命が尽きるまで

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 彼が「昔」と前置く際は、己の忘却した時間の話なのだと気付いたのはいつだったか。
 頻出する淡い金髪の子どもの話。題名は思い出せないと言いながらもあらすじを淀みなく話す物語の話。あれは美味しかったなあと懐かしげに言う食べ物の話。ほとんど伝聞の形である異国の世俗の話。あるいは異国のことであるはずだが、妙に真に迫った口調で語られる話。
 彼の言う「昔」が、己や彼がまだ幼かった頃のことを指しているわけではないことは、とっくに気付いていた。彼は年のわりに大人びたところがあって、そこらの大人よりもよほど達観している節もあったが、それが普通でないことも早い段階から見抜いていた。
 それでも、光の届かぬ深海のような瞳をしている彼が、己の語る話にころころと表情を変える様は飽きなかった。彼が話す「昔」のことも、最近読んだ本や観た映画の話、クラスメイトのちょっとした笑い話も、聞いていて楽しかった。手放しがたい、貴重な時間だと知っていた。
 ――深海の瞳が時折、郷愁に沈むことも。
 その底を明かしたいと思うようになったのはいつからだろうか。知識欲は幼い頃から人一倍強かったとよく聞かされていたから、それも早い段階から感じてはいたはずだ。底知れぬ少年を、柔らかく包み隠された「昔」を、知りたいと思うようになってしまった。
 そこに己がかけたかったはずの言葉もあるのだろうと、勘づいていた。

 だから彼が高校を卒業して、連絡こそすれ会える頻度が下がってから――夢に現れたそれ(・・)を、受け入れないという選択肢はなかったのだ。

『全てを受け入れるには器の大きさが足りんな。間違いなく溢れるだろうが、それでも見たいか?』
「俺は忘れている。ならば思い出すべきだ」
『忘却は凡人に許された特権だぞ』
 これでも記憶力は良い方だ。未だに初対面の時に彼が己に言った言葉を一字一句違わず言えるくらいには。だからあえて選ばれたのだろう凡人という単語に、間違いなく目の前のものと彼が語る「昔」とが繋がっているのだと確信を得た。
 決して良い印象があるわけでもないその単語に、今の己の知る言葉以上の意味が含まれていることは明白だ。そしてきっと、かつての己はそれと違ったのだ、とも。
 忘却が救いになることもあるだろう。嫌な記憶は忘れられた方が気が楽になるだろうし、辛い記憶などすすんで覚えておきたいものではない。記憶力の良さを自覚しているからこそ、それの言葉はよく沁みた。
 しかし――忘却とは一種の死である。
「構わない。凡人の特権は忘却のみというわけでもないからな」
 淀みない返答に、()は髭をたなびかせた。金色の目を細める。
『ならば少しずつ注ぐとしよう。人の身には余るものだろうが、上手くやれよ』

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 大学に入り、一人暮らしになったアヤックスはアルバイトも始めた。新生活に慣れるまではなかなかに大変だったが、これよりももっと苛酷な環境を知る身には可愛げのあるもので、上手くやりくりしながら毎日を過ごしている。
 こういう時は記憶があるのは大きいなと思いこそすれ、タルタリヤが生涯愛した闘争を追い求める欲にはかなり苦労した。様々な意味で、タルタリヤの記憶あってこその今のアヤックスである。
 それに記憶を持たないとはいえ鍾離を見てしまった手前、アヤックス自身にも闘争を愛する精神があった可能性は否定できないのだ。タルタリヤの記憶があったのはある意味では救いだったのかもしれない。
