恋い孕む蒼

three years later

 自らも盗みの技術を会得していたためか、少年は道行く人々の中で起こったそれにすぐに気付いた。
 小さな悲鳴。ぶつかる音に乱れた足音。続いた短い謝罪、そして再開する規則的な足音。
 ――荷物の中から標的を掠め取る、手。
 どん、とすれ違いざまに前を歩く女とぶつかった男は、そうして何もなかったようにさっさと歩いて少年に近づいてくる。ぶつかられた女の方は気付いた様子がなかった。
 下手だな、というのが最初の感想だ。
 手口も、技術も、少年からは丸見えの歪んだ口元も。
 この男女と少年以外にも人通りのある、太陽が燦々と輝く時間帯である。広場に繋がる道での大胆な犯行だから、少年が男をここで糾弾すればあっという間に男は形勢不利、獲物を手放して逃走する他なくなるだろう。
 だが、それでは持ち逃げされてしまった場合が面倒だ。少年がホラ吹きだと周囲から冷笑される可能性だってある。
 ならば、残された確実で、効果的で、少年に可能な選択肢はこれしかない。
 目には目を、歯には歯を。
 男に悟られぬように少し横にずれて位置を調整し、瞬時に練り上げた適切な角度とスピードで少年はその男とぶつかった。もちろん故意にだ。
「っと、悪いな兄さん」
 どん、と受けた衝撃によろめいた足元を踏ん張って耐え、へらりと男に笑いかける。ニヤニヤとした笑みを一気に冷めさせた男は吐き捨てるように言った。
「気ぃ付けろ」
 チッ、と舌打ちを一つして足早に去っていく背中をわざと見送り、さて、と懐に入ったものを指先で弄ぶ。少し遠目から見ても一目瞭然だったことからまだ素人だと見当をつけていたが、まったくその通りだったらしい。
 これは少年の得意分野なのだ。決して大声で言えることではないが。
 ちょろい。上がりそうになる口角を抑え、少年は先を歩く女を追いかけた。
 気付かないまま歩くその肩を軽く叩き、振り向いたところで懐の中のものを取り出す。結構な美人じゃん、と品定めすることも忘れない。
「はい、これ」
「え……私の財布……?」
 少年の差し出したもの――彼女の財布と、少年の顔とを何度も見比べる女に、少年は軽い忠告をした。
「ちゃんと気を付けとけよ、おねーさん」
 今回は少年が見ていて、気付いて、取り返せたから無事だったが、そうでなければ多少なりとも家計が揺るがされたことだろう。財布自体の質もそれなりのもので、さらに使い込まれているのだろう、美しい飴色の革はああいった輩には格好の餌食だ。
 そして極めつけに、おっとりとした雰囲気を纏う優しげな美人。これが物盗りにとって鴨ではないはずがない。少年はむしろ屈強な男どもからの盗みばかりをしていたが、盗みやすさを優先するのであればこういった人間の方が上手く行くのは事実である。
「これ、どうして」
「さっきの男がスッたのをスり返してやったんだよ。そんじゃな」
「あ、ッ待って!」
 彼女の物は返した。これで少年のお節介も終わりだ。
 もう用は済んだとばかりに女を追い越して走り出す少年の背中に、そんな風に声が投げ掛けられた。張り上げられた声に足を止めて振り返れば、女は少年の取り戻した財布を大切そうに握りしめて、こう叫ぶ。
「ありがとう!」
 そんな女に、少年はニッと笑い返した。
 礼を言われるまでもない簡単な仕事だったが、感謝されることはやはり気分が良い。
 今度こそくるりと背を向けて、思わぬハプニングで中断されてしまった目的に戻ろうと、露店の立ち並ぶ広場へ――ではなく、その手前の路地へと足を踏み入れる。この路地にあるのが目的地だったのだ。
 わざわざこの、昼間も昼間である時間帯にやってきたのだから、早めに済ませてしまわなければならないのである。
 ――知られてしまう前に。
 昼間だというのにどこか薄暗い路地に入った直後、その薄い闇の中でもさらに濃い影に溶けるように立っていた男に、不意を突かれた少年は目を丸くした。
「っうわ、あんたなんでそんなトコにいるんだよ」
「いきなり突っ込んで来んな、危ねぇだろクソガキ」
 少年の問いを無視してそう叱責した男は、燻らせている煙草を指で挟んでいる。明らかに通りすがりといった風ではなかった。
 いや、この男ならあるいは、小休憩と称して一人きりになれる場所――つまり人通りの少ない路地で、煙草を吸うくらいするかもしれないが。それにしたってあまりにもタイミングが悪すぎる。
 思わず足を止めた少年の額を小気味良い音を立てて弾いた男は、煙草を一度吸って煙を吐き出し、やはり指で挟んだまま口から離した。話す意思があるという合図だ。
 太陽がまだ高い時間だというのに、薄暗い路地と相まって男の纏う雰囲気はひどく重かった。腹の底がひやりとして、男の発する言葉を予測して、さらにその後に自分が返す言葉を考え始める。
 先回りしておかなければ、簡単に言い負かされてしまうと知っているから。
「んな急いで何か用でもあったのか?」
「別に。さっき表の通りで財布スってた男がいたからスり返してやったんだよ。財布は返してきたけど、バレたら面倒だから走って距離取っておこうと思ってさ」
「さすが盗みの達人だな」
 路地に入ろうとしたのだって、相手に気付かれた場合の逃走の成功率を高めるためだ。だからこの路地に用があったわけではなくて、ただの偶然。
 男は少年を真っ直ぐに見つめている。
「で? ソイツはお前がスったことにすぐに気付かなかったってことは素人だったんだろう。わざわざ走ってまで逃走するのは逆に目立つと思うが」
「どっちにしろ先に距離とって走り出しておけば捕まらないから良いんだよ」
「あのまま広場に向かう人混みの中に紛れておいた方が労力も少ねぇだろ。お前がそんな単純なことに気付かないとは思えねえんだよなあ」
 盗みの達人だもんなあ?
