焼き魚で苦しめてやる

焼き魚で苦しめてやる

 点心が載っていた皿も綺麗になった頃、タルタリヤは向かいの男に問いかけた。
「璃月のおすすめの釣り場ってある?」
「釣り場か」
「海よりは川や湖の方が良いかな」
 いかんせん海となると漁師の人間に遭遇しやすくなる。それが悪いとは言わないが、なんなら喧嘩を売られようものなら喜び勇んで買ってやりたいくらいの気持ちではあるけれど、タルタリヤはできれば静かに一人で釣りをしたいのだ。
 昼下がりの三杯酔。講談が終わって人がまばらになっていく中だ、もちろんこの会話は本当に言葉通り釣りの話である。血腥い裏など一切ありはしない。だから非番だったらしい私服の千岩軍に睨まれても、痛くも痒くもなかった。
 タルタリヤは釣りが好きだ。当時は氷上釣りだったが、幼少期から親しんできたものであり、大切な思い出のあることであり、今は特に瞑想に最適なものである。ついでに釣竿を持って出かける準備をしていると、部下たちがあからさまにほっとした顔をするものでもあった。
 問われた璃月一の知識人は、黒い手袋を嵌めた手を顎に当て、ふむ、と思案している。
「奥蔵山の山頂にある湖には、長寿仙と呼ばれるチョウチョウウオが生息している。これは、今は他には見られない珍しい種だ。体表の白い桜色の模様が閑雅なことや、他のチョウチョウウオより寿命が高いこともあり、仙人の恩恵を受けた魚だと言われる。多くの璃月人は食用にしないが、これを食べれば寿命が延びると信じる者も居る魚だ」
「へえ、相変わらず詳しい解説だ。でもそこって仙人が居る山だろう?」
「そうだ。仙人の住処にも近いため、なかなか凡人は訪れない場所だな」
「だろうね……」
 一般的な璃月人は絶雲の間には近づきすらしない。昨今は岩王帝君が逝去したということになり、仙人と凡人の間の関係性も変わりつつあることもあって、今までとは違ってきているだろう。だからといってそんな場所に行ってまで釣りをする人間は多くないかもしれないが。
 とはいえ、仙人の住処が近いということは、偶然にでも仙人と出会う可能性があるということだ。戦えるとなればむしろ挑みに行きたいくらいだが、仙人と言えば放棄された洞天が秘境と化していることもあるような生き物だ。
 旅人の影響で洞天に関する知識も得られたタルタリヤは、もしもそこに引き込まれた上に閉じ込められたら、という可能性を考えることが出来た。とはいえ詳細な情報は少ない上に、凡人でどうにか出来るものではない、という結論に至っている。仮にそうなった場合は最終的に力業でぶち破るつもりでいるが、魔王武装で無理をしてしまえば結局撤退に失敗しかねない。
 禁忌滅却の札を持っていけば危害を加えられる可能性はぐんと下がるものの、洞天だ仙境だという世界に引きずり込まれることは果たして危害としてカウントされるのだろうか。旅人が禁忌滅却の札を持ったまま元気に仙境やら洞天やら元洞天の秘境やらに出入りしていたことを思うと、その効力に期待しすぎるわけにはいかなさそうなのだけれど。
 しかも別に危害を加えられる――戦いを挑まれるならば、むしろどんと来いなのだ。そう考えるとやはり禁忌滅却の札ではなく、どんな空間でもぶち破れる武器が良い。果たしてタルタリヤが今すぐに手に入る範囲に、そんな罰当たりなものが転がっているかどうか。
 準備できそうな男は目の前に居るのだが、こんなところで借りを作りたくはなかった。
 ぐるぐると高速で回るタルタリヤの思考回路を追いやるように、茶を啜った男は「それから軽策荘だな」と説明を続ける。
「作物を育む清らかな水源を好む魚は多い。公子殿はそこから少し離れた奥地に潜む純水精霊の方が好みかもしれないが、軽策の水はよく澄んでいるからな。悠々と泳ぐ魚たちもまたお前を楽しませてくれることだろう」
「先生って海産物と言うか、魚介類もまるごと駄目なわりに饒舌に語るね」
「む……もう一度あの話を語り直すか?」
「いいよ、ちゃんと覚えてるから」
 璃月の守護者として立っていた彼が案外、細かな作業を要求されるのは苦手なのかもしれないな、と思ったのはまだ記憶に新しいし、あまりにも腹が立ったらスライムの分泌液をぶっかけてやればいいのだなとも思ったので、タルタリヤにとっては収穫の多い話だったのだ。