 高校時代とは違い、夜遅くに出歩いていても補導されないし、一人暮らしになったため帰りが遅くなっても咎める家族は居ない。そういう自由な環境になって、アヤックスはアルバイトで仕方ない部分もあれど、自分の意思で夜の街をふらりと歩くことが増えた。
 これでも高校時代は品行方正で通っていたため、悪い癖だという自覚はある。あるにはあるが、少し遅くまで買い物に費やしたり、今までは行けなかった少し遠い場所に足を伸ばすようになっているだけで、実際のところ夜遊びらしい夜遊びはしていない。鍾離に問い詰められても後ろめたさを覚えずに済む程度の夜歩きである。
 鍾離といえば、あれからというものメッセージのやり取りが主な会話の手段となっていた。なにせ会える機会が減ってしまったし、大学と家事とアルバイト、とアヤックスのやることが増えたせいもある。
 そうはいっても、落ち着いた雰囲気の喫茶店であるアルバイト先について話した後に早速来店し、アヤックスの働きぶりを見ながらノートパソコンを広げ、何か持ち帰りらしい仕事をこなしていたから、一応会う機会自体はそこそこあった。
 店内である以上はどうしても二人きりにはなれず、公子殿と呼ばれるのはメッセージの応酬の中でのみになってしまったが。
 会える時間があるだけ良いな、と思ってしまったのだ。
 端的に言おう。アヤックスはいつの間にか、鍾離との時間に安寧を見出していた。
 ――人間関係とは複雑なものである。
「せんせえさあ、どうやって生徒からのアプローチかわしてた……?」
「……色恋の話か?」
「高校の頃より皆ぐいぐい来るっていうか、遠慮を知らないっていうか……? それなりに上手くやれるつもりだったし、人間関係ってどこでも似たようなものあると思ってたけど、俺も経験が足りなかったみたい……」
 アルバイト終わりに店内でまだのんびりとコーヒーを飲む鍾離の向かいに座るのは最早いつも通りのことで、今日は仕事ではなく読書をしていた鍾離はテーブルにぐったりと伏せるアヤックスを見て本を閉じた。
 前世、タルタリヤは――当時はまだその名を賜っていなかったが――齢十四にしてファデュイ徴兵団に入ることになり、それからは色恋にうつつを抜かしていられる時間も、意欲さえもなかったのだ。執行官にまで上り詰めた後は多少なりとも外交手段として自分の外見を活用することもあったが、経験という経験はそれくらいで収まっていた。
 要は恋愛経験が少なかったのである。
 関係を持つことそれ自体がなかったとは言わないが、恋という感情が伴う関係性を持ったことはなかった。
 タルタリヤにそれは必要なかったし、それ以上にやりたいことがあったから仕方ない。誰かと睦み合うより殺し合う方が好きだったのだから。我ながら普通ではないが、別に当時は普通でありたいとも思わなかったからやはりどうしようもない。
「ふむ。器用なアヤックスも色恋には疎かったか」
「相談は散々されたよ? だから分からないわけじゃないけど……高校時代の子たちと今の子たちだと方向性が違ってて参考にならないんだよね」
 高校時代に持ちかけられた恋愛相談も、アヤックスを意識しながら相談してくる者が居たのは事実だ。しかしそのアプローチもささやかなもので可愛げがあり、現状アヤックスを苛む肉食系のそれとは違っていた。高校時代のそれは微笑ましかったのだ。
 まさか二度目の生を受けるなんてことを予期できるわけもなく、タルタリヤの前には終ぞ立ちはだからなかった恋愛は、その記憶を生かして程ほどに立ち回って生きてきたアヤックスにとって大きな壁である。
 鍾離にこの話をしたのは何にも気を遣うことなく話せるのが鍾離くらいであることと、恋愛でいえばこの男も鈍そうだと昔の記憶も含めてそんな偏見を抱いていたが、そのわりに生徒をあしらうのは上手かったということを思い出したからだ。
「別に今でもどうにもなってないわけじゃないけど、このまま絡まれ続けるのも面倒だし、先生ならどう対処するのかなって思ってね」