 引き上げられた口角に、脳内でけたたましく警鐘が鳴り響いた。言葉を、返さなければ。いいや、逃げた方が良いのではないか。言葉でも頭脳でも勝てない相手だということはずっと前から知っていることだ。
 しかし、しかし逃げてどうする。戻る場所は同じなのだからそれは問題の先送りに過ぎず、時間を置けば置くだけこの男の機嫌は悪化するに違いない。
 どうすればいい。
「ありがたいことだけど、オレを買い被りすぎかもしれねえぞ。達人っていってもあれから身長も伸びてるし、体重も重くなってるし」
「お前が身軽なのは相変わらすだろうよ」
 少年の身体能力に詳しい男に対して、少年はもう確実に逃げ切れる術は持っていない。手段はすべて把握されてしまっているから、だめだ。同じ技は二度と通じない男には勝てない。
 蛇に睨まれた蛙のように動けないまま、思考回路だけが猛烈に回り続けている。この状況を打開しようと思考を続けている。
 それでも弾き出される答えはすべて『不可能』だ。
 男から逃げることも、口で勝つことも、丸め込むことも、誤魔化すこともできない。
「身軽だとしてもあんな混雑した道じゃ周りの人間が怪我するだろ。ああいう奴は沸点低いし、そのわりにやらかすことがいちいちデカいんだし」
「なら暴れられる前に沈めちまえばいいだろう? お前の腕ならそこらへんのゴロツキに負けるなんてことがあるとは思えねえな」
「……ッ」
 褒められて、評価されていることに喜びはあるが、それはこんな状況で聞きたい言葉ではなかった。言葉を詰まらせてしまったところで、男の手が少年に伸びた。
 咄嗟に逃げようとした身体が震えるが、男はただ、俯いた少年の頭にその手を置いただけだった。
「今夜、オレの部屋に来い」
 囁くように耳元で言った男は、固まった少年の腕を拐うようにして広場へと連れ出した。引き摺られるまま広場に出て人混みの中に放り込まれてしまうと、まだ成長期真っ只中の伸びきっていない身長では少年は埋もれる。
 そんな風に少年をわざわざ人混みに誘導した後に、男はふらりとどこかへ消えた。
 人波に揉まれながらどうにか屋台の端の人の少ないところまで出た少年は、きょろきょろと周囲を見る。あの男も、他の船員たちも姿が見えない。
 あの路地には近づくなということなのだろう。
 まずいとこを捕まったな、と少年は今夜あの男の部屋で何が起こるのかを考えたくなくて、深く溜め息を吐いた。



 ドアをノックするために深呼吸を三回は要した。声をかけるためにはその後たっぷりと間が空いた気がする。
 からからに乾いた喉で紡いだ声は、ドアの向こうにきちんと届いたかどうか定かではないが、ドアは内側から開かれた。
 中から顔を覗かせた男に、動揺を悟られぬよう意識して少年は口を開く。
「来たけど、何の用だよ」
 船長の部屋を訪ねるというのは、実を言えばかなりハードルが高い。あの空挺に乗るクルーたちは皆揃って頭たる男に惚れ込んでいるのだ。特別目をかけられている自覚のある少年を恨めしげな目で見る者たちもそれなりに多いことだって自覚していた。
「来たか。早く入れ」
「ギド」
「来い、フラウ」
 珍しく呼ばれた名前と向けられた真っ直ぐな視線に、足が竦みそうになるのを誤魔化しながら室内に踏み込む。ばたん、と背後で扉の閉まった音がしたと同時に、微かに抱いていた逃走への希望が見事に潰えた気がした。
 今日の――昼間の、ことだ。
 どのようにしてギドがフラウを追及するかどうかはわからないが、最終的にフラウが言い負けることは確実だろう。この大人に勝てる道筋など一筋として存在していないのだ。
 だが、それでも、最初から諦めて、全てを素直に詳らかにされるのは性に合わない。
 仕事用のデスクに軽く腰掛けたギドの正面に立って、フラウは自分よりも高い位置にあるギドの目を見る。視線が絡んだ。
「で、なに?」
「今日の昼のことだが」
 直球で来たか、と心構えをしたと同時に、それは一瞬で突き崩される。
「スリをやらかした阿呆からスり返して、元の持ち主に返したのはよくやった」
「……お、おう」
「なんだよ、拍子抜けですって顔だな」
「いや、そんなのオレにとっては朝飯前なことなのに、いちいち褒めんのかと思っただけ」
 なにしろフラウの盗みの技術は何度かギドを出し抜いた功績もあるほどのものだ。まあさすがに最近は手の内が全て見透かされているため、成功率が著しく低下しているのだが。
 それでも、初見の人間に対してなら失敗などそうそうしない。それが素人であればなおのことだ。
 ギドは真面目な顔を一転させ、にやりと笑った。底意地の悪さを感じさせるそれに、フラウの背中に冷や汗が伝う。
「それは方法こそ邪道だが、一応褒められることだからな」
「蛇の道は蛇って言うだろ」
「その通りだな」
 とはいえ、褒められるのはそこまで。
 煙草の煙を吐き出すのに似た動きでふっと息を吐いて、ギドは言った。
「あの路地の、西から数えて四つ目の扉」
 ああ、やはり。フラウはギドがあの場所にいた意味を理解する。それはどこか諦めに似た納得だった。すとんと落ちて、それがぴたりとはまる形。収まるところに収まったという整然としたもの。
 この男が知らないわけがなく、むしろこの男こそが、その扉の向こうにいる存在のクライアントに相応しい。わかっていて、それでもフラウはそれに頼りたいと、少しだけ思ってしまったのだ。
