a year later
果てのない蒼穹に沈んでいくような心地を覚えたのは、一体いつの頃からだったろうか。
空は見上げ、飛ぶものだったはずなのに。
気付いた時には、近づく地面ではなく遠のく蒼を見ていた。
身を投げ出す浮遊感と、うるさいくらいに抜けていく風の音と、小さくなっていく太陽と、なにも変わらない、蒼。
その景色に、満足感を覚えていた。
ピー……と響き渡る口笛に、ホークザイルが空へと飛び出していく。口笛の主が慣れた様子でホークザイルに跨がったことを確認して、男は小さく息を吐いた。
修行だ、と子どもを空に蹴り出した回数は覚えていないが、今となっては慌ただしく叫んでいたのが遠い過去のような落ち着きぶりを見せている。
あれは空に恋い焦がれていた子どもだ。空を飛ぶ喜びに目を輝かせる、空賊として申し分ない感性を持っている。その感性は今もまったく変わっていないはずだが、成長というものは恐ろしいものだ。
ぐるりと輪を描いて戻ってきた子どもは、ホークザイルに跨がったまま空を見上げていた。仲間たちもなかなか見ることのできない柔らかい笑みを浮かべたまま、満足したらしい子どもは地面に降り立つ。
「……どうかしたのか?」
「相変わらず、こっちがあてられそうなくらいの顔で空を見上げてるなと思ってな」
どこまでも広がる空を、空を駆ける自由に恋し、ただただ愛し続ける気持ちは理解できた。それは男も同じだ。仲間たちとて言うまでもない。
だがここまで熱烈な、いっそ焦げそうなほどの視線を遣るものはなかなかいないだろう。
「あてられる、って、そんなにか?」
「おう。見る側にならなきゃ分からないだろうがな」
子どもに近づいて、伸ばした手で頬に触れる。まだ幼さを感じさせる丸みのある輪郭も、柔らかな肉も、子どもがまだ発展途上である証明だ。目付きの悪さを本人も気にしている目だけは、年齢よりも幾分か上に見えるが。
出会った頃よりも成長したとはいえ、男にとってはまだ子どもだ。
「後で写真でも撮ってやろうか」
「いらねえよ。大体自分の顔なんて見たところでしょうがないだろ」
「そうか? 見てみたら驚くと思うぞ」
「空を見てる時の自分の表情がどんなものかなんて分かってる。ただ、あてられるって感覚がわかんねえだけだ」
ふい、と男の手から逃れた子どもは、男が触れていた頬に自分の手をあてながら視線を逸らした。その頬にうっすらと朱色が滲んでいるのはおそらく見間違いではないだろう。
陽の光をはじいて煌めく金髪に、蒼穹を切り取った瞳。
美しいそれらを独占しているのは、誰のものにもならない空だけだ。この子どもの中の順位で、それに敵うものなど何一つありはしない。
高すぎるハードルだが、だとしても、唯一無二の空以外にならいくらでも勝機はあった。
「フラウ」
逸らされていた視線が戻る。その空を捕まえた瞳に映り込んでいるのは男だけだった。まるで空を侵しているような心地を覚え、くつりと笑みをこぼす。
男の行動に首を傾げた子どもの顎をすくって、反射的に閉じられた瞼へと唇を落とした。離れた瞬間に見開かれた瞳はまだあどけなくて、みるみるうちに染まっていく頬に、このくらいなら許されるか、と判断する。
「――な、なに、」
「分かんなかったならもう一回やるか?」
「――!!」
言葉を失った子どもは無言のまま、はくはくと口を開閉させた。陽の光が似合う子どもの肌は焼けることを知らない白さのため、色の変化がよくわかる。可哀想なくらいに真っ赤になった頬を撫でた。ぴくん、と子どもの身体が跳ねる。
同時に、伏し目がちになったその表情に、どことなく危険な香りを感じた。ゆるやかなカーブを描く睫毛も、うっすらと開かれたままの唇も、赤く染まった頬も。
まだ幼いのだと理解していてなお、それは男の理性に爪を立てる。
――美味そうだ、などと。
その欲求が『何』を指しているのかが分からなくなって、男は思わず息を呑んだ。この年にしてこれだけの表情を作り、雰囲気を醸し出してみせる子どもにも、常に飢えている己が魂の業の深さにも。