「俺の場合、相手が生徒ならそもそも立場の違いがある。どうあれ応えることは出来ないし、生徒たちも心の内ではほとんど理解していたからな。贔屓は出来ないと伝えるだけで済んでいた」
「……先生は見るからにお堅そうなタイプだから余計か」
「そう見えるか?」
「お堅い部分があるのは否定しないけど、そういう部分があるってくらいじゃない?」
 さすがにアヤックスに絡んでくるのは学生だけだ、つまり同年代であり立場の差など先輩か同輩かといったくらいである。鍾離の方法は使えそうにない。薄々察してはいたがやはりかと、アヤックスは溜め息を吐いた。ちなみに鍾離がお堅いだけでないことなど前世から知っていたため、生まれ変わってもそうなのかという再確認で済んでいる。
 何故か少し嬉しそうに笑う鍾離に疑問符を浮かべつつ、アヤックスは身体を起こした。アルバイト終わりで疲れているとはいえこれは行儀が悪い。ついでに夕飯もここで済ませてしまおうかとメニューを脳内でめくったところで、鍾離が口を開く。
「付き合おうとは思わないのか?」
「……えっと、アプローチしてくる子たちと? ないかな」
「ないのか」
「うん、たぶん俺はその子のことを優先してあげられないし……でもそれ、先生には言われたくないな。先生だって――」
 顔は整っているし、体育祭でジャージを着ていた時や夏場の薄着になる時期に、服の上からでも身体が引き締まっていたことが分かる程度には鍛えている。その上博識で、基本的に色々なことに興味を示すから会話も途切れることがない。
 多少、良く言えば天然のようなところもあるけれど、それは傍目から見れば完璧超人のような男の可愛げと思えば充分カバーできるだろう。顔が整っているだけに澄ました顔の印象が強いが、これでいて表情は動くし、破顔した時などは女性から見れば可愛いと思われるのではないだろうか。
 対人関係は外見から始まるものだ。つまり顔が良い鍾離は昔からさぞや人気だったのではないかと――口にしようと鍾離の顔を真っ直ぐに見て、アヤックスは違和感を覚えた。紡ぎかけた言葉が止まる。
 ぱちり、とアヤックスの言葉の続きを待つように瞬きする鍾離の目元には、薄らと隈が見て取れた。
「先生、もしかしてお疲れ?」
「……そう見えるか」
「誤魔化そうとしてるなら信じられないくらい下手だよ。らしくないな」
 鍾離は喫茶店では出先には違いないのにかなりリラックスしていたが、今日の鍾離はどちらかといえば気だるげだ。隈といい、よくよく見てみれば唇も少し荒れている。アヤックスの在学中、体調を大きく崩したのは一度きりだったくらいには健康的なはずなのに。
 その時さえ、少し身体の動きが緩慢な鍾離にアヤックスが休んだ方が良いのではないかと提案したところ、結果としてインフルエンザだったことが発覚したという驚愕の一度なのだ。
 ちなみに冬だったこともあり鍾離も予防としてマスクをしていたため、昼食を共にしたアヤックスのみうつされた危険性があったものの、アヤックスがその年にインフルエンザにかかることはなかったという奇跡的な一度でもあった。
 体調はあまり顔に出ないタイプらしい、とあの時確かに記憶に刻んだからこそ、明らかに顔に出ている現状はまずいのだと分かる。
「仕事中に気付けなかった俺も悪いけど、早く帰ろう?」
「そんなに酷い顔をしてるか、俺は」
「少なくとも俺が見てきたアンタの顔だと、」
 瞬きのために瞼を下ろした刹那、見覚えのない景色が映り込んだ。一瞬過ぎたためにしっかりと捉えることは出来なかったが、怪訝な表情をしている鍾離の方に意識を引かれたためにその景色を追えず、へらりと笑みを浮かべて誤魔化す。
 今はなによりも目の前の鍾離だ。
「一番酷い顔だよ。俺もバイト終わりだし、読書は家でも出来るでしょ?」
