5.
だらりと脱力した様子の足が投げ出されている。
「自分が自堕落になっていくような気分で嫌だな……」
それでも動こうという気にはならないらしかった。ぽつりと呟いたタルタリヤは、長椅子の背凭れに身体を預けている。疲労している様子だ。三日三晩戦い続けても笑っているだろう男だが、精神面での疲労には抗いがたいようである。
鍾離が洞天内で読書しているところにやってきたタルタリヤは、灰色の制服とは違う、スネージナヤ風の私服姿だった。あちこちに跳ねている金茶の髪は心なしか普段より大人しく見え、それがぐったりとした様子に拍車をかけている。
「自堕落という言葉には程遠いと思っていたが」
「はは、褒めてくれてる? 嬉しいな」
微塵も感情が乗っていない声も珍しい。神の目こそ付けているが、赤い仮面がない格好は、最近のタルタリヤの余所行きの姿を彷彿とさせる。それに鍾離の洞天や家に来る時は執行官の制服が多かったから、そうではない姿を洞天内で見るのは新鮮だ。
自分から言葉を発したということは気まずさを今更覚えたか、何か気を紛らわせたいか、構ってほしいかのどれかなのだろう。鍾離は本を閉じ、テーブルに置いた。
「あの娘か」
「……誘いがあったのを断ってきたんだけどね。最近は言い訳を使い過ぎて、そろそろバリエーションがなくなってきたところだったから、断るためだけに会ったのに異様に疲れたよ」
層岩巨淵の封印が解かれた前後は、あれこれと根回しのために忙しくしていたようだった。そのツケが回ってきたらしい。しばらくタルタリヤの監視が出来ていなかったわけだから、娘の方も必死になりもするだろう。
鍾離の洞天はまた避難所扱いをされているわけだ。それだけここは気を抜いて良い場所だと考えられているのは構わないが、タルタリヤに自覚はあるのだろうか。しかも鍾離が読書していると認識して尚、長椅子に腰を下ろしてこの姿を晒しているのである。
分かりやすく接近するあの娘以外にも、タルタリヤには監視が付けられているだろう。言い訳が尽きた状態で迂闊に出歩いていれば明らかな嘘だと自白しているようなものだから、鍾離の洞天以外に来られる場所もなかったのかもしれないが。
「書類仕事は片付いたのか?」
「それはここ数日で言い訳に使った上に実際に捌いていたから、ものの見事になくなってしまったよ」
「なるほど。では表向きどう断ったんだ」
「書類をやっていたぶん出来てなかったから、スタッフと打ち合わせで意見のすり合わせ。昼間はその後雑事を片付けるから難しい、ってね。まあ実際、俺がスタッフと打ち合わせなきゃいけないことなんてほとんどないんだけど」
「それでは昼間だけしか言い訳が出来ていないが、連日粘られるのなら夜まで予定を確認されたのでは?」
「さすがに勘が良いな。……夜は久しぶりに、友人と会う約束があるから、って。想像通り、そこまで言ってようやく引いたよ」
「ふ、実態は昼からこの有り様だがな」
「銀行内に居て余計な気を回させるのは部下に悪いからね」
言い訳もあって外仕事に出るのも憚られ、かといって銀行内で出来る仕事といっても既に終わっている、そんな暇を持て余した上司。最早璃月所属のファデュイは公子とそれなりの付き合いになっているとしても、どうしたって最も危険な男と恐れられる側面があるのだ。タルタリヤなりの気遣いなのは確からしい。
わざわざ洞天にまで来た理由はそれなりに納得できるものだったが、そうなった元凶たる娘も、夜にまで会いたがるとなると熱烈なタイプだ。鍾離も総務司所属か七星の駒かと考えているタルタリヤの見立てが外れているとは思わない。とはいえこれでは、本当に惚れ込んでいる可能性も段々否定できなさそうだと思えてくる。
本人は見ての通り辟易としていて、靡く様子など欠片もないのは明白だった。それでも、なんとなく面白くない。
会話こそしているが鍾離と目を合わせようとしないタルタリヤを見つめ、鍾離はわざとらしく足を組んだ。
「では夜までここで過ごすか?」
「……」
「俺は午後に少し予定があるが、夜ならば空いているぞ」
