするりと指を解かれ手が離れていく。それを許さないとばかりに捕まえれば、ようやく蒼い瞳がこちらを向いた。
ああ――やはり全体的に黒っぽい服装をしているためか、今日はやけに肌の白さと唇の色が目に付く。
「そろそろ部下が、」
んむ、とその続きは鍾離の唇に潰された。深海を閉じ込めた目が零れ落ちそうなほど見開かれる。ひときわ薄い皮膚から伝わる温度は鍾離よりも僅かに高かった。触れるだけ触れてすぐに離れると、男は普段と同じ手袋をしている指先で自らの唇に触れ、呆然とした顔で鍾離を見ている。
片手が掴まれたままなことも忘れているのか、そのあまりに無防備なさまにもう一度口付けたい衝動を腹の底に抱えた鍾離がじっと見つめ続けていると、透き通るような白皙の肌にじわじわと朱色が滲み始めた。わなわなと唇が震えている。
今更光のない瞳に睨みつけられたところで、痛くも痒くもなかった。
「無言でキスはずるいだろう、鍾離先生?」
「許可を取れば許してくれたのか。それは良いことを聞いた」
「そんなこと俺は一言も言ってないし、部下が来るって言ってるだろ。少なくともこんな状況じゃ絶対出さないよ」
つまり裏を返せば、状況次第では良いということなのではないだろうか。本人は墓穴を掘ったことに気付いていないらしい。これは今ここで指摘するより、言質として記憶しておいた方が得になりそうだ。
そうか、と頷いて手を離せば、睨みつけていたはずの目が無言で鍾離の手を追った。名残惜し気に見える仕草も、まず間違いなく無意識だろう。掴んでいた手が萎れるようにくたりと指を曲げて僅かに下ろされる。思わせぶりにもほどがある態度だ。
どうにかしてしまいたい気持ちを抱くと同時に、背後から微かな音がし、何かが跪く気配がした。隠しきれない震えを伴った声が発される。
「公子様」
「報告を」
対する呼びかけられた男の振る舞いは先ほどまでの真っ赤な顔はどこへやったのか、落ち着きを払った様子だった。鍾離の距離からはほのかに残滓が見えるが、ほとんど普段通りの顔色だ。現れたデットエージェントは公子の隣に立つ鍾離を気にする素振りを捨て、頭を垂れる。仮面越しの声が告げた。
「把握している限りの道の確保は完了致しました。突入はすぐにでも可能です」
「なら全て命令通りに。出来るか?」
「は。拝命いたします」
「なら行け」
今度こそ音もなく消えた影に、威厳ある執行官たる公子として振る舞い切った男は肩を竦めて呟いた。
「一応言っておくけど、他言無用だ」
「今の俺はただの璃月人だぞ」
「ただの璃月人はファトゥスを食事になんて誘わないものだよ」
「そうだろうか」
鍾離がタルタリヤをしばらくぶりに三杯酔で見かけた時、その向かいには若い女性が座っていた。しかも良家の出身であろう璃月人だ。ちょうど講談師は居なかったが、あの時間帯なら直前まで講談を二人で聞いていてもおかしくなかった。
片眉を上げたタルタリヤは、ああ、と思い至ったように声を上げる。あれねえ。疲労を滲ませた声を出しながら、フードを被った頭が振られた。
「七星八門……まあたぶん総務司の所属だろうな。それか、七星の私的な手駒の一人だよ。到底一般人とは言い難い」
「監視目的か」
「それが一番かな。もちろん情報収集もあるだろうし、万が一彼女に傷でも付こうものなら全部俺のせいにされるだろう。俺に注目が集まるならそれはそれで便利だから良いけど、おかげで袖にするのにも気を遣う」
タルタリヤにとっては丁重に扱わなければならない爆弾らしい。表向きは公子に惹かれてしまった娘として接してきているそうだ。そんな役を割り当てられた彼女の方も、周りからあれこれと噂されそうなものだが。
「まあ彼女のことは良い。どうやら手ぶらで帰るつもりはないらしい先生への口止め料だけど」
灰色の手袋を嵌めた手が持ち上げられ、そっと鍾離の頬に添えられた。手袋越しの親指が唇に触れる。
初めてと言っていい、タルタリヤからの接触だ。触れるというにはあまりに控えめだったが、鍾離は自らの心臓が高鳴るような心地を覚えた。手袋越しではほとんど体温が伝わらないことだけが酷く惜しい。
「勝手に持っていったぶんでチャラにしてあげてもいいよ」
挑戦的な笑みを向けてくるタルタリヤに、つくづく隙の多い男だと思う。そういうところが可愛がり甲斐のある男なのだが、鍾離以外には見せてほしくないというのが本音だった。見境なく誘いをかけるほど爛れていないことは知っているものの、彼の認める強者に対する手合わせへの誘いでこれと似たようなことをされていたら面白くない。
頬に触れる手に自らの手を重ねれば、僅かにタルタリヤの肩が跳ねる。慣れないことをするからだ。鍾離は笑みを浮かべて、タルタリヤの掌に頬を擦り寄せた。
「ならもう一度くらいしても構わないだろうか。無論公子殿からしてくれるというのも吝かではないが」
「ッ――俺はそんなに安くない!」
「はははっ!」
それは確かにその通りだ。べりっと手と頬に挟まれていた自分の手を引き剥がし、見事に熟れた林檎のような顔で叫んだタルタリヤに、鍾離は大きく笑った。
