旅人の洞天に入り込んで、池の魚を眺めながら瞑想していたところを旅人に見つかった。太陽も落ちた頃だったので、宿代わりに休むために入ってきたところだったのだろう。とはいえ執行官なんぞに通行証を渡しているのは旅人の意思なので、特に怒られるようなこともなく、そのまま池の魚を眺めながらのんびりと日常的な会話を交わした。
金髪の子どもと初めて出会ったのは璃月でのことだ。そのためこうして話す機会があった時によく話題に上るのは、璃月で起こった、連れの小さな少女がチ虎魚焼きを五本食べてもまだ食べたがった話とか、万民堂で開催された試食会の話だとか、そういう不穏なこととは一切関係のない平和な事柄だった。
その中でもよく登場するのは、往生堂の客卿こと鍾離の話題である。元は岩王帝君として璃月の民に信仰される岩神だった、という裏事情を共有していることもあり、あの男の凡人離れした部分の話は頻出する話題だ。それ以外にも理由がないとは言わないが、旅人に明言した覚えはないのでほとんどないようなものである。
今回も例に漏れず、そういう平和な話ばかりだった。そのはずだ。繰り返すが通行証を渡してきたのは旅人で、洞天に居て怒られる理由なんてないはずなのだ。何一つ怒られる理由はなかったはずなのだが、何故か唐突に、ぽい、と軽々しく洞天から放り出されたのである。
どこへ、とは、もちろん話題に上っていた璃月へ。
そういうわけで今、タルタリヤは璃月港に立っている。
「……あの子、璃月におけるファデュイの立場分かってるよな?」
暗がりにたたずむタルタリヤに向けられる視線がほとんどないのは幸いだが、それにしたってこの扱いには困惑してしまった。仕事をひと段落させた後だったのも不幸中の幸いである。なにせタルタリヤは洞天に入る前、スメールに居たので。
腕を組み、うーんと一度考えてみる。今から洞天に戻ったとして、旅人にまた放り出される可能性は否定できない。理由くらいは聞けるかもしれないが、これが単純な嫌がらせだったら何も言えなくなってしまう。なんせ思い当たる節が多すぎた。
冷静に考えれば、ここは璃月だ、戻ろうと思えばさほど時間をかけずスメールまで戻れるだろう。あまり危機感を覚える理由もない。まあ、とはいえ朝方から動き回っていたから、これから夜通し移動しようという気にもならないが。
星々が遠く輝く夜空を見上げ、ふう、とタルタリヤは息を吐いた。
嫌がらせだったら、とは思ったが、璃月に放り出された一番の理由が嫌がらせでないことは分かっている。あの素直な子どもがわざとらしい嫌がらせなどするように思えないし、なによりそう判断できるだけの情報がタルタリヤにはあった。
ならば、面白いことのためにこの機会を使った方が楽しいだろう。出来るだけ目立たないように街の明かりを避けながら、歩き慣れた璃月港の裏路地を進んだ。
洞天内の池の傍、魚たちと共に聴衆になり聞いた話である。
旅人がモンドから璃月港に至る道で困っているモンド人を助けたところ、その若い男は璃月港でモンド風のバーを開く準備をしていたらしい。だが宝盗団に馬車を壊され、持ち込んだものもいくらか破損してしまった。そしてその被害のせいで金銭も心もとない。
嘆く若い男に協力すると決めた旅人たちだったが、酒が飲めない身体では協力しようにも限度がある。
そこで白羽の矢が立ったのが鍾離だった。知識は言うまでもないが、舌も肥えており、商売にも詳しい男だ、これ以上の適任も居ない。モンド城のエンジェルズシェアでバーテンダーの体験をした旅人も出来る範囲で知恵を出し、鍾離と共に若い男の店の開店準備を手伝っていった。
――話は変わるが、鍾離は浪費家である。
一般的に見れば、の話であり、彼自身にあまりその自覚はない。なぜかといえばモラという通貨に対する考え方が、世間一般のそれとはかけ離れているためだ。財布を忘れ、財布にモラを入れ忘れ、とそれで生きていけるのが不思議なくらいである。
そうした様子を一番身近に見ているのは、おそらく鍾離が客卿として雇われている往生堂の面々、中でもその雇い主である堂主・胡桃だろう。彼女も若いのにあんな男に振り回されるのは可哀想だと思わなくもないが、それ以上に彼女の方が鍾離を振り回しているので、なんだかんだで上手くやっていけているようだ。