鍾離にとって、タルタリヤとの関係性は曖昧なものだ。友というには距離があるし、仕事相手にしては遠慮がない。しかし知人というには妙な情を抱いている。端から見れば、食事をし酒を飲む相手だ、友人と喩えられてもおかしくないが。
タルタリヤとて、言い訳に使うためにあえて友人と形容したに違いない。彼からすれば鍾離は元岩神で、己が主たる氷神の取引相手だ。
口付けられて恥じらい、しかし嫌悪を示さず怒りもしないなど、この誇り高い男らしくない姿を晒した相手、でもあるけれど。
目こそ合わせてくれたが無言を貫いているタルタリヤに、鍾離は椅子から立ち上がった。一歩、二歩。長椅子に座るタルタリヤの前に立つ。
「公子殿」
伸ばした手で顎を掬い、先日されたことを真似するように親指の腹で薄い唇に触れた。それでも何も言わずに見上げてくる男の瞳は、読書を止めてからまもなくの何かを考えているようなぼんやりとしたものだ。文句も抵抗もないのを良いことに鍾離はふにふにと唇を押して遊び、それから掌で白い頬を撫でた。
上向きの睫毛が一度瞬きのために上下して、ふ、と僅かに下がる。頬に触れていた鍾離の手にタルタリヤの手が重なった。灰色の手袋を嵌めている。重なった手に固定された鍾離の掌へ、タルタリヤは視線を外さないまま猫のように擦り寄った。
薄い唇が弧を描いている。ぼんやりと思考していた瞳は、海中のような深い蒼に鍾離の姿を映し込んでいた。
「アンタも相応のものを差し出してくれるなら――夜と言わず朝まで、居てあげてもいいよ」
「ほう?」
「何にせよ、今のままじゃくれてやらないけどね」
そう言って鍾離の手を頬から引き剥がしたタルタリヤは、鍾離の手を捕まえたままわざとらしく首を傾げた。左耳から下がるピアスが揺れて、きらりと光る。試すような、誘うような、蠱惑的な仕草だ。
あれだけ鍾離と向き合うことから逃げていたのに、どんな心境の変化があったのか。問いたい気持ちもあったが、それ以上にこの機を逃すのは勿体ないように思われた。鍾離はタルタリヤの手を逆に捕まえて自分の方へ寄せ、身を屈めてその指先に口付ける。
虚を突かれたらしいタルタリヤに微笑んだ。
「俺が差し出したぶんだけ応えてくれるというなら、悪くない契約だ。だがその場合、朝まででは代価が足りないな」
これはもう、たった一夜で収まるものではなくなっていた。それで収まるのなら、まずこんな風に触れようとは思わなかったはずだ。
タルタリヤは瞬きを一つして、強気な笑みを浮かべる。
「受けて立とう。そのぶん、とびきりのものにしてくれよ?」
「ははっ、怖気付いて逃げ出してくれるなよ」
「当然」
鍾離の手から自らの手を引き抜いたタルタリヤは長椅子から立ち上がった。ぶつかりそうになって僅かに仰け反った鍾離の項に手を回し、素早く唇を押し付けてくる。
音すら立てずすぐさま離れ、犯人はとろりと微笑む。
「前払いだ。楽しみにしてるよ」
ぱ、と手が離れたかと思えば、タルタリヤは颯爽と部屋を出て行った。音を立てて閉じられた扉をしばし見つめる。
表情こそ微笑んでいたが、部屋を出て行く男の耳が赤く染まっていたことを鍾離は見逃さなかった。普段はほとんど音を立てずに部屋を出入りする男が扉を閉める時に音を立てたことといい、一つ一つの行動にじわじわと胸がいっぱいになっていく。
午後の予定は前から職人に依頼して用意していたものを受け取りに行く、というものだ。それがこの日に重なったのは都合が良かった、のだが。
閉じた扉に視線を投げたまま、鍾離は指で自らの唇に触れた。
「……足りないな……」
差し出したものに彼がどんな応えを寄こしたとして、仮に泣かれても手放してやれなくなりそうだ。いっそ手籠めにしてしまいたい気持ちがないと言えば嘘になるが、それでも彼の在り方や信念まで捻じ曲げたいわけではない。はあ、と息を吐き、頭を振った。
未だに洞天を出て行った気配がないから、間違いなく探せばタルタリヤはすぐに見つかるのだ。それが今の鍾離にとっては余計に毒だった。