「それもそうだが……」
「え、なんで渋るの」
「……」
 ふい、と鍾離が顔を背けた。博識なだけあって語彙力も豊富な鍾離は、一般的に見ると言葉選びが下手だったり言葉が足りないこともあるが、それでも自分なりに言葉を尽くす性格をしている。その鍾離があえて無言を選んだ理由が分からない。
 思いつく理由としては帰宅したくないとか、アヤックスの予想以上に体調が悪いとか、そのくらいしかない。どちらにせよ心配になる。
「あの……本当にらしくないよ、先生。送ろうか」
「いや、そこまではされなくとも大丈夫だ」
「本当に大丈夫ならそんな顔してないし、言葉に迷うことなんてないんじゃないの?」
 鍾離も一人暮らしだ。インフルエンザの時はまだ教師と生徒という関係性だったし、既にうつされている可能性の高いアヤックスが行くわけにもいかず、更に幼い弟と妹が居ることを思えば踏み込めずに少しだけハラハラしていたのだが。
 今のアヤックスは大学生で、一人暮らしで、限りなく自由に動ける立場にある。躊躇う理由はなかった。
「理由を言いたくないならそれでいいから、俺が心配だから送らせて」
 そろりと鍾離がアヤックスの方を見る。その眼差しは見慣れたそれよりも精彩を欠いている。普段の鍾離を知っているからこそ、アヤックスは見てみぬ振りが出来なかった。ね、と念を押すように首を傾げて鍾離の顔を覗き込めば、形の良い唇を引き結んだ鍾離は視線を落とす。
 少しの逡巡の後、鍾離は息を吐いた。顔を上げた鍾離は僅かに眉を下げている。
「……なら、その言葉に甘えるとしよう」
「ん、分かった」
 かつての鍾離なら、きっとタルタリヤには見せてくれない部分だっただろう。アヤックスは胸中を満たしたその感情を静かに飲み下した。行こうか、と声をかけ、鍾離を促す。

 鍾離の部屋に来るのは初めてだ。かつて往生堂にあった、鍾離が使っていた一室に足を踏み入れたことはある。あれは最早部屋というより物置のような物の多さで、しかし鍾離は気にすることなくそこで事務仕事をこなしていたのだ。おかげでタルタリヤは呆れ半分面白半分といった具合で、思わず整理したくなる手を抑えるのが大変だった。
 物を捨てられないというわけではなかっただろう。当時の鍾離にとってはどれも価値があり、買い集めたものはいずれ渡るべき者へと渡るのだという意識で居たのだと思う。だからそれは一般的に見ればただの浪費癖なのだと、旅人と共に何故かタルタリヤも説いていたのが懐かしい。
 今の鍾離はどうなのかと言えば、確かに一人暮らしの男の部屋にしては物が多い印象だが、まだ常識の範疇に収まる程度だった。単純に当時ほど自由が利く立場になく、収納が足りなくなってしまうから、と何とか歯止めがかかっているのだろうと思われる。むしろこの男に一軒家を与えたら中身はどうなるのだろうかと、タルタリヤにあった貯蓄が今もあったら試してみたいと思ってしまった。
「体温計とか、あと冷却シートとか、氷枕とか、そういうやつは先生の部屋にもあるよね?」
「氷枕はないが、体温計と冷却シートはインフルエンザの時のものがあるな。何か勘違いしてないか? 別に熱はないぞ」
「熱がなくてそれっていうのも問題だと思うけど、もしも悪化して熱でも出した時用の備えはあるかって話だよ。まあその二つがあるなら大丈夫かな」
 かつての往生堂の部屋とは違い、足の踏み場がきちんと存在する鍾離の部屋は、それでも鍾離らしさのある部屋だった。
 置かれている家具は華美ではないが確かな質が見て取れるものだし、想像通り一人暮らしにしては大きい本棚もあり、ぎっしりと本が詰まっている。大きな壁掛けの液晶ディスプレイは映画を見るにはぴったりだろう。