 ヌメヌメにトラウマを抱える男はタルタリヤのそっけない言葉に僅かに眉を顰めつつ、残っていた茶を啜った。顔は綺麗なので難しい表情をしていても様になる。
 おすすめされた釣り場はどちらも、璃月港から離れた場所だ。移動も含めれば数日はかかる。のんびりと移動した場合、ではあるけれど、今のタルタリヤにはその数日が必要だった。
「奥蔵山と軽策荘か」
 どちらも行くとしたら、どちらを先に行こうか。道すがらでファデュイの訓練を挟んだら、一週間ほどかかってもおかしくない。一週間あれば――充分だろう。
 そうと決まれば行動あるのみだ。タルタリヤも残っていた茶を呷り、椅子から立ち上がった。
「教えてくれてありがとう。楽しませてもら――」
「行くのならついて行っても構わないか」
「え」
 問いかけと言うより独り言のようだった。しかし反応を返してしまったからには、聞かなかった振りは出来なかった。温かみのある橙色を抱いた金色の瞳を細め、男は言う。
「あれ以降、会うのはいつでも他人の目や耳がある場所ばかりになってしまったからな。かといって、そうでないところに移動しようとすれば解散になる」
 その通り過ぎて返す言葉が見つからない。必ず二人きりにならないように気を付けていたし、仕事の話もタルタリヤが直接赴くのではなく、部下に手紙を託す形になっている。それはどうしても、この男の領域に踏み込みたくなかったからだ。
 無言を貫くタルタリヤを眺める男は更に続けた。
「俺としてはそうした体裁は気にならないが――むしろそれはそれで利点もあることだし、全く構わないんだが」
「――っそ、れは」
 タルタリヤの動揺に目を細め、唇で弧を描いた男の狙いは、考えるまでもなく一つだ。
 王手がすぐそこまで迫っている。分かっているのに、タルタリヤはそれを止める術が何一つ思い浮かばなかった。あるとすればここから逃走することだが、すぐさま璃月から出るくらいの規模でないとこの男の手から逃れられない気がした。
 スネージナヤ行きの船はつい昨日出たばかりだし、他国行きの船には手続きが必要だ。それに女皇の命令がある以上、国を移動するほどのわがままを押し通すのは問題になってしまう。
 必死に思考するタルタリヤを嘲笑うかのように、形の良い唇が開かれた。
「港から出れば、水を差されることもなくゆっくり話すことが出来る」
 黄金色の瞳には、あの日見たそれと同じ熱が籠っている。
「そうなれば、返事を聞かせてもらえるだろう?」
 魔神のくせに、タルタリヤが他国の民だということを分かっているくせに、氷神の駒だということを知っているくせに、男が愛した国を沈めようとしたことさえ理解しているくせして、愛なんてものをタルタリヤに抱いてしまった男の告白は、脳裏にこびりついて離れない。
 それはあの日から、ずっとタルタリヤの頭から離れない言葉だ。
 だから――この男から、この男が見守る地から、少しでも離れて、一人で釣りをしながら、馬鹿になってしまった頭を冷まそうとして。
「……その顔を他に見せてほしくないが、公子殿」
 身体の内側が沸騰しているようだ。椅子から立ち上がった男に腕を掴まれる。ぐい、と引き上げる力は強く、転げるようにタルタリヤも立ち上がった。周りの目がこちらを向いている。それらからタルタリヤを隠すように、鍾離は歩き出した。
「講談を聞き終わった段階でモラを支払っておいて正解だったな」
「っちょ、っと、鍾離先生、」
 ずんずんと進んでいく男の歩幅はタルタリヤなら確かに問題なく追いつけるものだが、今のままではどうにも足が縺れそうだ。せめて腕を掴むのをやめてほしい。
 必死に呼んだ名前に、鍾離は振り返った。熱を孕んだ瞳でタルタリヤを一瞥して。
「釣竿なら良いものがある。ああ、餌の調合の仕方も教えよう」
 誰もついてきていいなんて言ってないんだよ、と吠えたところでどうにもならず、そのまま鍾離の部屋に連れ込まれることになったのだった。
 ――釣りで瞑想する目的が「鍾離からの告白を忘れる」から「鍾離から施されたあれこれから身体を冷ますため」に変わったのは、タルタリヤだけの秘密だ。

 


2022.6.26