02
ラグス戦争で死んだと思われていたはずの人間が教会にいきなり戻るわけにもいかない。十年で次代のセブンゴースト四名が教会に辿り着き、そのうえ司教になっていたのだ。入れ替わりこそ激しかったが、あの頃のことを知っている者はもちろんいる。
あの戦争の折、教皇によって反逆者であるという誤解を持たれたクロイツは、素直にバルスブルグ大教会に戻ろうとは思えなかった。
フェア=クロイツという司教の名誉回復自体は、真実を知った司教三人によって行われている。もちろん破門も取り消しだ。ジオ大司教のお墨付きだから、戻ろうと思えば戻れる状況にあった。
しかし、ラグス戦争の折に行方知れずで、ゴーストたちの間でも「行方が掴めなかった」という認識をされていたらしいクロイツがいきなり教会に戻って、今まで一体何をしていたのかと聞かれたら困ることになる。なにしろクロイツはアヤナミに吸収されて以降、外見が全く変わっていなかったのだから。
そのためアヤナミから解放されて数年経った現在は、まだ幼いテイトとその母ミレイアの面倒を見る形で共に暮らしている。契魂としての力を失い、ラグス王国も亡き今、クロイツはただのクロイツでしかない。
三人と、テイトが生まれ変わる前に紡いだ縁によって繋がりを持った数人の友人たちとの生活は、それでも穏やかで楽しいものだった。
ただ――クロイツ自身がきちんと会ったことは二度しかない、一人の男の不在を除いて。
「ラブラドールさんからいただいたものですが」
「お気持ちだけで結構ですよ」
今日訪ねてきたのはカストルとラブラドールの二人だった。ラブラドールの方はテイトとミレイアを連れて散歩に行っているため、今ここにいるのはカストルとクロイツのみである。
カストルの前にことりと置いた紅茶は、ラブラドールがブレンドしたという茶葉を使ったものだ。王城暮らしをしていた頃とは比べ物にならないほどに質素な生活をしているが、こうして訪ねてきてくれる若い友人たちから送られてきたもののおかげで不自由はしていない。
「前もって連絡させていただきましたが……」
「テイトの記憶に関すること、でしたね」
確認のために聞いたクロイツに、カストルは首肯した。
右手に憑依させた彼とともに扉をくぐった少年は、呪いの切符を全て集め、無事にゼーレの地に辿り着いて新たな命として生まれ直した。いつか誰かが言ったように、元の世界に還してくれとでも言ったのだろう。まっさらな赤子として、もう一度この世界に戻ってきたのだ。
そんな特殊な事情を持つ彼は、大天使ミカエルの瞳が認める主でもある。普通生まれ変われば前世の記憶などないはずだが、テイトは特殊に特殊を重ねたような経緯の末の現在だ。
今でこそ幼い子どもとして無邪気に過ごしているものの、今後成長していくにつれて変化が起こってもおかしくない状況だった。
「私の予想に過ぎませんが、あの子はかつての記憶を取り戻すはずです。彼が天界の長に願った内容は分かりません。しかし、私たちとの約束があったとはいえ、またミレイア様を母として生まれ直したのだから、そこには意味があるに違いない。ならば、きっとあの頃の記憶を取り戻す必要があるはず」
「……ラグス王国の復興、でしょうか」
「ええ、そうなるでしょう」
クロイツだけではなく、兄のクロムにも、母のミレイアにも、城の者たち皆に愛されていた子どもの姿は、今でも鮮明に思い出すことが出来る。きゃらきゃらと明るく笑う彼に、一体どれだけの者が癒され、その笑顔を守ろうと思ったことだろう。
テイトは――ティアシェは、国の宝だったのだ。
あの戦争で王も血族も臣下も民も失い、国そのものも亡くなった。
けれど彼が、愛すべき母国の復興を願ったというのならば。
遠い昔に一度死した身なれど、その願いの後押しをしてやりたいと願うことくらいは、どうか許してほしいと思う。
「いつ頃思い出すかは分かりませんが、扉をくぐった頃の年齢になればいくらかは思い出しているかと」
「となると、あと十年ほどといったところですか」
難しい顔をして紅茶を口に運んだカストルに、彼の言いたいこともなんとなく分かるクロイツは苦笑した。テイトの以前の人生は、生まれ直してからの短い時間にたった十年を足すくらいで満ちてしまう程度に、人間としては短いものだったのだ。
たったの十年。そう思えてしまうのは、その十年間を唯一無二の弟の中から見ていたからか。いいや、そうでなくとも短いだろう。
目の前にいるカストルも、テイトとミレイアと共に散歩をしているラブラドールも、今日は居ないがまだ司教として働いているランセも、テイトの旅路を最期まで共にした彼も。
テイトの一度目の人生を閉じた頃と同じくらいの年齢で死に、ゴーストとなった。今の顔見知りはよく考えてみたら皆短命なのかもしれない。思えば消魂や醒魂も、彼らがそうなった頃と同じくらいの年齢でゴーストになっていたのだ。
皆、波乱万丈の人生を送っていた。
だからこそ、今の平穏を愛おしいと思える。守りたい、尊いものだと思うことができる。
「その頃には、彼は姿を見せてくれるでしょうか」
思わずこぼれた言葉に、琥珀色の水面を見つめていたカストルがクロイツを見た。驚きに見開かれていた目は、ゆうるりと細められて笑みを作る。
「彼は結構、強情なところがありますから」
「ええ……きっと、これと決めたことはなかなか譲らない性格だったのでしょう。たった二度とはいえ、なんとなくは分かりますよ」
「二度?」
ラグス戦争の際にアヤナミに吸収されたクロイツが、彼について知っていることは少ない。それどころか、直接会ったのは覚えている限りでは二度だけだ。アヤナミから解放されてテイトと再会した時が、二度目。あの時は他のゴーストたちもいたから知っているだろう。