 意識して顔の筋肉と身体の内部に力を入れ、ただの悪餓鬼を装って、天邪鬼は首を傾げた。
「なんだそれ。呪文か何かか?」
 フラウが、その扉の奥にある存在を知っていると、気付かせてはいけない。
 この男のトラップにかかるわけには、いかない。
 知らん振りをして、フラウは腰に手を当てて右足に重心を傾ける。軸足は右だ。逃げられるとは到底思えないが、念には念を入れておいた方がいい。
 年齢のわりによく回る頭はギドとの会話に思考を割きながら、失敗した場合の逃走方法を吟味し、選択肢を絞ってしまわないように万全の態勢を維持しようとする。
 しらばっくれたフラウに、ギドは片眉を上げた。
「盗み聞きもお手の物なお前なら知ってるかと思ったが、あてが外れたか」
「人のこと絶妙に貶しながら訳わかんねぇ話するなよ」
「そこに、わりと信憑性の高い噂を売る『情報屋』がいる、って話があってな。今日はその件について実際に確認しに行ったわけなんだが」
「そんなの、あんたが自分で行く必要あるのか? いるとも限らないなら他の奴に行かせた方が」
 信憑性の高い噂。いいや、それ以上のものを売るのだと、誰かが言っているのを聞いたのだ。素顔を明かさず、声からも性別を判断できないと評されるその人物こそ、フラウの今日の探し人だった。
 くう、と男の口角がさらに上がっていることに気付き、緊張で冷たくなっていく指先を自覚しながら、フラウは思わず言葉を止める。
 何かまずいことを言っただろうか。不安と疑問に脳内を書き換えられていく中、どうにか絞り出した「どうしたんだよ」という声は掠れていた。
 デスクから離れ、こつこつといっそわざとらしさを感じさせるほどに足音を立て、男は少年との距離を詰め始める。後ずさりたくなる衝動を必死に抑え込んだ。後ろめたいことは、ない。ないから、するべきではない。
 断罪を待つ囚人のような心持ちだった、数秒にも満たない時間。
 フラウの前に立ったギドは、するりと黒い手袋を纏った手でフラウの頬を撫でた。
「顔、ガチガチの真顔じゃ意味ないぜ」
「――ッ!」
 ばっと振り払って一歩後ろに下がれば、大して痛くもなかったであろう振り払われた手をひらひらと振りつつ、ギドは苦笑をこぼす。
 考えを読まれないようにポーカーフェイスをしようと努めていたが、まさかそれが上手くいかず、さらに裏目に出るなど信じられない失態だ。緊張で冷えきった手で撫でられた頬を押さえれば、ひんやりとした手がむしろ心地よく感じられた。
 この男の悪戯に、どうしても羞恥を覚えてしまうことだけは耐えられなかったらしい。先ほどまでの状況では呼吸もしきれていなかったのか、浅い呼吸を繰り返していることに加えて、頬に熱が集まってしまっている。
「そういう顔してる方が『らしい』な」
「ふざけんな、おちょくってんだろ!」
「ガキが無理して抑え込むんじゃねえって話だ馬鹿」
 空けた距離をさらに詰めて、頭に拳骨を一つ。
 痛みに呻き頭を抱えた少年が、再度顔を上げて男を見上げた時には、もうあれだけ警戒した底意地の悪い笑みは消え去っていた。
「あそこには『情報屋』なんかいなかったよ」
「……は?」
「デマだったのかトンズラしたのかは分からねえがな。あの『情報屋』に関する噂は眉唾ものばかりだったし――あんなもん、頼っていいもんじゃねえ」
 小さく零された後半の言葉に、フラウはぴしりと固まる。それはまるで、そんな存在の真偽さえ定かではないものに縋ろうとするのは愚かだと、言われているようだったから。
 そんなフラウに何を思ったのか、ギドは先ほどの拳骨とは打って変わって優しくフラウの頭を撫でた。
「お前の行動を馬鹿にしてるわけじゃねえよ、こっちの話だ。気にするな」
「……訳わかんねえ」
「それでいいんだよ」
 納得が行かない。見上げる視線でそう訴えるが、ギドはそれ以上の説明をしようとしなかった。この男は時折そういうことがあるから、今回の件もそういった話したくない、あるいは話せない部類のことなのかもしれない。
 視線で訴えることをやめて視線を外してからも、穏やかに、繰り返し撫でるその仕草に、遅まきながら羞恥が襲い掛かってくる。ギドの船に乗せて欲しいと頼み込んで早三年。さすがに頭を撫でられて喜ぶような年頃は脱しているというのに、撫でられることを享受してしまっていたなど、恥ずかしいにも程があるだろう。
 だがさすがに振り払うには抵抗があって、結局大人しくそのまま撫でられていることにした。ギドの、あの『情報屋』が存在しなかったという話に、思うところがないわけではなかったこともある。
 本当にそんなものがあるのなら、フラウの知りたかったことも知っているかもしれないと、そんな淡い希望を抱いていたのは事実だ。船員たちにも、ギドにも悟られないように行動したつもりがギドには先回りされていたが、そもそもそんなものは存在しないと来た。決してギドが悪いわけではないが、失望する心は止められない。
 淡い希望を打ち砕かれて、痛む心を慰めるために、その手の優しさはちょうどよかった。ただ、それだけのことだ。振り払わないのは気分が沈んでいるからだ。これが普段のフラウであれば絶対に振り払っていた。自分に言い訳を重ね、深く息を吐き出す。
