世界はふたりきりじゃない

世界はふたりきりじゃない

お前の手料理も食べたかった

 

 先日モンドに行ってきた、という話を聞いて、ああこの男もついに自国から出るという意識を持つようになったのかと思ったのだが、そこからどうやら好奇心がより強まったらしい。
 モンド旅行の際にちょうど旅人がバーテンダーの体験イベントに参加していたことで、モンドで好まれているドリンクを楽しんだ、というのも理由の一つだったのかもしれない。
 見上げる先は遮るものが一つもない空。鮮やかなオレンジから、朝焼けのように薄い紫色が逃げて次第に濃くなっていく。いっそ絵巻物のような非現実的なまでの景色は、確かにタルタリヤにとっては非現実的なもので作られたものだった。
 鍾離も仙祖と呼ばれることのあるものだから、仙人たちが持っていたものを持っていないわけもなく、洞天の一つや二つは当然所持している。初めて連れてこられた時はまあそうだろうなと思ったのみだったが、その時に見た内部は全体的に璃月様式だったはずだ。
 しかし今タルタリヤの目の前に広がる景色は、まるで稲妻のそれだった。
 よくここまでやるものだ。神として君臨するなかで人間の営みなど飽きるほど見てきただろうに、今までは璃月のそればかりだったからなのか、他国の文化にはタルタリヤも驚くほどの興味と好奇心、そして行動力を見せている。
 稲妻の鎖国令こそ解除されたものの、これ幸いと乗り込む悪人たちを取り締まるためにまだ入国には厳しい審査があるらしい。鍾離の人脈ならどうにでもなるだろうし、旅人の使うワープポイントで連れて行ってもらえばいくらでも行けるだろうに、おかしなところで律儀な男はまだ正式に稲妻へ足を踏み入れたことはないそうだった。
 だから旅人が稲妻仕様にした塵歌壺を観光させてもらった、とのことだったが、それでここまで稲妻という国の景色を再現してしまうのだから、さすがのタルタリヤも舌を巻いた。
 というところで、請われた内容には笑ってしまったが。