純粋にその人格が好ましいものだったからこそだが、その魂の輝きに惹かれたこともまた――事実だったから。
「……ちゃんと、わかってる」
動揺する男の内心など知らぬ子どもは、追い討ちをかけるように小さく呟いた。手袋越しに感じ取ることはできなかったが、吐き出された息が熱っぽいことなんて見れば分かってしまう。
華やかで露出度の高い踊り子たちのいた酒場で働いていたことだってあるし、空賊としてこの空挺に乗ってから一年が経った。仲間でも金や酒や女が嫌いな者などそうそういないし、立ち寄る街にある酒場はどこも顔馴染みがいるほどに顔の広い男だから、当然そういった方向の知識をこの子どもが持っていてもおかしくない。むしろそうであることの方が自然だ。
頭では理解しているが、腹の底でとぐろを巻く欲望を御しきれる自信ががらがらと崩壊していく。不意に喉の渇きを覚えた。上目遣いで見てくる子どもに対して、無理やり笑みを作る。
「本当にか?」
煽れば、眉尻を吊り上げた子どもはそこでようやく男の傍から逃げ出した。バカギド、変態、エロ親父、と罵倒の言葉を吐き出しながらホークザイルに跨ると、ひゅんと風を切って空へと飛んでいく。
小さくなっていく背中を見送って、そうして男はずるずるとしゃがみこんだ。
頭を抱え、深々と息を吐き出す。
「…………まずい」
これは由々しき事態だ。稚児趣味はない、と言っていたのが一年前。幼いゆえか、まだまだ伸びしろのあるらしい子どもは一年前よりも確かに大人になっているが、男の守備範囲には届いていない状態だった。確かにそのはずだ。
そうだったはずなのだが、先ほどの一件で自信がなくなってきた。
「……」
バカ、変態、エロ親父。子どもが言い捨てていった言葉を反芻する。いやはや、本当に冗談ではなくその通りになりかけているのだ、反論はできそうになかった。
更にそちらの方向の欲求だけではなく、男の魂特有の本能的なところまであの子どもを欲しがったのだ。本当に笑い事では済まされない。むしろ逃げてくれて助かった、と思いながら立ち上がった男は、子どもの消えていった方角に視線を遣った。
これだけの危機感と罪悪感を覚えておきながら、あの熱っぽい子どもの表情を忘れたくないと考えてしまうのだから、まったく救いようの無い話だ。
「……せめて、あと二年くらいは我慢だな……」
部下に聞かれたら皆揃って顔を青くするであろうことを呟き、男は子どもの魂を欲しがる本能を腹の底で押し殺した。
◆
昔は港に出入りする空賊たちの船を眺め、それ以上に空を見上げていたものだが、フラウが見上げるのは決して青空ばかりではなかった。
どんよりと曇った灰色の空も、ざあざあと雨粒を降らせる空も、真白な雪を降らせる雨雲に似た空も、ごろごろと雷鳴を響かせ稲光を迸らせる空も。
瞬く星たちが賑わう夜空も。
季節や時間、天候によって様々に表情を変える空が好きだ。
一番長く眺め、愛し、飛びたいと願ったのは蒼穹だが、どうしようもなく抱えた感情の処理に困った時に見上げた空は、いつだって夜空だったように思う。
自分が母親を知らないこと、父親も空賊であったために、世間一般でいう家族というものがよくわからないことを、気にしたことがないといえば嘘になる。他の、普通の子どもたちのように思い悩むことくらい人並みにあった。
どうしたって地面から逃れられない悲しみと恋しさに耐え切れず、ベッドに横たわったまま窓の外の空を眺めていた時間は、一体どれだけの長さだったか分からないほどだ。だからフラウはどんな表情の空だって好ましいと思う。
ただ――最近は、夜空を見上げると、思い出してしまうものがあるのだが。
夜空の明るさは月の満ち欠けに左右される。見上げる場所の近辺に光がなければないぶん星は輝いて見えるし、月のない日の満天の星空の格別さは言うまでもないだろう。