 無言のままの少年の頭を撫で続ける男の思考は読み取れそうにない。
 いつにない優しさに、言い訳を重ねても居たたまれなさは消しきれず、フラウは蚊の鳴くような声で問いかけた。
「あんた、なんでオレがソイツに頼ろうとした理由、聞こうとしねえの」
 この男は、存在の有無さえ不確かなものに縋ろうとしたフラウを、叱ることさえしようとしない。その理由もそうだ。今後同じような噂を聞いたら、やはりフラウは同じことをしようするだろうことを予測する事は容易いはずなのに。
 怪訝そうな顔をした後、ギドは優しい手つきでするりとフラウの頬に触れた。親指で、散々目付きが悪いと言われるフラウの目尻を軽く擦る。
「理由なんざ聞いたって仕方ねえだろう。こんなものはやったかやらないか、その二択しかねえ。それにオレが理由を聞いて、お前を咎めたとして、お前は今後同じようなことをしないって断言できんのか?」
「……あんたの言う内容によるんじゃねえの」
 実際に自分の心がどのように動くかなど、その時にならなければ分かるはずがない。ギドがどのようにフラウを諌めるかが分かるわけではないのだから当然の話だ。フラウの返答にふ、と息を吐いたギドは、なら、と言葉を紡いだ。
「オレにお前の行動をやめさせる必要はねえだろうな」
「どういうことだ。オレはあんたの空挺のクルーの一人だ。オレが下手を打ってあんたの害になるようなことに繋がるのは避けたいことだろ」
「お前がそこまで頭の回らねえ馬鹿だとは思ってないんでな。それに、ああいう情報屋の類に頼りたいって考えてんのは、オレや空賊たちには関わりのない範囲のことなんだろう?」
「……おう」
「じゃ尚更オレの口出すようなことじゃねえ。今回のは胡散臭すぎたからってのが理由だが、真っ当な相手に頼ろうと思うなら話は別だ。オレが言いたいのは頼る相手、信頼する相手を間違えるなってことだけだからな」
 情報には対価が必要だ。そして情報とは形あるものではないぶん、それだけ不確かで、真偽を見極めることが困難なものである。だからこそ、頼りたいと思うならば確かなものを得られるという功績、信頼を持つものに限れ。ギドはそう言うのだ。
 ――少年はただ、誰も知らない肉親のことを知りたかった。
 たとえそれが名前も、顔も分からない結果に終わっても、ただ彼女が生きているかもしれないというような、そんな曖昧なものでも良かったから。だからあの『情報屋』の噂が気になってしまったのだ。
 決して真実を知りたいわけではない。それが、本当は嘘だって良かったから。
 だがそれでも、少年のそんな想いをこの男が知ったとしても、男は同じことを言うのだろう。
 対価を払う以上、確かなものを掴みとれと。
 ――まやかしの慰めに縋るなと。
「……わかった。今後は気をつける」
 素直に頷いたフラウに、ギドは満足げな笑みを浮かべた。すりすりと頬を撫でられて思わず眉間に皺を寄せるが、ここで振り払ってもまたからかわれるのがオチだろう。恥じらいを覚えつつも俯いてギドから顔を隠すことにする。
 この男からの、こういった接触は年を経るごとに多くなってきていた。
 頭を撫でられることから始まり、頬にキスを落とされ、練習だからといってダンスに誘われ、最近では酒の席で絡み酒され抱き寄せられることもあるし、こうして二人きりの時は明確に距離を詰められていることがよく分かる。
 だから、完全なるギドの領域である部屋に来たくなかったのだが、こればかりは自身の過失によるものだ。仕方ない、と思うのだが、それでもただの船員の一人に過ぎない少年に、こういう接触をするのは如何なものだろう。
 目をかけられていることは分かっている。拾ったのはギドの意思で、その責任を感じているから、周りと比べてまだ幼いから目をかけられているのではないかとも何度も思った。だがどちらにせよ、他の者たちより気にかけられているのは事実だった。
 結論から言えば、フラウは正直なところ、この男に惚れてしまっている。
 頬を撫でていた手が、指が、更にするりと下がって唇に触れた。戯れには少々度の過ぎた行為だ。思わず伏せた顔を上げて、少年は男を見上げる。
「……あんたさ、なんでオレにこういうことするんだ?」
 無言で唇をなぞる親指に、熱の篭った息が漏れそうだった。上から見下ろしてくる夜空よりも暗い黒い瞳が、フラウの一挙手一投足を見逃さぬようにじっと見つめている。見られている。
 そう思うと、ぞわぞわと、身体の奥がざわめく。
 何も言ってくれない狡い大人の思考を読む術を持たないフラウは、奥底の熱を堪えるようにゆっくりと瞬きした。
「オレは、期待していいの?」
 目をかけられている自覚はずっとあった。だが同時にそれとこれとは話が違うことも分かっていた。
 フラウは間違いなく、この男に惚れてしまっている。
 それは他の船員たちと同じように尊敬だったり、畏怖だったりするが、同時に恋さえも孕んでいた。いつからなのかは記憶がなく、気付けば様々な意味で惚れていた。そういう意味では最初からだったのかもしれない。ホークザイルを暴走させた時に助けられて、その背中に父の姿を見た時から。
 もしかすると憧憬を恋だと勘違いしているのかもしれない、という疑問は何度も自分自身にぶつけてきた。だがその度に男から触れられた時の自身の胸の高鳴りや体温の上昇、動揺、その他諸々、自分の無意識の反応を思い返して、これが恋でなければ何なのかという結論に至っている。
