「鍾離先生?」
聞き覚えのない声に振り向いたのは、その声が鍾離の名を呼んでいたからだ。振り返った先、どうやら新入生らしく少しだけ丈が長くぴしりと糊の利いた制服に身を包んでいる少年は、やはり見覚えのない姿だった。
名前は確かに入学式の後、新任の教師の紹介の際に名乗ったから知られていてもおかしくはない。しかしそんなにも気軽に呼びかけられるとは予想していなかったし、少年はどこか探るような目で鍾離を見つめている。
鍾離にとっては初対面である少年は、入学式も終わって新入生たちなら校内の見学にめいめい向かう中、何を思って鍾離に声をかけてきたのだろう。
「確かに鍾離は俺だが、何か用だろうか?」
問いかければ、少年は僅かに目を細めた。薄らと開けられたままだった形の良い唇をすっと結んだ少年は一歩、二歩と鍾離に近付き、手を伸ばせばなんとか届く程度の距離で止まる。明るい金茶の髪に白い肌、そして眼窩に嵌る瞳はそれらの明るさとは比べ物にならないほどの深みを持つ海の色をしていた。
新任の高校教師である鍾離よりも年下で間違いないはずの少年は、けれどそこらの大人よりも余程大人びた顔で溜め息を吐く。そして眉根を寄せたかと思えば、まるで幼子を見守るかのような微笑をその顔に浮かべた。
「なんだ、俺よりもまともな人間になったんだね」
「は……?」
「あれだけなりたかった凡人になれて良かったね、先生」
一体何を言っているのかさっぱり理解出来なかった。鍾離が顔を顰めれば、少年は困ったようにへにゃりと笑う。その表情は先ほどよりも幼げではあったが、やはり子どもらしいというよりも、子どもを見守る側の立場に在るようなものだった。
いびつだ。そう判じながらも、鍾離はもう一度問いかける。
「何を言っている?」
「いや、なんでもないよ。『貴方』に言ってもしょうがないし……まあ、ここの教師なんでしょ? ならもしかしたら授業受けることになるかもしれないね」
鍾離の問いかけをはぐらかした少年は、にこりと綺麗な笑みを作った。
「その時はよろしく、鍾離先生」
呼び止める間もなく、その肩を掴むには距離があった位置に居た少年はさっさと踵を返してしまう。遠ざかっていく背中を追いかけるほどの理由もなければ、困惑が勝ってしまった鍾離には少年にかけたかった言葉を上手く言語化できなかった。
あれほどまでに鍾離を探るような目つきをしていたのに、少年は振り向きもせずに姿を消す。一人取り残された鍾離はしばらく少年が消えていった方向をぼんやりと見つめていたが、気にしすぎても仕方がないかと本来の目的のために歩き出した。
目立つ容貌をしていたから、この学校で働いていくうちに少年は嫌でも目に付くだろう。そうして今度は鍾離の方が少年を観察していけば良い。
少年がかけた言葉を理解するために。
――去り往く少年の背にかけたかった言葉を捜すために。
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七歳差か、と新任の教師として紹介されている壇上の男を眺めつつ数え、六千歳越えと成人はなんとか済ませた程度だったかつてを思い出していた。距離があり見えにくかったが、その瞳は変わらず金珀の輝きを宿しており、名前を聞く前から確かに彼なのだと納得していた。
が、まさか記憶がないとは。
壇上に立ち自己紹介していた男と目が合わなかった程度では、ああさすがに人数も多いから気付いていないのかもしれないなと思うくらいだったが、直接名前を呼んだのにあんな有様では間違いなく記憶はないだろう。
かつての『公子』タルタリヤは――また生まれなおすことでアヤックスに戻った少年は、しかし「そういうものか」とさして落胆することもなくそれを受け入れた。