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昼食時に一度洞天から出て行く気配がしたが、さほど時間を置かずにまた洞天に入ってきてから、そのままタルタリヤは洞天内で過ごしたらしい。午後の予定を済ませた鍾離が夕飯はどうするかと聞くために洞天に入ったところ、高い木の上から突然降ってきたものだから、読書以外もかなり満喫していた様子だ。
「おかえり。用事は済んだんだ」
「ああ。夕飯はどうする? 『夜は友人と会う』んだろう」
「……あー。一応銀行から出た体を取らないと要らない邪推を生むか」
「一度銀行に戻ってから家に来るか?」
「う……ん、先に万民堂で待ち合わせて食事するかテイクアウトするかして、そこから先生の家に行く、のが良いんじゃないかな」
タルタリヤは現状、疚しいことなど何一つないのだ、という表明をしなければ首が絞まる立場である。本人の本来の気質としてはむしろ疑うだけ疑わせて相手が武力を持ち出してくるのを嬉々として待つタイプだろうが、自らの役割には忠実な男だ。
「そうか、ならばそうしよう」
「間違いなく監視されてるから、俺と居たら先生も七星やら総務司やらにマークされるだろうけど……アンタの場合は今更かな」
「ああ、今に始まったことではないな。それに万民堂なら屋内の席もないし、逆に堂々と監視されている方が妙な疑いもかけられない」
「俺を知ってる奴には白い目では見られるだろうけどね。どうせ先生はそんなこと気にしないし、問題もないか」
ごそごそとポケットから通行証代わりの鍵を取り出したタルタリヤは、屋敷の扉へ向かっていく。鍵穴のある扉からでないと出入りが出来ないが、もっと言えばタルタリヤは屋敷の玄関からでは鍾離の家に出てしまうから、屋敷内のどこかの扉からでないと元居た場所に戻れない。
がちゃ、と玄関を開けて、そこでタルタリヤは鍾離の方を振り返った。金茶の頭を揺らして問いかけてくる。
「鍾離先生も家に戻らないのかい?」
「……ああ、戻るが」
「そんなにじっと見られても、普通に出て行くだけなんだけど」
他人からの視線に敏感ゆえに鍾離の視線が気になってしまったらしい。ふ、と笑みをこぼして鍾離がタルタリヤに近づくと、僅かに身体に力を籠める。昼の件が効いているのか、鍾離のことを意識してくれているようだ。
そっと指の背でその頬を撫でてやれば、目を瞠ったタルタリヤはぐっと唇を引き結んだ。蒼い瞳に睨みつけられる。
「手ぶらで木登りとは、暇を持て余させてしまったなと思っただけだ」
「別に……読もうと思えば本も読めたし、退屈はしてなかったよ」
「そうか。出来れば俺のことを考えさせたかったんだがな」
「ぐ、――ッ、そういうのは! 夕飯済ませてからにしろ!」
吠えたタルタリヤはさっと屋内へ身を滑り込ませてバタンと勢いよく玄関扉を閉めた。扉越しでも足音が聞こえる。そして残された鍾離が玄関扉を開ける前に洞天内から気配が消えた。元居た場所に戻ったようだ。
どうやら彼曰く、夕飯を済ませた後、つまり鍾離の家でなら良いらしい。
なるほど。
「……なるほど」
墓穴を掘るのが上手すぎて逆に心配になるが、あのままでは銀行員にも赤面を見られてしまうのではないだろうか。それはそれで気に喰わないのだが、と酷く自分勝手な考えを抱いた鍾離は、とりあえず洞天から出ることにした。
まずは万民堂で待ち合わせて、夕飯を済ませて、それからだ。
至って普段通りの様子で鍾離の家に上がったタルタリヤは、慣れきった様子で居間の椅子に腰を下ろした。そこは食事や晩酌の際にタルタリヤがいつも座る椅子で、すっかりなじみ切ったなと頬が緩む。
「酒は必要か?」
「酔わせたいならどうぞ?」
待ち合わせまでの時間と万民堂での夕食の間に平静を取り戻した男の余裕は、そう簡単に崩れてくれなさそうだ。万民堂で合流する前にスネージナヤ風の私服から見慣れた執行官の制服に着替える、という物理的な切り替えを行ったせいもあるかもしれない。