 しみじみとアヤックスが部屋を見回しているうちに、鍾離はゆったりと部屋着に着替えていた。生まれ変わろうが基本的に隙を見せない服装が多かった鍾離の、気の抜けきった部屋着姿は新鮮だ。視界の端にそれを捉えつつ、どうしようかとアヤックスは内心困惑していた。
 ――本当は部屋の中にまで入るつもりはなかった、本当のことだ。
 アパートの前まで送り届けたら帰ろうと思っていた。それが何故室内にまで足を踏み入れてしまっているかといえば、いつもなら伸ばされた背筋が曲がっている様さえろくに見せない鍾離が、インフルエンザだった時よりも緩慢な動きをしていたからである。
 その上で、帰ると言い出そうとしたアヤックスの方を振り向いた鍾離の、別れを惜しむ幼子のような表情が決め手だった。
 どうやらアヤックスは自分で思っていたよりもずっと鍾離に甘い部分があるらしい。今生でもきょうだいの多いアヤックスは、年下には甘くなりがちだという自覚があったが、それが鍾離にも適用されているだなんて今日初めて気付いた。
 確かに凡人らしさの欠けていた昔の鍾離にも、モラの支払いを初めとして色々と世話を焼いていた部分があったのは否めないため、この自覚はあまりにも遅すぎた自覚なのかもしれないが。
 どちらにせよ鍾離を送り届けるというミッションは無事完遂した。つまりアヤックスがここに留まる理由はないのだが、あの表情を向けられるとどうにも弱い。
 その結果が、部屋を見回す以外にどうすれば良いのか分からないアヤックスの現状である。
 途中でコンビニに寄って夕飯は確保したから、それを食べたら帰ろうか。そんなことを考えていると、視界の端、椅子に腰掛けた鍾離がアヤックスを呼んだ。
「公子殿」
「うん?」
 壁掛け液晶ディスプレイの向かいには映画の観賞用だろう、一人で座るには余裕のあるソファが置かれていて、鍾離はそこに座っている。そちらを見たアヤックスに、鍾離はとんとん、と隣の座面を軽く叩いて示した。ここに来い、ということだろう。
 呼ばれるがままに隣に腰を下ろせば、鍾離がアヤックスに近付いた。
 どういう反応をすれば良いのかが分からず身体を硬直させると、鍾離はそっとアヤックスの背に腕を回す。ふわ、と香ったのはきっと鍾離の匂いだ。確かにその体温はアヤックスより僅かに低く、熱がないのは事実なのだと分かった。
 だとしても、どうしてアヤックスは鍾離に抱擁されているのだろうか。
「ッ……せ、先生?」
 発した声は勝手に裏返った。動揺が露わになっている。
 この状況で、アヤックスは何をすれば良いのか分からない。抱き締められる理由が分からないのに、アヤックスからも鍾離を抱き締めるのは躊躇われた。だが突き放そうにも先ほどの鍾離の表情が脳裏を過ぎってしまう。
 何も出来ないまま固まっていれば、ゆっくりと鍾離が身体を離した。
「――ああ、駄目だな」
 解放された身体はそれでも、アヤックスの思うようには動かない。顔が見える距離になった鍾離がその整ったかんばせに浮かべている表情は――焦燥に近しい。
「しょ、うりせんせ、やっぱりどこかおかしいんじゃ」
「もう少しだけ待ってくれないか」
 稀に拗ねたような声音もあったけれど、最近もっぱら柔らかく、悪戯っぽい声ばかりを聞いていたから、鍾離のこんなにも硬い声など久しぶりに聞いた。
 言葉の意味は分からない。鍾離は鍾離なりに言葉を尽くそうとしてくれるから、誰かに対して言葉を紡ぐ時点でそれは何かを伝えようとしている合図なのだ。だからわざわざ伝わらないよう遠まわしに言う時は、それに意味があるのか、時折見せる茶目っ気による悪戯心が原因である。
 しかしこの状況、鍾離の表情からも後者であるとは考えにくく、アヤックスは疑問符で埋まりそうな思考回路をどうにか回した。何かを待つこと、それを鍾離に求められている。鍾離がアヤックスを待たせているようなことなどあっただろうか。
「せん、せ?」
