タルタリヤが仰向けのまま鯨を抱いて寝台に転がっている。
鯨と言っても海を泳ぐ鯨そのものではなく、かといってそれを模したぬいぐるみとも違う。薄青く透き通るそれは水元素の塊だった。透けているため乱れた寝衣から覗く肌が見える。
水元素を操っている以上、鍾離が寝台から抜け出した隙に目を覚ましたのだろう。瞼自体は下ろされているし、鍾離が戻ってきたことにも気付いているが、優先度は鍾離よりも眠気なのか、はたまた抱いている鯨なのか。
何故水元素の鯨を抱いているのか。さすがにタルタリヤと共寝をするようになって時間が経っているので、問わずとも理由は分かっていた。冬国出身の男は普段こそ素知らぬ顔で過ごしているが、冬国出身らしく弱点があるのだ。
「おはよう。そこまで暑かったか」
「……おはよ。暑くて起きたよ」
「相変わらずだな」
「これからもっと暑くなると思うと、故郷に帰りたくなるね……」
眠気も理由の一つだったのか、片目だけ開けて掠れ声で返してくるタルタリヤはごろりと寝返りを打つ。寝衣も寝台も濡れた様子はなく、器用な男だと感心した。よく見てみれば鯨にはスライムのような弾力もあるようで、触り心地も良さそうだ。
神の目で生み出した水は飲用にすべきではないというのが通説だが、これなら水を持ってくる必要もなかっただろうか。鍾離が水差しと茶碗を乗せた盆をナイトテーブルに置いて寝台の縁に座ると、タルタリヤは鯨に口元を埋めた。
「まだ眠るか?」
「ううん……どうしようね」
「起き上がるのも億劫か」
「単純な気温ならスメールよりマシだし、湿気なら稲妻よりマシなのが救いなくらいだよ」
あちこちへ飛ばされようとも、暑さが苦手なのは育ちの影響が強いからか。以前聞いた話では、普段着ている制服は強度もさることながら通気性も上げている特殊なものらしい。ファデュイの技術力の結晶を文字通り身に纏っているわけだ。
それを本人は簡単に脱ぎ捨て、あまつさえ寝台から放り投げているわけだが。
前髪を払ってやれば、タルタリヤは心地よさそうに目を細めた。
最近、夏に近づくにつれ気温が上がっている。共寝をすればこうなることは想像に容易かったはずだが、それをせずに隣で眠ってくれたのだ。結果として少し離れた間に別のものを抱き締められていることには若干不満だが、この若い男には甘やかされている気分になる。
「汗を流す準備なら出来ているぞ」
「……うん、まだいいかな」
ぎゅう、と鯨を抱き締める腕に力が込められたのが分かった。思わず眉間に皺が寄った途端、くすくすとタルタリヤが笑う。
「ただの俺の水元素だよ」
「……眠る時、俺をそこまで抱き締めないだろう」
「あっは、ふふふふっ」
笑いながらまた仰向けになったタルタリヤは、寝台の縁に座ったままの鍾離を手招いた。目的は読めないものの、鍾離も寝台に横になる。
水元素の塊である鯨は鍾離が迂闊に触れると結晶反応を起こしてしまうから、それを抱くタルタリヤにも触れないように少し距離を開けておくと、またころりと寝返りを打ってこちらを向いたタルタリヤは不思議そうな顔で鍾離を見た。
「どうしたんだ、いつも当然のように抱き寄せるのに」
「鯨の体積が減るのは嫌だろう」
せっかく涼んでいるだから、さすがに取り上げようと思うほど鍾離は意地悪ではないのだ。鍾離の言葉でそこに思い至ったタルタリヤは小さく笑う。
「ありがとう。でも拗ねさせちゃったかな」
「そちらの方が涼めるのは間違いないようだからな」
「そうだね、先生の肌は陶器みたいだし」
「陶器か」
「最初は良いけど段々温くなる。普段はそれが楽しいけど、涼しさ目的だとマイナスだ」