酒を言い訳にされてもどうにでも出来るが、どうせなら真っ直ぐ向き合うさまが見たいから、酒ではなく茶を準備することにした。
人を待たせている時の茶の淹れ方にはタルタリヤのおかげで慣れたと言っても良い。鍾離が茶を淹れて戻ると、タルタリヤは机に頬杖をついてぼんやりとしていた。
「……ん、もう出来た?」
「これくらいはな。だがもう少し待ってくれ」
「うん? いいけど」
茶器の類を卓に置き、鍾離は寝室に向かう。目的は午後に職人から受け取った――タルタリヤへの贈り物だ。
前々から考え、思いついたものを職人に伝えてこのために作ってもらったのだ。アイデアは今後好きに活用しても構わないと伝えてあるから、似たようなものは出回る可能性が高いが、それでもこれが今唯一の作品であることに違いない。手のひらに収まってしまうような小さな包みを持って居間へ戻った。
「それ……」
「つい数時間前に受け取ってきたものだ」
す、とタルタリヤの前に置いてから椅子に腰を下ろす。ぱちぱち、と瞬きをしたタルタリヤは、眉を下げて「俺に?」と聞いてきた。困っているというには嬉しげだが、素直に受け取るには後ろめたいような表情をしている。
湯気を立てる茶碗に口をつけて一息ついた鍾離は、包みに手を添わせるようにしているが実際には触れてさえいないタルタリヤに頷いた。
「前々から贈りたいと思っていたものだ。受け取ってくれ」
「えぇ、俺は今更先生から何を贈られるんだ」
「なくても問題はないようだったが、あれば使うだろうと思っただけだ。勿論モラは俺持ちだから公子殿に請求されることはないぞ」
「贈り物って普通そういうものだよ。あの時の箸みたいなことは俺以外にしたら絶対白い目で見られるからな……ここで開けても?」
「構わない」
遠慮がちな指が丁寧に包みを開いていく。静かに蓋を開けたタルタリヤは、現れた小さな贈り物を無言で見つめた。
「これ、は」
「栞だ。一つくらいあっても良いだろう」
金色の縦に長い長方形の栞は、上辺の部分に飾り紐が結ばれている。金に映える赤色の紐は飾り結びになっており、少々華やかではあるが小さいため派手ではない。しかしこの栞の最も特徴的な部分は、長方形の内部だ。
外縁は少し太い線だが、その内側は細やかな線で何かが描かれている。金色の線だけだから、ぱっと見ただけではそれが何を描いたものか分かりにくいかもしれない。だがタルタリヤはよく知る景色のはずだ。
じっと栞を見ていたタルタリヤの視線が、はっと何かに気付いたように持ち上げられた。あどけなさの残る顔をより一層幼げに見せる表情のまま、タルタリヤは小さくそれを呟く。
「……緋雲の丘?」
「正解だ。見事な細工だろう」
「色もなしに、線だけで分かるのは職人の腕だろうね」
「今後は色を乗せる技術を模索すると言っていたから、そのうち璃月港の土産物として名を馳せるかもしれないな」
「……じゃあ、これはその第一号ってところか」
手袋を嵌めたままの指先がそっと栞の表面をなぞった。
「今のままでもそうだけど、色まで乗ったら、ステンドグラスみたいでもっと綺麗だろうな」
ゆる、と薄い唇が笑みを浮かべている。ステンドグラスは璃月ではあまり馴染みがないが、タルタリヤの祖国ではそれなりに馴染みのあるものだったはずだ。柔らかな雰囲気をまとっていた濃い蒼が、瞬きをして、不意に深く沈む。
指が栞から離れた。机の上で軽く拳を作った灰色の手に、鍾離は茶を一口飲んで様子を窺う。この若い男が栞を見ることで何かを思って、思考が切り替わったのは間違いない。肌がひりつくような緊張感を纏うこの男を見るのは久しぶりかもしれなかった。
鍾離が茶碗を静かに置く頃、聡明な瞳が瞬いた。
「何であれ、贈り物は嬉しいよ」
「そうか、それは重畳」
「けど、鍾離先生は色々と思い違いをしてるんじゃないか?」
「思い違い?」
鸚鵡返しに問えば、タルタリヤは机の上で握っていた手を持ち上げてひらりと掌を上へ向ける。芝居めいた動きだが、それが似合うのだから仕方ない。事実、今この男は間違いなく、何かしらの意図をもって振る舞っているのだ。