とある街にて、酒を飲みながら歌って騒ぐ船員たちの中からひっそりと抜け出したフラウは、誰も来ないであろう屋根の上で夜空を見上げていた。
月は欠けて、新月に近づいている。それでも眠ることを知らない街の光の影響で小さな星は見えないが、天候の良さもあって、星たちは今日も変わらず煌めいていた。
ロマンチストではないから良い言葉は浮かばないが、そこらの詩人であれば、これを夜空の宝石箱とでも形容したかもしれない。強さの違う遠くの光を宝石と形容するほど、フラウは現実を知らないわけではなかったが。
あれらは遠い場所から放たれた光が、今ようやくここに到達しただけのもの。だから星は本来輝いていないし、瞬くこともしない。もしかすれば、存在しているように見えるそれらは、遠い昔になくなってしまっている可能性もある。
けれどそこまで現実的に見てしまうとあまりにも夢がないから、フラウは夜空を眺めることをやめなかった。仮初めであろうが、この場所において、確かに彼らは光として存在している。ここにいる限り、それだけは本当のことだから。
「……」
屋根に寝転がったフラウは目を閉じた。少しして瞼を押し上げれば、やはり空も星もそこにある。遠く、いつまでも届かないけれど、そこに存在している。
あの男――ギドも、最初はそんな存在だった。
船に乗せてもらえたのはアクシデントがきっかけだったが、そのおかげで憧れに近づけたのだ。空を飛ぶ資格を得たのだ。空を選んだ代わりに大切な故郷と、世話になった人々と離れ離れになったが、フラウはあの時の選択を後悔していない。
近付けないと思った男に近付いて、目をかけてもらえていることも分かっていて、けれど――現時点ではそれだけで、まだまだフラウはギドの傍に立つことができない。
子どもだということもそうだし、彼の腹心たちに比べれば、フラウはどんな分野においてもひよっこだ。語学は一人で勉強を始めたが、彼からの信頼を得るには足りない。
空に連れ出してくれたあの男に、恩を返したい。
「……ばっかみてえ」
昼間の一件が脳裏をよぎり、くしゃりと髪を掻き乱した。
確かに目をかけられいる自覚はある。だがそれは彼がフラウを空に連れ出したからで、拾ったから育てているだけだろう。親代わりがマグダレンからギドになったというだけの話だ。
だからあれだって、からかいの一つであり、あまり他所でその顔を見せるなと言いたかっただけだろう。
空を見る表情について指摘されたことなんて今までなかったからギドの言葉は理解できなかったが、本当にそのような表情をしていたとするなら、他人の前では控えた方が良いはずだ。
空賊たちは陽気な者たちが多いが、同時に自分の欲望には正直なのだ。この船に乗ってから酔っ払いに頻繁に絡まれるようになったフラウには、純粋な力では敵わないからこそ、ある程度の危機感が備わっていた。
まさか浮島で磨いた盗みと逃走の技術がこんなところで活きるとは思わなかったが、この一年をとりあえず平和に切り抜けられたのだから、技術は身に付けておいて損がない。
だから何が言いたいのかといえば――
「どうせ、オレは子どもだからなぁ」
あの男の纏う色をした空を見上げて、子どもは冷たい唇の落とされた瞼に触れる。ここに、あの男の唇が触れたのだ。思い出すだけで頬に熱が集まった。
他の酔ったクルーたちに絡まれるのとは訳が違う、あの男からもたらされたもの。
それがフラウにどれだけの影響を及ぼすのか、あの男は知らないに違いない。でなければ戯れに、瞼とはいえキスを落とすわけないだろう。
頬ならばまだ、親愛のそれと思い込むこともできたのに。嬉しくて恥ずかしいと思った自分自身を誤魔化すこととてできたはずなのに。
からかうにしたって性質が悪い。
「……バカギド」
自分を宥めるように、吐き散らした罵倒をもう一度呟く。
なにもフラウが恋い焦がれているのは空だけではないと、あの男は気付いていないのが一番どうしようもなくて、男に似た夜空を見上げながら、今日も浅ましい己が欲を意識の底に眠らせた。
2017.11.8