タルタリヤとして出会った前世、あの男は岩神モラクスでありながら凡人鍾離になろうとしていた男だった。タルタリヤの前ではもうほとんど岩神ではなく、鍾離として生活しようとしていた頃だったから、タルタリヤと彼が凡人と岩神として言葉を交わしていたことは無に等しかったはずだ。
結局のところ鍾離の意識次第だった部分だから、実際はどうだったか知らないが。タルタリヤの前でのかの男は、間違いなく凡人だったのだろうと思う。
タルタリヤがあの芝居の裏側を知らされていなかったこと、彼の愛した国にあんな災害を呼び起こした後もタルタリヤと変わらず食事に行ったり軽く出かけたり、共に旅人に同行していたことがあったからこその判断である。
とはいえ、本格的に神の心を手放して以降も凡人らしさの欠けた男であったので、こうして新たな命として生まれなおした彼が過たず凡人だったのは、かつての男を思えば僥倖だったのかもしれない。
記憶があることを隠している可能性は否定しきれないが、この世では初対面であるはずの相手を欺こうとする理由が思いつかない。単純に関わり合いになりたくないからそう振舞っていることも考えられるけれど、鍾離に限ってそのような回りくどいことはしないだろうという確信があった。
嫌なら嫌と面と向かって伝えられる男だし、こちらとしてもこの泰平の世には相応しくない性質をしている自覚があるから、関わりたくないと思う気持ちも理解できる。タルタリヤはどうしたって禍いを呼ぶものだった。闘争を生むものだった。戦争などというものから遠いこの世界では、避けて生きたい存在に当て嵌まるだろう。
だからこそ、嫌ならばはっきりと分かりやすく遠ざけるはずなのだ。鍾離はそういう男だった。
そういうわけで、かつての知り合いは間違いなく真っ新になっていた。
「……つまらないなぁ」
不要なものを引っ提げてきてしまったのは、どうやらアヤックスだけだったらしい。
実は鍾離のほか、いくらかかつての知り合いを見かける機会はあったのだが、彼らもアヤックスの姿を目にしたところで何かしらのアクションを起こすことはなかったし、会話する機会があったところで対応は初対面のそれだった。
つまり、この世界で生きるのが最も似合わない己のみが、かつての記憶を持っている状態というわけだ。
掃除の時間中、ゴミを捨ててきた帰り道。どうやら風で集めていたゴミが飛ばされたり、広いがゆえに人数が多く割り当てられているからか、遠目で見るとてんやわんやしている生徒たちを窓からぼんやり眺めつつ一人呟く。
社会科の教師である鍾離は、地理の授業の際にアヤックスのクラスを担当している。週に数度顔を合わせる機会があるということだ。初対面であんなことを言ってしまったからか、どことなくアヤックスの方を気にかける素振りを見せることもあるが、現状はただの教師と生徒だった。
あの頃のような戦闘は出来ない。この身は闘争を求めるが、それが許される場はもうなく、それを許してくれる存在も居ない。それが許される立場なんてものはこの世界にはない。
窓枠に肘を突き、その腕に顎を乗せる。ふわ、と吹く風は柔らかく、春先らしく少しだけ冷えていたがそれだけだ。冬国の身を切るような冷たさではなくて、過酷であるがゆえに厳しく、しかし暖かかった国に郷愁を見出した。
今の家族も変わらず大切な存在だ。けれどどうしたってこの身に残る記憶は鮮烈で、平凡な毎日はぼんやりとしている。闘争を好むけものに、この世界で生きる資格はない。
「はーあ」
せっかく記憶を持つなら、もっと善良で、もっとこの平和な世界の平和な人生を謳歌できる者たちの方が良かっただろうに。少なくともアヤックスより、記憶を持て余すことなどなかったはずだ。
それこそ鍾離であれば、こんな経験も面白いものだとあの金珀の目を煌めかせたかもしれない。身体の強度や老いる速さも、神の実在性の曖昧ささえ、あの男にとっては面白みのあるものに映ったに違いない。
「サボりか?」