「俺は確かに本も読むし劇だって見る。歴史を知ること、役に立てるタイミングの分からない雑学を聞くこと。そういうのは嫌じゃないし、策略を練るよりずっと面白いとさえ思ってるよ」
上を向いていた掌がぐっと握りこまれた。それでもね、と口にするタルタリヤの瞳は昏かった。紙面の空想に耽る瞳とはまた違う、鍾離を見ているはずなのにどこか焦点がずれているように感じる眼差しだ。
「それ以上に、どうしたって俺は戦いが好きなんだ」
公子タルタリヤは執行官として氷神に認められた男である。赤い仮面でその側頭部を飾り、水元素を宿す神の目はまた別の元素を宿すことがある。結局、鍾離はタルタリヤのその姿を見たことがなかった。負荷が大きいというそれは、旅人との探索を共にしても使うほどの危機に見舞われることがなかったのだ。
だが鍾離は知っている。それがただの人の身ではそうそう獲得しえない力を与える代わり、命を削る装置であるということを。
黄金屋で対面した戦士の話を、幼い弟を守ったヒーローの話を、鍾離は聞いていたから。
「互いに命をすり減らして鎬を削る、そんなギリギリの戦いを愛することが――普通はおかしいと思われることなんだと、俺はきちんと分かっている」
ふ、と栞に視線を落としたタルタリヤは、握っていた手を下ろして栞が収まった箱を指先で撫でた。箱は箱だろうに、静かな指先は割れ物に触れるかのような動きをしている。まるで慈しみ、尊ぶような手付きをしていると指摘したところで、この男は認めたがらないだろう。
破滅的な男だ。それも自らがその底に転げ落ちていくというよりも、周りをそうして底へと巻き込んでいく、台風の目である。災害の中心だ。これを排除すれば、もしかすれば世界は幾分か平和になるかもしれなかった。
そういう性質であることを受け入れ、そうして自らが起こす災いを喜び、愉しんでしまえる男なのだ。璃月の民の平穏を長らく守ってきた過去を持つ鍾離が正しく神であった時分に出会っていれば、おそらく真っ先に始末していたであろう男。
「俺っていう生き物は、先生が好むような情緒に富んだ素晴らしい人間なんかじゃないのさ。むしろアンタの疎んできた、獣性の方にこそ近い」
鍾離も自覚しているし、タルタリヤとてそう思っているのだろう。だからこんな話をしている。暗闇を知る男は、自らの役割をどこまでも冷静に見下ろしているのだ。
こて、と災禍を呼ぶ男は愛らしく小首を傾げた。深海は細められた瞼から薄らと鍾離を覗き込んでいる。底冷えした眼差しを除けばお手本のような笑顔だ。
「認めてくれることは嬉しいよ。けれど俺たちに適した距離は、アンタが俺のやることなすことを遠目から眺めて面白がる、ってくらいのものなんじゃないか?」
舞台上で踊る役者と、それを観客席から眺める観客。その図は確かに己が行ったことを語るタルタリヤと、酒を片手にそれへ耳を傾ける鍾離そのものだ。
役者は魅せるだけで観客を見ず、また観客も役者を見こそすれど手を伸ばしはしない。つかず離れず、干渉とてほとんどないような関係性だ。少なくともそれは贈り物をする関係性ではないだろう。
沈黙を貫いてきた鍾離は、投げかけられた問いに応えた。
「だがそれでは、お前に手を伸ばせない」
干渉できないのでは意味がない。そんな関係性に、もう鍾離は満足できなくなっていた。いつからかと問われれば、明確な時期は判断しづらいが、おそらく書庫を貸す契約をした頃からになるだろう。
あの時から二人は、役者と観客以外の関係性を持っていたのだ。
「俺の行動に様々な反応を示す公子殿が見たいと思ってしまった。それに俺が一方的に見るのではなく、お前にも俺を見てほしいと思ったから、もうそんな『適した距離』では足りないんだ」
「……俺の話聞いてた?」
そして別の関係性を生み出してから、更に欲深になった。知らないものを知る機会を得て、知らなかった頃には戻れなくなってしまった。もっと他のものを、他の誰もが知らないものを、どこまでも知りたくなった。