 それに加えて、気にかけられている、大切にされているから、それを恋と勘違いしまうほどに、フラウは大人の事情を知らないわけではない。
 愛し合っていても結ばれないことはあるし、愛がなくても結婚はできる。身も蓋もない言い方をしてしまえば、恋愛なんてしなくともセックスはできるのだ。
 知っているから、狡い大人を問い質している。
 だからこれはきっと恋で、だからこそ、これは叶わないのだ。
 年齢差、経験値の差、立場の違いなど、どれだけ自分という子どもとギドという男が釣り合わないかを、本当はよく理解している。
 ――分かっているけれど、オレは遊びなんかじゃ我慢ができないから。
 本気で好きだし、本気になってほしい、なんて思ってしまうから。
 いつか手を引く気でいるのなら、これ以上はしないでほしい。
 守られているだけの立場のくせして、そんな風に身勝手な願いを持ってしまうのだ。
「ガキだから――オレはそういうの、上手く割りきれないんだよ」
 なんとか絞り出した声はみっともなく震えていた。失恋の予感に涙が滲み始めるが、これでは泣き落としているように思われると強く目を瞑る。
 さらに頬に触れていた手を引き剥がして、顔を俯けた。握ったまま惜しくて放せない手は、手袋越しに感じ取れるものなど何もなくて、それが妙に悲しい。
「あんたが良い大人のままでいたいならちゃんと我慢する」
 こんな言葉を言うのだって、本当ならギドの方であるはずなのだ。そうしてすがりつく子どもを諭して、諦めさせてやるのがきっと大人という生き物なはずなのに、どうしてかフラウがこんなことを言ってしまっている。
 傍にいたい、隣に立ちたい、その背中を支えたい――そのために学び、技術を身につけようとしていた。そのための立場を得るために頑張っていた。
 実際にギドにとって重要なポジションに就けた時にようやく、伝える権利を得られると思っていたのだ。
 とはいえ、それでも得られるのはただの「伝える権利」に過ぎず、彼が了承してくれるとは露ほどにも思って居なかったし、結局「心酔している」程度に収めるつもりでいたから、恋の告白なんてする気は更々なかったのだが。
 だというのに、男は気まぐれにフラウにちょっかいを出して、フラウの気持ちを余計に煽るようにしながら、けれど大人と子どものままでいようとする。
「迷惑はかけないから、これ以上期待させないでくれ」
 目をかけられていることも、気まぐれだろうが触れられることも、嬉しい気持ちは確かに同じなのだ。しかし後者には、間違いなく叶うことのない恋心の嘆きが隠されていた。
 中途半端に優しくされる方が苦しい。
 いつか手放すなら、初めから触れないでいてほしい。
 なくしてしまう手の優しさなんて――知りたくない。
「……フラウ」
 自身を呼ぶ声に、おそるおそる目を開けた。
 直後、掴んだままの手とは逆の手がフラウの顎を掬い上げる。予想よりも至近距離にある瞳に息を呑んだ。吸い込まれそうなほどに黒い瞳が、フラウだけを映している。
「こっちだって、出来ることなら今すぐ食い尽くしてぇくらいなんだよ」
「……っ」
 フラウが掴んでいた手が拘束から抜け出し、今度は拘束する側に回った。絡められた指の力に足が竦む。言っている意味が分からなくて、声が出ない。
「でも手を出すにはまだお前は若すぎる。オレもオレで、普通こんな風に誰かと触れ合うことなんざ――誰かの想いを自分に縛り付けることなんざ褒められたことじゃねえんだ。そう思って、これでも我慢してきたんだぜ」
「な……んの、こと、だよ」
「お前のことだよ。人がこれでも我慢してるってのに、盛大に煽ってきやがって」
 錆び付いてしまったように上手く回らない思考では理解が進まない。疑問の声に、また理解不能な言葉を返されてしまっては埒が明かない。
 どうしよう。どういうことだろう。疑問符ばかりが脳内を支配して、目の前の男から少しだけ意識が逸れていた。
 そんなフラウを呼び戻すかのように絡んだ指の力が強まって、さらに顔が近づいて。
 スローモーションのようにゆっくりと近付いてくるギドに、反射的に目を瞑った。
「逃げるな、ちゃんと見ろ」
「っ、」
 酷い声がそう言うものだから、一度は閉じた目をうっすらと開ける。上手く像を結ぶまでに時間を要したほどの距離に、それはあった。
 それは睫毛がぶつかりそうなほどの場所だった。そこには夜空のようだと思った瞳があった。
 ――夜空なんかじゃ、なかった。
 瞬く星なんてない。なにもかもを飲み込む黒だ。
 フラウを今にも食い尽くしてしまいそうな、男だ。
「んっ、ぅ」
 重ねられた唇の柔らかさに気付くよりも前に、冷ややかな侵入者に思考能力を奪い取られる。フラウよりも温度の低いぬるりとしたそれがギドの舌だと気付いたのは絡めとられてからで、使い物ならない自分の舌では反抗することもできず、好き勝手に荒される快楽が駆け回った。
 崩れ落ちそうになる足を支えるためにコートを握り締めた手が震える。
 船員たちの下世話な話を耳を挟むことはあったし、年のわりにそういった方面の知識はあるという自負はあったけれど、キスの時の息継ぎなんて知らない。
 絡めた指を放して腕を這い上がり、腰を撫でる手を止める術なんて知らない。