かけられた声に飛び上がらなかったのは、この世界で生きるには不要なスキルが身に染み付いてしまっていたからだ。ただの廊下だ、偶然通る可能性のある場所だから鍾離が近付いていたのは意外でも何でもなかったが、声をかけられるとは思わなかった。
しかし鍾離の方は振り向かず、腕の上に乗せていた頭を持ち上げてへらりと言う。
「仕事帰りですよ」
「仕事?」
「ゴミ捨て。教室棟からだと遠いんで、捨てたらもう終わりでいいーって言われて」
「なるほど」
隣に並んだ鍾離は、アヤックスに倣ってか窓の外へと視線を向けた。アヤックスに意識を向けている様子はなく、ちらりと目で見て確認してみても確かに鍾離は外を見ている。その横顔は、目尻に朱を差していない以外は見慣れたそれだ。
アヤックスも外へと視線を戻した。そろそろ掃除の時間も終わるからか、今度は掃除用具の片付けでばたばたしている。
「まさか鍾離先生に声をかけられるとは思わなかったな」
生徒である以上、教師には敬語を使うべきかとも思ったが、それでも鍾離と話しやすいのはこちらの口調だ。礼儀の類にはそれなりに口煩かった過去の彼を思い出しつつ、許されるだろうかと探りながら口にした。
あの初対面の会話以降、アヤックスと鍾離が授業以外で言葉を交わしたことはない。授業終わりに質問しにいく理由もなく、鍾離に関わりたいらしいクラスメイトたちが群がっているのをぼんやりと眺めている程度だった。だからこうして、偶然姿が見えたからだったとしても、鍾離の方から関わってくるとは予想外だ。
「二人になる機会がなかったからな」
「他の生徒の前では話しにくかった?」
「授業に関係のある話でもなし、わざわざ呼び出すようなものではなかっただろう」
確かに名指しで呼び出されでもしたら邪推されかねない。元より鍾離は新任のわりに纏う雰囲気が厳格で、生徒と年齢が近くて接しやすい教師というよりは、しっかりとした頼りがいのある教師として見られている雰囲気がある。
部活にも入らず、かといって異性間交遊にうつつを抜かすわけでもなく、けれど外面はそれなりに保っているアヤックスは、運動神経も良いからかクラスではそれなりに目立っている。しっかりとした雰囲気のある鍾離に呼び出されたら確実に野次馬も出てくるし、なにより翌日の噂好きな生徒たちの質問攻めが面倒臭い。有難い判断だ。
それにどうやら、敬語を使わなかったことに注意はないらしい。外見や雰囲気から不真面目な性格だと判断されがちだから、そういう理由からなのか、あるいは鍾離は生徒から敬語を使われないことがさして気にならないからか。
「それで鍾離先生は、入学式の日のことが聞きたいの?」
「案外結論を急ぐんだな」
「生憎、そういうのは得意じゃないから。さすがに先生相手に頭脳戦で勝てるとは思ってないよ」
「……ふむ」
前世では仕事上必要だったために多少はやっていたけれど。そんな記憶を引き摺ってきてしまったから、人生経験はそのぶん積んでいるアヤックスはおそらく年相応以上のスキルがあるだろう。
とはいえ、今度は本当に見た目通りに二十数年、その程度の記憶しかなかったとして、鍾離を相手取りたいかと言われれば答えは否だ。策略において、鍾離を上回る者は早々居なかった。隣に居る男とかつての彼とがそのまま同じではないと分かっていて、それでも嫌だった。
あるいはアヤックスの手玉に取られるような鍾離など見たくない、と思っている部分があるからか。要は感傷だ。窓の桟に肘を突いたまま、らしくない思考回路に内心笑ってしまう。けれどまあ、何度も食事を共にし、ねだって手合わせをしてもらって、そうして時間を重ねていたのだ。多少なりとも情はあった。
――何度も繰り返した手合わせで、ようやく鍾離から一本取れた時の、あの達成感!
そして溢れ出る脳内物質に溺れ微笑むタルタリヤを見た、鍾離のその表情といったら!