触れ始めは冷たさに身をよじってころころと笑っているが、そのうちタルタリヤの体温に馴染んでいくためか気持ち良さに没頭していく姿を見るのは鍾離としても満足感が高いから、手袋なしでは迂闊に他人に触れられない以外は鍾離もマイナスに捉えたことがない。
そうして他者に左右される温度を陶器のようだと表現できるのは、タルタリヤが独自の体温を持つものだからだ。鍾離自身は自らの体温というものが分からないが、湯気を上らせる茶によって温められる茶碗を思うと、確かに近いものがあるなと納得した。
つまりタルタリヤは、ずっと冷たいままのものが望ましいと。白磁のような頬を片手の掌で包んでやれば、暑さに弱い男は鍾離の手を包むように自分の手を重ねた。
「凡人なんだろ、こんなくだらない理由で死体みたいな体温に固定しないでくれ」
同じ人間の肌同士でも温かいものに触れていたら同じ温度に寄っていくのは変わらないのだから、とタルタリヤは言う。死体みたいな体温、という表現に眉根を寄せたのが分かったらしい、鍾離の掌に擦り寄ったタルタリヤは「だってそうだろ」と笑った。
「ただでさえ陶器みたいだし、いっそ変温動物の方に近いんだから、努力するならもっと人間に近づける方向にしなよ。人間って恒温動物なんだよ?」
抱いていた鯨の向きを変えたかと思えば、タルタリヤはそのまま鯨を鍾離の唇に押し付けた。先ほど、ちょうどタルタリヤの口が触れていた辺りだ。思わず目を丸めると、タルタリヤが鯨を二人の間に挟んだまま鍾離の背に腕を回す。
見慣れた制服も、仮面も、ピアスすらつけず、昨夜の痕跡を色濃く残したままの若い男は、しかし可愛らしい鯨を間に挟みながら、悪戯っぽく微笑んだ。
「結晶反応、起こらなかったね」
「そう、だな」
「このまま二度寝しよう、先生」
囁き声は誘惑するような甘さを含んでいる。提案されているのは二度寝という、色気も何も感じられないことではあるのだけれど。
若いせいで舐められることも珍しくないから、だらけた姿なんて部下には晒せないよ、と暑さを物ともしていないような素振りだった彼に問うた時に言われたことを、鍾離はしっかりと覚えていた。ああ、この男はそういう責任ある立場であり、相応の矜持がある生き物なのだ。
甘えられているのかもしれない、と思う。年の離れた弟妹や、共通の友人たるあの金髪の子どもたちを甘やかすような振る舞いを見る機会が多く、鍾離に対してもまた凡人らしさに欠ける部分を「仕方ないな」と言いながら付き合ってくれる姿が多かったが。
「公子殿は」
「……うん?」
「そういうものが、酷く似合うな」
「ええ、何の話……」
つまるところ、あの公子が眠気に意識を取られていて、こんな生返事をしてくる姿を、大多数は知らないわけだ。おそらく、あの金髪の子どもたちでさえ。
ふ、と鍾離は小さく笑って、タルタリヤを抱き寄せた。むにりと潰れる鯨は確かに寝衣越しでも冷たく、心地よさを感じる。
「ん……?」
「どうかしたか」
「いや……先生、いつもよりちょっと温かい?」
背に触れるタルタリヤの手が、確かめるように上下していた。眠気でぼんやりとしてきている瞳が見上げてくる。胸の方は鯨のおかげで冷たいのだが、背は違っていたらしい。
どうしてだろうと自分でも少し考え、鍾離はタルタリヤの額に口付けを落とした。
「気温に引っ張られているのかもしれないな。……ほら、二度寝するんだろう?」
「……先生のそういう発言、レアだなぁ」
「言い出したのはお前だ」
そうだねえ、と間延びした声が応える。しばらくすると、抱き寄せた腕の中の呼吸はすうすうと安らかな寝息に変わっていった。
それと同時に、間に挟まっていた鯨は空気に溶けていく。仄かに霧のような涼しさを振りまいて消えたぶんの隙間を埋めるように身体を寄せ、鍾離もまた意識を眠りに溶かした。
2022.6.27