 どうしても上がってしまう、くぐもった色めいた自分の声も。
 段々と麻痺していく脳髄も、びりびりする背筋も。
 薄くなる酸素に、朦朧とし始める意識に、死にそうだ、とさえ思った。
「はあッ、……は、はっ、ふ、ぅ……」
「フラウ」
 一度唇が離れて呼吸が楽になり、ここぞとばかりに酸素を吸い込む。言いたいことも聞きたいこともあるけれど生存本能が先行した。呼吸を繰り返すたびに冷めていく脳内を、けれどギドの声が呼び戻す。
 耳の奥から背筋を通り抜けて、撫でられ続けている腰に到達して、じんじんと痺れて、冷めたはずなのにまた熱がぶりかえして。
「んっ、ん…… ぅ、っん! 」
 再度口を塞がれて、先ほどよりも温くなった舌がまた入ってきたら、もうだめだった。
 肉厚な舌がフラウの舌に絡んだかと思えば、ゆっくりと歯茎を這う。時々頬の内側をかすめる舌先はまた絡んできて、時折悪戯に上顎を舐め上げるのだからたまらない。舌を吸われると苦しいのに気持ちいい気がしてくるし、じゅわりと溢れる唾液で窒息してしまいそうになって焦る。それに口の中ばかり意識していれば、顎から頬に移った手が耳の裏を引っ掻くのだ。
 極め付けに、そんな風に翻弄され続けるフラウをじっと見つめている、黒い瞳。
 滲んできた涙のせいで視界はぼやけているが、その視線がフラウから外れていないことはずっと分かっていた。
 自分がどんな顔をしているかなんてわからない。わからないけれど、のぼせてしまいそうなほどに熱い頬が、顔が、涙の浮かんだ目が、零れていく唾液が、みっともないことになっている気がしてならない。見ないで欲しいのに見られている。ぞくぞくする。
 くるしいのに、いやなのに、でもやめてくれない。追い詰められる。逃げたい。逃げられない。逃げ場がない。ああ、やだ、いやだ――きもちよくて、だめだ。
 非常に長い間、散々に荒らしていった侵入者が口内から出て行くと、重なった唇もわざとらしくリップ音を立てて離れていった。
「っふぁ、ん……は、はぁ……」
「……」
「ひっ……ぎ、ギド、なに、」
「一丁前に悦さげな顔しやがって」
 頬を撫でる指先が耳の裏を引っ掻いて、ぞわぞわと快楽が全身を走る。崩れ落ちた足を、腰に回っていた腕が支えてくれた。その力強さと、そこから全身に広がる気持ち良い痺れを強く自覚させられて、無意識に膝を擦り合わせる。
 身体中が火照っていて熱い。恥ずかしくてたまらない。耳の裏を引っ掻いた指が目尻に溜まった涙を掬い取り、零れた唾液を拭いとった。
 クリアになった視界に飛び込んできたのは、欲情がはっきりと見て取れる漆黒の瞳だ。あ、と掠れた声が漏れる。こんな目で、この男はオレを見ていたんだ。
 思った瞬間、心臓を引き絞られるような感覚に陥る。
「――っ!!」
「そういう顔だ」
 どういう顔だよ、と問うことはできなかった。
 きっとこれだろうという予想ができる。いいや、予想ではない。確信だ。
 まだ子どもが知るには早すぎる『わるいこと』を知って、その淫靡で甘美な蜜に溺れた、とろけた顔。
「それでオレに堪えろって方が鬼畜だろ。なあ、期待させるなっていうのはお前も言いたいかもしれないが、オレとしても言いたい台詞なんだぜ」
「……ギド」
「物欲しげな顔で見るんじゃねえよ。何も知らねえガキ相手にこんなことを仕出かしてる以上、一応オレにだって人並みの罪悪感くらいあるんだ」
「……罪悪感を、あんたが覚える必要性はない」
「あ?」
 足に力を篭めて、自力で立とうと努力して、握り締めていたコートを離した。けれど手はそのままギドの胸に触れたまま、はふ、と身体に篭る熱を逃がすように息を吐く。
 なあ。吐息交じりの声でフラウは言う。
 早熟だが未熟な子どもは、表情どころか、思考回路も声も甘くとろけきっていることにまでは気付けなかった。
「あんたがいやじゃないなら、後悔しないなら、オレ、あんたに……さっきみたいなこと、してほしい」
「……」
「期待、してる」
 男の顔色を窺うことはできない。したくない、が正しいかもしれなかった。何も知らなかった子どもなのに、あれだけのキスで途端にいやらしくなってしまった自覚はある。
 酒場には頻繁に寄るが娼館には行かないギドの、女の好みはいまいち把握できていない。だからどういう反応がこの男を煽るのか分からないが、初心な方が好きだったらどうしよう。初めてされたことだったのに、腰が抜けるほどによがってしまった自分はどうなのだろう。
 熱に浮かされた思考の裏で、ひどく打算的なことを考えている。男の好みに合致すればあるいは、なんて、まるで客引きに必死になる酒場の嬢崩れの娼婦かなにかのようだ。
 しかし娼婦というには、あまりにも男側の責任が重い。金を出して抱くだけでは済ませないことを望んでいるからだ。
 卑しくはしたなく、どうしようもない生き物に成り下がってしまった。打算的な思考は自身を嘲弄する。こんなどうしようもない子どもを、この男が受け入れてくれる可能性は限りなく低い。わかっているから、男の顔を見ることができなかった。
 男は黙り込んでいる。
 だめか、と冷めた思考は判断を下した。
「……変なこと言ってごめん。部屋、戻るから」
 腰に回ったままの手を、頬に触れたままの手を、引き剥がすように男の胸に置いた自らの手に力を入れて離れる。