「一方があるからこそ他方もまた輝く。公子殿は既に、自らの獣性を飼い慣らしているだろう」
家族を愛し氷神に忠誠を誓い部下には上司らしく振る舞う、人間的な理性。ただただ強さを追い求め、戦いを愛し、戦女神と踊る獣性。果たして彼のどちらが主体なのか、というのを議論したいわけではない。
「その栞を見て『綺麗だ』と言ったように、美しいものを美しいと思う心は確かにお前の中にあるんだ」
理性を持つ生き物は皆、多面体だ。どれか一つが欠ければもう、それはそれとは言えなくなる。
「お前の自己認識が戦いを愛す獣であれ趣を解する人であれ、どちらの面も併せ持っているなら関係ない」
「どうだか」
疑い深い目だ。本当に信用がないらしい。
しかし、それも当たり前の話かと鍾離は不満を飲み込んだ。タルタリヤは鍾離を元岩神だと知っている。そして岩王帝君の物語は、璃月では耳に入れないことが難しいくらいにありふれている。講談で、書物で、美術品の意匠で、人々の口癖で。
その多くが、契約を重んじ璃月の民を守った守護神としての岩王帝君の姿だ。武力も当然用いていたが、講談では悩める民の背を押し、血迷う民に説き、そうして解決へと至らしめる姿も多く語られる。
今の鍾離の生活とて、戦いからは身を引いている穏やかなものだ。戦いの渦中に身を投じることを好む男にとって、今の鍾離の生活は酷くつまらないものだろう。武神と崇められたものが送るにはあまりにも平和すぎる時間だ。かつての岩神も、このような生活を送れる日はまだまだ遠いと思っていた。
だが、過去は確かにそこにあったものである。
――思い違いをしているのは、タルタリヤの方だ。
「ならば、魔神戦争の折に数々の魔神を屠った過去を持ち――今この場でも、お前を暴力で捻じ伏せて自分の物にしてしまえたらという思考を捨てきれない俺も、獣の側面を持っていることになるな」
深海が瞠られる。普段の鍾離にはあるまじき発言だ、その反応も無理はない。はは、と笑いを零して鍾離は続けた。
「無論、俺が好んでいるのは自らの意思で選択し行動する公子殿だし、氷神の目的の邪魔をしたいわけでもないからそんなことはしない。しかし、いつ何処とも知れない場所で死なれるくらいなら、俺の傍に居てほしいと考えてしまうこともまた事実だ」
「急に……曝け出してきたね」
困惑を隠しきれないといった様子で呟くタルタリヤの視線は鍾離から外されている。薄く開かれた口から舌が覗き、ちろりと唇を舐めた。今ここでその口を塞いで、舌を吸ってやりたい。そういう欲を確かに鍾離は持っている。
タルタリヤの一挙手一投足を見逃さないように観察しながら、鍾離は言葉を紡いだ。
「俺は単に、お前よりもずっと長い時間をかけて自らを律する術を身につけたに過ぎない、と言いたいだけだ」
神の心こそ手放したが、仙祖とも呼ばれているし、仙術の類も未だに使える。だから人の子一人程度、名も魂もやろうとすれば縛ってしまえるのだ。タルタリヤという名前は偽名だろう。それでも広く人々に認識されている名は、真名ほどでなくともそれなりに呪いとして効果を発揮できるから、今ここでそうしてしまうことだって出来る。
だがそんなことをしてしまえば、タルタリヤの在り方が歪んでしまう。鍾離の愛するタルタリヤそのものではなくなってしまうだろう。今は凡人として生活しているから、という理由もないとは言わないが、それ以上に彼を歪めてしまうことの方が嫌だからそうしないのだ。
「愛しているから牙を剥かない。お前にも覚えのあるものだろう?」
かつてはその最たる理由が契約だった鍾離より、純然たる愛を幼い頃から理由としていたタルタリヤの方が、よほど人間的で理性的であるとも言えるのではないだろうか。
生き物として違うのだから比べる方が間違っている、と言うのであれば、そもそも獣性と理性のどちらが強いかで好き嫌いを判断することも不適切であると言えるだろう。どちらが強かろうが、タルタリヤはタルタリヤだ。
問われたタルタリヤは僅かに唇を噛み、それをなぞるようにまた舌で舐めた。よほど余裕がないらしい。少しして、逡巡していた薄い唇が小さく呟く。