元岩神の凡人初心者を振り回すそんな少女が、旅人と鍾離があれこれと動き回っているのを仕事の合間に目にして、こんなことを言ったらしい。
「鍾離さん、アルバイトでもしたらどうですか?」
ウチは副業できますから! というのはまあ置いておくとして、例え現状でモラに困っていなくとも、往生堂に鍾離の請求が回されることは珍しくない。そして鍾離の請求は、最近は鍾離の給料から天引きされるようになったらしい。
そうしたところでモラの消費スピードを落とす鍾離ではない。あの男がそんな時代に陥る想像は微塵も出来ないわけだが、有り金を全て失ってしまう時が来る前に、貯金という概念を覚えた方が良い、と胡桃なりに考えたらしい。
だから――人が死ねば仕事がやってくる往生堂は仕事がない時間という概念が曖昧だが、夜遅くまで働いたところで特に体調を崩さないのであれば、いっそバーでアルバイトでもしてモラ稼ぎをしたらどうか。
面白そうですしね、と酒が飲めない年の少女は他人事のように笑って、鍾離の背中を押したそうだ。
バーというものは確かに璃月では耳にした記憶がなかった。外観こそ璃月らしい建築様式だったが、扉を開けて中に入った途端、モンド風の意匠と璃月風の意匠が融合した内装が目に飛び込んでくる。どことなく北国銀行を思わせる雰囲気だ。だが片方がモンドなので、あれともまた違う。確かにこれは新鮮だし面白い。
建物自体は若い男が一人で準備していた頃に用意したものだったそうだし、旅人が居たとはいえ、鍾離も助力するわけだ。
雰囲気づくりのためか照明が少し絞られた店内、バーカウンターの内側には旅人が聞いた通り鍾離が立っていた。
普段の服装に似た色合いと衣装だが、少々形が違う。シャツは襟元が璃月の衣装でよく見る襟になり、色も明るい色から一転、黒になっていて引き締まった印象だ。全体的に黒が多くなった服は暗めの店内の中に沈み込み、目立ち過ぎないようになっている。
「ああ、来たのか」
「……当然みたいな顔しないでくれるかな」
一言目がそれなのか。あっさり過ぎやしないだろうか。この男がまさかファデュイの立場を知らないわけがない。旅人もだが本当にそれでいいのか。ちなみに鍾離とタルタリヤが最後に会ったのは三か月ほど前になるのだが、その点も構わないのか。時間感覚も確かに鈍い男だけれど。
一瞬集まった客からの視線はすぐに離れていったが、あまり目立つべきではない場所だ。それなのに声をかけてくる鍾離は本当に相変わらずである。端の方にあるテーブル席で酒だけ楽しむかという思考が過ったものの、バーカウンターから向けられる視線が突き刺さって抜けない。
肩を竦め、タルタリヤはカウンター席の出入り口側、鍾離の目の前に座る妙齢の女からたっぷり間に三個ほど余裕を持ってスツールに腰かけた。
店内は盛況というには少し人が少ない。鍾離がバーテンダーとして立つようになっていくらか時間が経っているそうだから、珍しいモンド風のバーや物珍しさで来るタイプの客は減ってきた段階だったのかもしれない。
「注文は?」
「おすすめで。度数も気にしないで構わないよ」
「承った」
旅人によると、璃月に店を構えるということで璃月の酒を用いたカクテルも研究して作り上げたのだという。カクテルも璃月の酒も飲み慣れたタルタリヤだが、璃月の酒を使ったカクテルは経験したことのないものだ。鍾離が協力しているなら味は間違いない。
早速カクテルを作り出した鍾離の動きを眺めていれば、さほど待たないうちにすっとグラスが置かれる。
「惚れ惚れする手つきだね」
「研究している間に自然とな」
「はは、相変わらずみたいだ」
各地のバーテンダーが嘆くさまが目に浮かぶようだ。出されたグラスに口をつければ、冷たい酒が炭酸と花の香りを纏って喉を滑り落ちていく。作っている最中に見た材料には、タルタリヤも飲んだことのある璃月の酒が使われていた。知っているはずの璃月らしい風味は変わらないのに新鮮な感覚だ。
だがあの酒は度数が高かった。いくら炭酸水で割られていても、他にもリキュールらしいものを入れていたし、度数は相応のものになっているだろう。少なくとも一杯目で出す酒ではない。これくらいで酔わないと思われているのは嬉しいが。