「どうやらお前は俺を古くから知っているらしいな」
「……まあ一方的に、少しだけね」
とっぷりと回顧していた意識を引き上げ、鍾離に対して曖昧に応える。今の鍾離に関する情報はほとんどないから、アヤックスの知っていることなどほんの一握りに違いあるまい。鍾離の手が窓の桟、アヤックスの肘の傍に置かれた。
その手にはあの黒い手袋も嵌められた指輪もなく、白く美しく形の整った手指が惜しげもなく晒されている。
「俺には覚えがないんだが、一体どこで会ったんだろうか」
「さあ……どこ、だったかな。ずっと昔なのは確かだけど」
「しっかり覚えているわけではない、と」
「まあね。でも印象的だったから、見間違えるようなことはないよ。って言っても先生は覚えてないんでしょ」
鍾離の視線がアヤックスに注がれているのが分かった。記憶がないことを咎めたいとは思わない。むしろあまりにも長い生を過ごした鍾離だ、あれを引き摺ってきてしまったら大変なことになっていたかもしれない。
ただの人間に生まれ変わった以上は、彼はもう置いていかれ続けるばかりではない。誰かを守らなければならない理由もなく、契約を重んじるその性質すら今も残っているかどうか定かではなかった。けれど、それで良いのだろうと思う。
鍾離は真面目なのだ。せっかくの新たな生なのだし、過去に縛られるより、身軽に生きられる方がずっと楽だろう。
だから過去の亡霊を記憶に色濃く残したアヤックスとは、あまり関わるべきではない。鍾離の方を向かず、アヤックスはただ外を見ていた。片付けを終えた生徒たちはわらわらと集まり、担当なのだろう教師と反省会をしている。
「覚えてないな。どれだけ考えても思い出せない」
「いいんだよ、無理に思い出そうとしなくて。思い出してほしいとは言わないからね」
「だが、どうにも引っ掛かることがあるんだ」
「……引っ掛かること?」
思わず横を見れば、怜悧な目元と視線がかち合った。その距離感に、アヤックスが思っていたよりも近い場所に鍾離が居たことをようやく知る。前世で身につけたスキルは鈍っていたらしい。
じっと見つめてくる鍾離からの圧も相まって後ずさりたくなるが、それよりも先に窓の桟に置かれていた鍾離の手がアヤックスの腕を掴んだ。思わぬ接触に身体が僅かに跳ねる。穴が開きそうなほど真っ直ぐに向けられる視線は、確かに魔神であった男と同様のものだった。
「なにか、言いたいと思ったんだ」
「な、にか?」
「『あれだけなりたかった凡人になれて良かったね、先生』と、言っただろう」
「ハハ、一言一句覚えてるってすごいな……」
「記憶力は良い方だからな」
以前の鍾離と重なる部分が多い。記憶こそないようだが、その性質はやはりほとんどかつての男と変わりないのではなかろうか。ただでさえ姿かたちはまったく同じなものだから、昔と今とが違うことなどアヤックスが一番分かっているはずなのに、どうしても。
そっと唇を噛んだ。身体の内側で疼くのは闘争心と、それを見事に飼い慣らしてくれたかつての男と、それによって得られた喜びだ。今生では得られぬものと、あの初対面の日から今日までで割り切ったはずのものである。
これはまずい。脳内では喧しいくらいに警鐘が鳴り響いていた。けれど金珀の瞳から目を離せないでいる。
「――お前に、何かを伝えなければと思ったんだ」
鍾離に瞳を覗き込まれている気がした。瞳からその内側、今のアヤックスではない、過去のタルタリヤを――かつての鍾離を見透かそうとしているような、眼差しだ。
反射的に俯く。ばくばくと心臓が信じられないほどの音量で騒ぎ立てている。ぐらぐらと視界が揺れているようにも感じられて、ぐっとアヤックスの腕を掴む鍾離の手に力が籠ったことだけが今のアヤックスの意識をこの場に縫い止めていた。
「去っていく背中を追いたかったのに、かけたかった言葉が思い出せなかった。お前は何か知ってるんだろう?」
「……それ、を、思い出して、先生はどうするの」