一度目は、もうあれを知っているのはクロイツしかいないはずだ。
クロイツだけはラグス戦争後に教会に集った四人のゴーストとは世代がずれているから。
クロイツの代の者たちは、もういないから。
「ええ。テイトと彼が扉をくぐる直前に会った以前に、私は彼が斬魂となった瞬間をこの目で見ていたんです。彼は私たちの目の前で斬魂となった」
「……それは、初耳です。私もラブラドールもランセも自分の死因を覚えているのに、彼は、フラウだけは自分の死因も、鎌を宿したことも、自分が斬魂になった経緯もろくに覚えていないと言っていましたから」
「覚えていなくとも無理はありませんよ」
この話しぶりから察するに、彼はきっと何も分からないまま教会に辿り着いたのだろう。自分がどうして鎌を宿したのかも、斬魂になったのかも、いつ死んだのかも、教えてくれる人なんていなかったのだろうから。
クロイツとて全てを知っているわけではない。けれど、分かることは多少ある。推測の域を出ないが、カストルよりかは正解に近い予想に辿り着けるはずだ。
「彼はおそらく先代の斬魂――ギドという男の船に乗っていた、空賊の一人だったのでしょう。そのような話は聞きました?」
「ああ、空賊だったということも、都市伝説になっていたイージスに乗っていたことも聞いたことがあります。……それに、まだ教会に来て日が浅い頃、夜に魘されていることがありましたから。その時にギドという名前は聞いた覚えがありますし、フラウはよく言っていましたよ。オレの神はもう死んだのだと。だから司教なのに、神なんて信じていないと」
表情こそ苦笑のそれだったが、カストルの瞳には過去を懐かしむ色と、どこか悲しげな色が混ざり合っていた。
オレの神。夢見る少年の神は、先代のあの男だったのだろうとクロイツは思う。
なにしろあの男は本当に凄かった。カリスマを持つあの男に憧れた少年は、その憧れに神という名をつけたのだろう。
そして、そうであったがゆえに、鎌の器として見出されてしまった。
「あの日イージスは帝国軍によって墜とされました。それに乗っていたギドも、死んでいたのでしょう。ここは推測ですが、彼はギドの死に絶望し、それを消魂にフェアローレンの鎌の依り代として利用されてしまった。
鎌に取り憑かれた彼は、鎌に導かれるがままにテイトの元へ辿り着きました。それが、私が彼と初めて出会った時のことです」
「……ま、ってください、鎌の欲望は酷いものだとフラウは言っていた。輝かしい魂を見るたびに右腕が疼いてどうしようもないと。教会に来た頃の彼はそれでもなんとか鎌を御し切れていた。幼い頃は時々暴走しかけては昼夜問わず闇徒を狩りに教会を抜けて出していましたが、精神的には安定に向かっていた時でもそうだったんですよ」
「バランスが崩れ、絶望へと偏っていた彼はほとんど鎌に呑まれていました。それでも、彼の魂は食い尽くされなかった。それまではテイトを狙っていたのに、肉体の主導権を一時的に取り戻して、テイトを脅す消魂に斬りかかったほどです。鎌の方が彼を支配下に置ききれていなかった。彼はそれだけ強い意志を持った魂だったんです」
「……」
「とはいえ、そう長くは持ちませんから。彼が本当に鎌に呑みこまれてしまう前に、器を失った先代斬魂が彼を新たな器とし、鎌を斬魂の力で抑えこむことにしたのです」
あの後斬魂が連れて行った少年に対し、クロイツは何もしてやることができなかった。消魂の反逆が発覚した以上、クロイツは何が何でもテイトを守りきらなければならなかったからだ。
彼は当時の記憶が曖昧だったらしいと、カストルは話した。
あの時、どうにか手を差し伸べてやれていたら。
オレの神は死んだのだと語る少年に、その神の想いは寄り添い続けているのだと教えてやることができたのかもしれない。魘される少年を慰めてやれたかもしれない。
それでも、何も分からなくても、彼は立派にその役目を遂げた。そして今では還って行った先代に代わり、完璧な力を持つ死神という役目を受け持っている。ただの人間だった身にそれは酷く重いだろうに、彼は死神になったのだ。
――――さすがは貴方の育てた子だ、ギド。
乾いた喉を紅茶で潤し、必死に頭の中を整理しているらしいカストルに向かって言う。
「あの少年のことを――、ギドは誇りに思っていた。あの時は解放されたばかりで気が回らなかったが、今はただそれを伝えたいと思う。あの子は確かにギドの大切な仲間だったのだと。私の代のセブンゴーストは消魂によって殺されてしまいましたから、あの頃のことを知るのは私しかいないのです。そして私の同僚たちの話をできるのは、もう彼しかいません」
その彼も、本来では生者であるクロイツがそう簡単に関わっていい相手ではなくなっている。そんなことは分かっているが、彼がたびたびテイトやオウカに会いに来ているのは確かなのだ。
ならば――どうか、自分たちにもその姿を、少しだけでも見せてはくれないかと。そうして、もう話せる相手のいない昔話に、少しだけでも付き合ってくれたらと、そう思う。
正面に座るカストルの表情は、くしゃりとした出来損ないのような笑顔だった。
「もしフラウが私たちの前に、クロイツ司教の前に姿を見せるようになって、言葉を交すことができたら――――たくさん、ギドさんの話をしてやってください」
紅茶のような琥珀色が濡れているのを見て、クロイツも表情を引き締めて、そうして笑顔を作った。そうしなければ、思わず釣られて視界が歪んでしまいそうだったから。