「まだ辿り着けてないんだ。だがもうすぐ見つかる気がするから」
「――見つ、ッおいまさか」
「まだだ、公子殿」
 思い当たる節など――ひとつしかないと、ようやく気付いた。
 かけたかった言葉を思い出したい。
 最初こそアヤックスの方から声をかけたが、今の鍾離との関係性の始まりは鍾離の行動にある。卒業と共に終わるかと思われた関係性を繋ぎ留めたのも鍾離だ。それらは全て、鍾離が「かけたかった言葉」を探すための行動である。
 疲労を滲ませながらも向けられた眼差しに、その目尻に、あるはずのない朱色を見た気がした。
「まだ何も言わないでくれ、公子殿」
「なん……なんだ、それ」
 もうすぐ見つかる気がする、と予想に近いとはいえ口にしたのだ。それはいずれ現実となることだろう。呆然としそうになる自身を叱咤し、どうにか言葉を捻り出す。
 鍾離はそういう男だ。――昔から(・・・)、その性質は変わりない。
「……何でもかんでも、大事なことを全部一人で決める癖、直した方がいいよ」
 震えてしまったアヤックスの声に、鍾離は小さく笑うだけだった。
 無理に思い出さなくても良い。それは間違いなくアヤックスの本心だ。五十年にも満たないタルタリヤの短い人生の記憶でも、アヤックスの人生に多大なる影響を及ぼしたのである。その百倍以上の時間を生きた鍾離の記憶など、タルタリヤの比でないことは明白だった。
 昔の話をすることはあれど、昔の鍾離については話さないように気をつけていたのはそのためだ。アヤックスは鍾離が思い出してしまうことを望んでいなかった。
 それなのに、この男はアヤックスの知らぬ間に思い出そうと一人、過去の記憶と戦っていたなんて。六千年を超える記憶を、ただの人の身に受け入れるだなんて最早暴挙だ。馬鹿だ。
 顔を顰めれば、鍾離は苦笑しながらもその手で窘めるようにアヤックスの頬を撫でる。
「身体の不調はそのせいってことだろ」
「ああ、その通りだ」
「そりゃ……そうなるだろ……六千年以上なんだぞ」
「ああ……すまない」
「人間の寿命の何倍だと思ってるんだよ……」
 ただでさえ膨大でありながら、楽しみや喜び以上に悲しみや苦しみが混ざっているはずの記憶だ。性質はかつてとそう変わりない鍾離が、それをアヤックスに悟らせてしまう程度には平静を保てなくなっているくらいに苦しんでいる。
 それでも、この男は思い出すことを諦めようとしていない。
 ――押し潰されてしまえたなら、この男はこの男ではないのだろう、とも思えてしまった。
 その程度で変われてしまえたなら、鍾離はあれほどまでに長く、永く、あの国を見守りはしなかったのだろうから。
 込み上げる激情を歯を食いしばることで堪え切り、アヤックスは脱力した。深く溜め息を吐いて、いつの間にか俯いていた顔を上げる。いつから始まっていたのか知らないが、この様子では前々から思い出し始めていたのを今の今まで隠していたというわけだ。
 けれど完璧に隠しきれはしなかったことに、安堵を覚えてしまったのも事実である。岩の魔神で、岩神で、凡人となった男は、今は確かに凡人そのものであるのだと。
「……今更言っても遅いのかもしれないけどさ、先生」
「なんだ……?」
「俺、昔の鍾離先生も嫌いじゃないけど、今の鍾離先生のことだって大切なんだよ」
 アヤックスがじっとりと睨みつけるような目つきをしていたからだろう、きょとんと目を丸くした鍾離は、朗らかに笑い始めた。
「良いことを聞いた。っふ、ああ、心配せずとも大丈夫だぞ」
 柔らかな声で紡がれた言葉に、どこがだ馬鹿、と口を挟みたい気持ちを抑えた。アヤックスは真っ直ぐに鍾離を見る。その声のように柔らかな笑みを湛えて男は言った。
「だが――思い出せた後も、嫌わないでくれると助かるな」
 今更嫌えるか馬鹿、とは、今度こそ抑え切れずに声になった。