世界が変わって、多少なりとも生き方を変えなければならなくて、かつては好き放題にしていた闘争心をどうにか制御する方法を覚えた。といってもそれは奥底で、タルタリヤの記憶に寄り添わせ、かつての死闘を何度も反芻することで仮初の満足感を得させていただけに過ぎない。
記憶がない鍾離に、今はもうどうにか出来るようになった欲の発散に付き合わせるわけには行かないと思っていた。この世界での戦いの形は変わってしまって、高潔な戦士たちもそうした違う場所での戦いに身を投じている。タルタリヤが愛した闘争は異端なのだ。好き勝手できる場も、それを許してくれる存在も、それが許される立場もない。
だから鍾離が――もしも、思い出してしまったなら。
「どうするも何も、伝えるが」
「……は、ハハ。伝えるだけ?」
「内容も分からないし、お前と関わっていた記憶も思い出せていないからな」
「思い出しちゃったらどうするんだよ……」
「そんなにも悪い記憶なのか?」
「さあ? 俺にとっては悪くないけど、先生にとってはどうだったか分からないからね……」
校舎内にチャイムが鳴り響いた。掃除の時間が終了した合図だ。早めに掃除を切り上げられたのだろう、さっさとジャージに着替えて外に出てきた者もちらほら視界の端に映っている。こんな状況を、他の誰かに見られてしまったらどうしようか。
様々感情が混ざり合って忙しない脳内をどうにか整理して、アヤックスは顔を上げた。鍾離としかと目を合わせ、鍾離の意思が揺らいでいないことを再確認する。まったく、相も変わらずその意思は固いようだ。
記憶を持って生まれたがために在り方を捻じ曲げなければなかったアヤックスと、記憶を持たずに生まれてきたくせに在り方はろくに変わっていないらしい鍾離と、どちらが良かったのか分かりやしない。
「後悔しない?」
「む……内容にもよるが、俺自身の選択だ。文句は言わないと約束しよう」
「そう。じゃあ……そうだな、そうは言っても俺もどうしたら鍾離先生が……俺に? かけたかった言葉っていうのを思い出せるか分からないけど」
しかし鍾離に、アヤックス――というよりはタルタリヤに対してか――にかけたかった言葉など、あったのか。まあ確かに、当時予想していた通りに年老いる暇もなく死んだものだから、別れの言葉を告げる時間なぞなかっただろうけれど。
死に際のことはあまり詳しく思い出せないが、あれほどまでに闘争を愛していたわけで、一般的に見ればろくな死に方はしていないはずだ。そこに後悔がなかったことだけが、確かな感覚として残っているだけである。
そんなことを考えつつ、アヤックスは笑みを浮かべた。
「俺はアヤックスだけど――『公子』か、タルタリヤ。そのどっちかの名前で呼んでれば、そのうち何かしら思い出せるかもしれないね」
「公子……タルタリヤ……」
教えた名を舌の上で転がして確かめている鍾離に、いい加減放してくれと掴まれたままの腕を軽く振れば、何故か渋々といった様子で鍾離はアヤックスの腕を解放する。腕が掴まれていてもいなくても逃げ出しはしないというのに、不満がる理由がよく分からない。
思案するような顔をしながら何度か「公子」と「タルタリヤ」とを繰り返し呼んだ鍾離は、納得したように一つ頷いた。
「では、公子殿」
「……うん。そう呼ぶ?」
「これが一番……そうだな、舌に馴染む」
「他の生徒が居る時はさすがに控えて欲しいけど、それ以外ならそう呼んでいいよ」
「分かった、そうさせてもらおう」
言ってから、他の生徒が居ない二人きりの状況を作るような発言だったと後悔したが、目の前でとろりと微笑む男の表情を見てしまえば、水を差すような発言は憚られた。それに、記憶がなくてもあの頃と変わらず「公子殿」と己を呼ぶ男に、アヤックスはどう返せば良いのか分からない。
失敗したかもしれない。だが呼び名一つで鍾離がかつての記憶を――どうやらタルタリヤにかけたかったらしい言葉を、思い出せると決まったわけでもない。鍾離が飽きるまで、あるいは鍾離とアヤックスが会う機会がなくなるまで。
そのくらい、二度目の人生なのだ。のんびり付き合ってみるのも良いのかもしれなかった。
2020.12.16