 その腕の中から逃れる。
 そうしてこの部屋のドアを開けて、自身に宛がわれた部屋に戻ろうと足に力を込めて――
 ――男は、子どもを逃がしはしなかった。
「――っな」
 抵抗するようにフラウを引き寄せる腕と、顔を上げさせた頬を包む手に驚くよりも先に、捉えてしまった男の表情にこそ驚いた。
 真摯な漆黒は過たずフラウを見ている。
「逃げるな」
「っ……」
「お前が怯えるような返答にはならねえよ」
「……うそ」
「嘘じゃねえ」
 繰り返された命令する声に逆らえず、フラウは動きを止めた。それにくすりと笑って、ギドはフラウを抱き締める。
 押し付けられるコートの向こうの身体の感触に、言い様のない感情が胸の内で渦巻いた。嬉しいような、戸惑うような、素直に喜んで良いのか分からない気持ちだ。
 フラウの頭を撫でて、ギドは言う。
「知っての通りオレは空賊で、しかもそのリーダーだ。だから敵意を向けてくる奴は多いし、親切な奴だってそればかりじゃない。見返りがあるから成り立っている」
「……当然だろ、そんなの。なんの見返りも求めない施しは、優しいかもしれないけど……長続きしない」
「ああ。だからオレの傍で、オレのそういう位置に収まるってことはどうしたって危険を伴う。当然、お前には言えないこともある。その理解は?」
「できてる。危険だって秘密だって分かってる。……だから、迷惑はかけないから、期待させるなって言った」
 きっとそれは、父が最期まで母に関して口を割らなかったことと似ていた。
 無知とはある種の防壁にもなり得るのだ。だから重要機密を知らない下っ端は軽視されて、権力を持ち機密を知る幹部たちは重要視される。だからこそ、ギドの船に乗ってから三年ほど経ったフラウにも知らされていないことは確実に存在していた。
 ラグス王国はまだ大きな動きを見せていないが、バルスブルグ帝国の上層部は空賊を排除しようとしているし、その下部組織であるバルスブルグの軍部と空賊は折り合いが最悪だ。
 そのため、軍部や上層部にとって、ギドという男はトップクラスに厄介な男だろう。空挺の操作といいホークザイルの操作といい、荒事でも頭脳戦でも、この男に出来ないことを挙げる方が困難といえる。
「それから、オレは例えそういう関係になったとして、お前に甘くするつもりはねえぞ」
「その『甘く』ってのがよく分かんねえけど、今まであんだけ強引な教え方しておいて今更甘くされても嬉しくねえよ。むしろ槍でも降るのかと思いそうだ」
「……調子取り戻してきたと思えば、本当に生意気だな」
「実際、やってみなきゃわからないことはたくさんある。ならくどくど理論を説かれるより、やってみる方が断然早い。あんたの実践主義はそういうことだろうと思ってるし、あれだけされても生きてるんだから文句はねえよ」
「……そうか」
 だからこそ、軍はそんな男の弱味をみすみす逃すようなことはしないはずだ。
 船員もギドにとっては大切な仲間である。ならば新入りを死なせないためにも、早急な教育は必要不可欠となる。
 いささか手段が乱暴過ぎるのは事実だが、覚えなければ遅かれ早かれ死にかねないし、仲間の足を引っ張ってしまうことにも繋がるのだ。なら、仕方のないことだろう。
「それとな、クソガキ」
「……なんだよ」
「オレは一度これと決めたものを諦めるのは主義じゃねえ」
 そこで、背中に触れていた手がするすると下っていくことがはっきりと分かった。抱き締められてからは鎮まっていた熱が呼び起こされる。
 さざめく快楽の予感に思わずギド、と名前を呼べば、大きな掌は腰を撫で、さらに下がった。尻の肉を掴まれてびくんと身体が跳ねる。
「っひ!」
「ずっと思ってたけどめちゃくちゃ良い反応するよな」
「な、なん、なんで」
「なんでって、なんとなく分かってるだろ?」
 楽しげな声音に、赤くなる顔を隠すようにフラウはギドの胸に額を押し付けた。奥歯をぐっと噛み締める。でないと尻を撫で回す手に、形をなぞるように触れる指先に、変な声が出そうになる。
「わから、ない、わけじゃ」
「ないよな。あいつらがあれだけ下世話な会話してるんだし、知るなって方が無理な話だ」
 フラウ。耳に吹き込まれるように名前を囁かれて、身体を震わせてしまえば耳に柔らかな感触がして、落ち着いていたはずの思考がじわじわと熱に侵されていくのを感じた。
 分かってるよな、と楽しげに、大人は囁く。
「オレは見返りが欲しい」
「見、返り」
「生憎と聖人君子じゃないんでな。好きあってるって分かれば尚更だ」
 男が言わんとしていることに、どくどくと心臓が煩く鳴り始めた。これほどまでに明確に示されて分かるなと言う方が無理だ。
 男同士ではそこを使うのだと、フラウは知ってしまっているのだから。
「っ……したい、ってこと、か?」
「不安か?」
「……不安、だけど……」
 ふ、と自分を落ち着かせるために小さく息を吐いて、フラウはギドの背中にそっと腕を回した。胸に頬を擦り寄せて目を細める。
「……さっきのキスみたいに、あんたならたぶん気持ちよくしてくれるだろうし、抱かれるのも、へいき、だ」
 他でもないこの男ならば、それも受け入れられる気がするのだ。最初はものすごく痛いとか、苦しいとか、慣れたら最高だとか、しまいにはそこだけでよくなれる、とか。