「俺は……手合わせしてもらうの、諦めるつもりはないよ」
今度は鍾離の方が目を瞠る番だった。ここに来て初めて聞く前向きな言葉だが、深い蒼は逃げるばかりで一向に鍾離を見ない。
「たまになら付き合っても良い。そのぶん、俺も公子殿に願いを叶えてもらうとしよう」
「……」
「公子殿」
呼べば、おずおずと逃げていた目が鍾離を映した。
「お前の懸念は解消したか?」
タルタリヤは鍾離の問いかけに押し黙り、鍾離を睨む視線を厳しくさせる。沈黙は金と言うが、肯定とも言われる。小説では定番の言い回しだ。タルタリヤがそれを知らないわけもない。
昼の様子から察するに、栞が何か琴線に引っかかって彼をこうさせたのは間違いなかった。タイミングが悪かっただけかもしれないが、読書するあの静謐さや語り口の滑らかさばかりを好まれているのだという誤解を今後されるくらいなら、今この時に解消できたのは幸いだ。
単純に贈り物に栞を選んだのは、読書の時に使うだろうと思ったのが発端だが――タルタリヤの中では戦闘の方が優先されるだろうと分かっていたからこそ、彼が諦めてきたものを拾い上げて、抱えることを少しばかり手伝ってやりたいという気持ちの表れだ。
戦いに使うものなら本人が自ら適したものを選ぶだろう。鍾離がわざわざ手を出す範囲ではない。
「俺はおそらく、お前が思う以上の感情を抱いているからな」
武人として研鑽を積み続ける姿を知っていたからこそ、本のシリーズひとつさえ自らの領域に置き続けられない姿に心を動かされたのだ、と、言ったところで信じるかどうか。これも今後時間をかけて説いていきたいところである。
鍾離はゆっくりと椅子から立ち上がり、座っているタルタリヤの横に立った。見上げてくる瞳に微笑んで、その両頬を手で包んで固定させる。
「な、なに」
「悪いが、朝まででも、身体だけでも足りないんだ」
きゅ、と唇を引き結んだ哀れさに、ぞくぞくと湧き上がるのは高揚感だ。あんな前払いを受け取る前から、鍾離は諦めるつもりなどなかった。本当に嫌悪感から拒絶されているのなら引き下がる覚悟もしていたが、これまでの反応とあの口付けで、その必要がないことは明らかになってしまったのだから尚更だ。
身を屈め、額をこつりと合わせる。白皙がじわじわと染まっていくさまを見るのは酷く気分が良い。
「『受けて立とう。そのぶん、とびきりのものにしてくれよ?』だったか? ああ、『楽しみにしてるよ』とも言ったな」
「っ、う、」
「愛している。だから欠片ほどでも良い、心まで許してくれ」
なにせ多くを抱えきれないと諦めた姿を知っているのだ。鍾離に許せる範囲とて限られているのは聞かずとも分かる。分かっているから、多くこそ望まないが、しかし欠片くらいは許されたかった。深海の瞳が大きく見開かれる。
ぎり、と掌から歯を食いしばった感覚が伝わってきた。
「――ここまで言うならッ! 全部持っていけよ馬鹿野郎!!」
椅子がガタンと大きな音を立てて倒れる。立ち上がって勢いよく噛みついてきたけものは、そのわりに歯をぶつけることなく柔らかく唇を押し付けきた。その妙な丁寧さにまた笑って、鍾離は飛び込んできてくれた男をぎゅうと抱き締める。
若い身体だ。鍛えられているがしなやかで、熟練した戦士でありながら若木のような生命力を感じる。けれど存外、身体が薄いのだと今になって気付いた。素早く動き回る戦い方に重すぎる身体は不適切だからだろうが、抱き締めてみるとこんなにも腕が回るのだ。
口付けもしたし、手や頬に触れたことはあるが、抱擁は初めてだった。若い男の身体は服越しでも温かく感じられる。
「俺も好きだよ……馬鹿……」
この男はこんな風に愛を囁くのだ。初めて知った。たった一言なのに、後ろには罵倒までおまけされていたけれど、それでも愛しくて堪らなくて、鍾離はまたすぐ傍にある唇を吸った。
見えるもの、感じるもの一つ一つが新鮮で、タルタリヤが胸を叩いて訴えるまで、鍾離は柔らかな唇を堪能し続けた。
2022.5.25