飲み口がすっきりしているせいで余計にぐいぐい飲めてしまう。傍にチェイサーのグラスが置かれてふっと視線を上げれば、鍾離が目の前に立っていた。
「……美味しいよ」
「そうか」
ゆるりと微笑む男から視線を外し、タルタリヤはそのままカウンターを見つめながら横の方の気配を探る。見られている。誰にって、タルタリヤが来るまで鍾離の目の前にいた客に、だ。あまりにも分かりやすい視線過ぎて失笑しそうになる口元をグラスで隠した。
そういう贔屓は良くないのではないだろうか。公平を絵に描いたような男の行動とは到底思えない。人がそれなりの度数のカクテルをぐいぐい呷るところを間近で観察しないでいただきたい。鍾離のことがこの短時間で分からなくなってきた。いや、いきなり璃月港に放り出した旅人のこともよく分からないのだけれど。
「良い飲みっぷりだな。二杯目はどうする」
「気が早いよ店員さん……せっかくだし、これとは違うやつで」
しかしカクテルは文句なしに美味いので、飲まないという選択肢はなかった。
一杯、二杯、三杯。
どれも異なる酒と割り材を組み合わせたカクテルで、璃月寄りだったりモンド寄りだったりと面白い風味のものばかりが出てくる。タルタリヤの飲みっぷりと鍾離のうきうきっぷりに負けたのか、妙齢の女がやけくそのようにチェイサーを呷って退店したほどだった。
ついにカクテルが四杯目になっても、タルタリヤには酔いが回っていない。しかし店に居た客は入店時よりも減っており、そろそろ店仕舞いの時間が迫っていることを悟った。
「鍾離先生」
呼びかけたのは、もうほとんどタルタリヤに注目が集まっていなかったからだ。途中までは他の客もこちらを探っているようだったが、二杯目からはほとんど一定のペースでカクテルを呷り続けるのに、酔いが頬にさえ現れないタルタリヤをつまらない男と認定したのかもしれない。
他人が酔っているさまは、遠目から見ているぶんには面白いものだ。確かに酔わないタルタリヤは、そういう意味では見ていても面白くない。
磨いていたグラスからタルタリヤの方へ視線を寄越した鍾離は、その黄金の瞳にタルタリヤを映すと同時に口を開く。
「閉店まで居てくれ」
「……店員がそういうの、まずいんじゃない?」
会計を切り出す隙もなかった。タルタリヤが来てからほとんどタルタリヤの目の前で作業しているという距離と、小声だったから良かったものの、これが他の客の耳に入ったらとんでもないことになっていたはずだ。指摘してやれば、鍾離が僅かに眉を顰める。
「……ここにお前を酔わせられるような酒はなかったんだ」
それは――悔しそうな顔だ。ぽかんとするタルタリヤから顔を背けた鍾離に、本当に珍しいものが目の前にあることを認識する。
つまり本当はタルタリヤを酔わせて、それを口実に所謂お持ち帰りというものをしようとしていた、らしい。
あの文字通り岩の化身のような堅物が。
そんな、信じられないくらい俗っぽいことを。
「っ、ふ……く、ッ……」
「笑うな」
「む、むり、っ」
まだ客も残っているのだ、店の雰囲気を壊してしまうわけにもいかず、大きく笑うわけにはいかない。びくびくと震える腹筋をどうにか抑え、飛び出そうな笑い声を喉で殺し口内に封じ込める、というのはかなり難しい行為である。涙まで出てきた。
なんとか笑いの波を堪えきって涙を拭ったタルタリヤは、むっとした表情の鍾離を見た。
「はあ……ほんと、傑作だ。最高だよ先生。相棒に見つかって正解だった」
「結局どっちなんだ」
「んんッ、ふ、いいよ、なんだかものすごく可愛い先生に免じて、閉店まで居てあげる」
答えを急かすだなんて珍しい。堪えた笑いが再発しそうだったが、貫くような黄金色の瞳が薄暗い店内で光る。獲物を狙う狩人の目だ。ぞくぞくと背筋を興奮が駆け上がった。酒精では結局上がりきらなかった体温がぐんと上がっている。
この堅物をそうさせているのが己なのだ。堪らないに決まっていた。
「モラならちゃんと払ってあげるから、精一杯俺を酔わせてみなよ」
後日旅人から「二人してお互いの話してる時に寂しそうな顔してたから……」という申し訳なさそうな言葉を聞いて、タルタリヤは面白いやら恥ずかしいやらでどうにもならなくなった笑いを弾けさせることになる。
2022.5.28