 知識だけはたくさんあるから、だから、責任を大人に押し付けてしまうずるい子どもは、そうして恍惚の笑みを浮かべた。
 途端、尻を撫でていた不埒な指先があわいへと差し込まれて、布越しにそこをぐっと押し込んだ。
「ぁ、んっ」
「クソッ――ああ、もう、このクソガキめ」
「あっ、はぅ、ッ」
 何度も繰り返される動きが何を表しているのか、分かってしまう。触られたところでどうもしないはずなのに声が漏れる。背中に回した手でしがみついた。
 はあ、と荒い息を吐いて指の動きを止めたギドが呟く。
「くそ……今すぐめちゃくちゃにしたい」
 低い声は色欲にまみれていて、フラウは悪寒に似た甘い痺れを感じた。快楽に似て非なるそれを優越感というのだと、はっきりと理解する。
 そして、被虐的な欲望が顔を出した。
 どうにか欲望を押さえ込もうとしている男が、妙に可愛らしく思えて。相手が子どもだからと躊躇う男に焦れったく思って。
 めちゃくちゃに、されたい。
「ぎど」
「駄目だ」
 先をねだる声は頑なな男の言葉に遮られた。
「なんで」
「お前は初物だろうが。構造的にそういう風に作られてねぇんだから、男はかなり下準備が必要なんだよ。無理強いする気もない」
「……ギド」
「駄目」
 取りつく島もない。むう、とむくれた雰囲気を察知したのか、駄目だ、と更に念押しのように繰り返される。本当に先ほどのこと以上はしてくれないらしかった。
 これまで触れられること、ダンスに誘われたことはあれど、まともに唇にキスをされたのは今日が初めてだ。しかもいきなり舌を入れてこられたせいで、触れるだけのキスはしていない。
 どう考えても接触ばかりが先走っているから、これ以上先に進まないのはギドなりの反省かもしれない。先に進みたい気持ちがあるのは確かだが。
 ――進まなければ良いのだろうか?
「なあ、ギド」
「なんだ」
 声音が違ったためか、今度は駄目以外の返答をくれたギドを見上げながら、フラウはこてりと首を傾げた。先に進まなければ良いのであれば。
「舌入れない方のキス、し……してえ、ん、だけど」
 ねだろうとして言葉を紡ぎながら、途中でしどろもどろになったのは、ここでようやく羞恥心が戻ってきたからだった。熱が鎮まって思考回路も働くようになってきたからだろう。
 何を言っているんだ、と内心で訴える自身の声に正気に戻ってしまったフラウは、呆気にとられているらしいギドからそっと視線を外す。自分で言い出しておきながら、非常に恥ずかしく、なおかつ居たたまれない。
 今すぐ消え去りたい、と自己嫌悪にまで到達したところで、ギドの身体が僅かに震えていることに気付いた。はっと顔を上げれば、ギドは上がろうとしている口角を必死で堪えているような、奇妙な表情をしている。
「わ、笑うなよ!」
「っくく、いや、笑うなってのは無理だろ、自分で言い出しておいて恥らうって」
「うるせえ!! し、しないならいい、」
「しないとは言ってないだろうが」
 する、とギドの片手がフラウの頬を撫でた。先ほどの記憶がちらついて、思わず目を細める。くい、と顔を上げさせられて、ギドの顔がゆっくりと近付いた。閉じてしまいたくなる瞼を必死に薄らと開けたまま、唇が重なるときを待つ。
 しかしギドは、もう少しで重なるであろうところで動きを止めた。
 一度瞬きをして再開を待っていれば、その距離を保ったままギドが呟く。口元に掛かる吐息に、距離の近さを改めて感じさせられて呼吸が震えた。
「ついさっきの、今なのにな。一回で完璧に覚えちまいやがって」
「……しねえの?」
「するよ。目ぇ閉じたいなら閉じてもいいぞってこった」
「わ、わかった」
 ちゃんと見ろ、という言葉を忠実に守っていたフラウに気付いたからだったらしい。頷いて瞼を下ろせば、暗闇の向こうで男が笑った気配がする。
 次いで、柔らかなものが唇に触れた。
 フラウのそれよりも少し冷たい唇は、フラウを食みながら押し潰すように触れたかと思えば、押し付けられる角度が変わる。
 掠める程度の距離を取って、また触れて、唇で唇を食まれた。ぬるりとしたものが唇をなぞって思わず身を引きかければ後頭部を押さえられた上に吐息で笑われ、触れるだけのキスでも翻弄されっぱなしだ。
 ただ唇を触れさせているだけに過ぎない行為なのに、主導権は完全にギドに握られている。
 キスに夢中になっているフラウを、後頭部に回っていた手が更に追い詰めた。
「んうっ、ぅ、ふっ」
 手袋を纏った指先が、項と背中の間に位置する少し出っ張っている骨の辺りから項までを、つう、と引っ掻くように撫で上げたのだ。
 まるで耳の裏に触れられた時のような感覚に、鼻にかかった声が漏れ出る。卑怯だと訴えようと薄く目を開けた先で、男は笑っていた。
 その楽しげで色気に満ちた、嗜虐的な笑みに逆に追い込まれたフラウの呼吸は乱れ始める。
 不埒な指先は項や首筋、耳を触ってはフラウをいじめて楽しんで、触れるだけのキスだったはずなのに、結局フラウはくたくたの骨抜きにされてしまった。
「…………あんた、ゆびさきがへんたいだ……」
「んだとコラ」
「なんで、なんであんな……うう……」
「……これからもっとすごいこと、覚えていくんだぞ?」
「……やさしくしろよな」
「……確約はしかねる」
 そこは上っ面だけでもしろよ、とフラウは思わずくすくすと笑った。

 


2017.12.17