「まさか食文化の再現のために稲妻料理を作らされるとはね」
「さすがに見ても食べてもいないものは俺にも作れないからな」
「相棒にレシピも教えてもらえば良かっただろうに」
「時間帯も昼過ぎだったから、甘味が限度だったんだ」
 ふよふよと浮かぶ小さな少女が脳裏をよぎる。身体の大きさのわりに食いしん坊だから、迂闊に食事の話などしようものなら彼女が騒がしくてそれどころではないのかもしれない。
 甘味といえば緋櫻餅や三色団子辺りだろうか。あれに緑茶も合わせれば立派な昼下がりのお茶会になる。タルタリヤが鍾離から話を持ち掛けられたのはちょっとした仕事で朝帰りをしたタイミングだったが、集合時間は最初から夕方にするつもりだったのかもしれない。
 今はその夕方から稲妻料理を仕込み、夕食として楽しみ、一晩明けて稲妻式の朝食を済ませた後の午前中である。野営も慣れているタルタリヤは、こんなものがあったら野営が嫌になりそうだなと思いながらふかふかの稲妻様式の布団で眠ったのだ。明け方までぐっすりだった。
 鮮やかな空を見上げながら、屋外に設置した椅子とテーブルで飲む緑茶は美味しい。鍾離は昨夜から緑茶を淹れる担当をしている。これだけは旅人から習ったらしい。元より璃月の茶を淹れ慣れているのが良い経験値となったらしく、確かに稲妻で飲んだ緑茶と味もそっくりだ。
「先生から予約されたのは今晩までだけど、そこまで満喫する?」
「ああ。準備した食材がなくならない限りは頼む」
「稲妻の食材なんて、鎖国してた頃は滅多に見なかったように思うけど」
「最近は市場にまた出回り始めているぞ」
 特産品のスミレウリやウミレイシのほか、調味料の類も完備してあるのだ。おかげで朝食には味噌汁とおにぎり、卵焼き、干物の網焼きといった稲妻風のものを準備できたが、ここまでやれるのなら料理人として本場の稲妻人でも招いた方が良かったのではないだろうか。
 なにしろタルタリヤは仕事の関係で稲妻に渡ったことのあるだけのスネージナヤ人だ。確かに仕事をこなしつつ、情報を集めつつ、稲妻でのファデュイとしての後処理もこなす中で稲妻の文化に触れてきたものの、それも一時的な滞在に過ぎないのだから。
 再現された稲妻の景色を眺めながら稲妻風の建物に滞在して、という条件まで重なってしまうと、鍾離が凡人ではないことを知る者ではないといけなかったのは確かだが。
 遠慮がないな、とタルタリヤは思う。元より本気で隠す気があるのかと言いたくなるほど、学者たちの集まりに招かれては意見を求められそれに素直に応えている男ではあるが、逆に言えばあれが限度なのかもしれない。つまり誰かから求められれば応えるが、鍾離が自分から誰かに求めることはない、ということだ。
 となれば、隠す理由もないタルタリヤに対して遠慮がないというのはごく自然なこととも言える。
 なにせ相手は元岩神、今でもその生態は魔神であることに変わりない男だ。三千七百年もの間、一国を統治してきた支配者が、遠慮というものを身に着ける日はまだまだ遠いのだろう。
 緑茶を啜り、ほ、と息を吐く。料理人として招かれたものの、タルタリヤには腹の容量というものが決まっている。目の前の魔神の腹の容量は知らないが、満腹状態で料理のことを考えようとは思えないものだ。
 湯呑を静かに置き、それで、とタルタリヤは鍾離を見た。
「腹ごなしに運動、っていうのは、一体何をするのかな?」
 どうせ鍾離のことだ、タルタリヤが本当に求めているものを差し出してくるわけもない。それが分かっていても呼びかけに応えたのは、単純な好奇心である。
 わざわざ稲妻様式に整えた洞天内がぐちゃぐちゃになるようなことではないのは確かだが、そうでないならタルタリヤの腹ごなしになるような運動とはどういうものか。お互い元素力を用いない組手の類でも良いが、と考えていたタルタリヤに、鍾離は問いかける。
「公子殿はモンドの風花祭に参加したことはあるか?」
「あー、春ごろにある、あの? 話は聞いたことがあるし、一回相棒に街中の飾りつけた様子を撮った写真は見せられたけど、俺自身が参加したことはないな」
「それならちょうど良いな。風花祭では海灯祭とは違い、身体を動かすミニゲームの類で遊んで得点を競うらしい。風船の的を射抜く遊びもあるぞ」
 海灯祭も送仙儀式の後だったり稲妻のあちこちを捜索していたりとろくに満喫した覚えがないが、鍾離から機関棋譚を教えられ、その流れでボコボコにされた記憶ならある。
 昔、手慰みだと雄鶏にボードゲームで同じようにボコボコにされたのを思い出して懐かしくなったが、身体を動かすミニゲームならまた違った楽しみ方が出来そうだ。
 しかもタルタリヤが最も苦手とするからこそ普段使いしている弓を用いたゲームを例に挙げられてしまえば、挑戦しない理由は一つもない。
「いいけど、先生は弓も達者なの?」
「人並み程度には使える。それに、ゲームはそれだけではないからな」
 そう言う鍾離の瞳は勝負事だというのに珍しく楽しげで、タルタリヤの意欲がぐんと上がる。こと勝負事において鍾離に手を抜かれたことはないが、間違いなく退屈はしないだろう。
「面白そうだ。勝った方に景品でも用意する?」
「そうだな……ならば、俺が勝ったら公子殿の明日も貰おうか」
「どれだけ食い意地が張ってるんだアンタは」
 思わず入れてしまった突っ込みに、鍾離は酷く楽し気に笑った。

 昨夜は夜の時間を確保するために仕事を詰め込んだ上で早めに上がったため、がっつり食べたいタルタリヤの欲求のままに作ったトンカツをメインに、ワカメと油揚げ、豆腐の味噌汁。もちろん主食は白米だった。
 その時は興が乗って少し多くトンカツを揚げすぎてしまったからと、少しだけそれを残してあった。盛り付けの途中で、稲妻の屋台で食べたものを思い出したからでもある。
 様々なミニゲームで身体を動かした後だ、こうした少しジャンクな食べ方も悪くないだろう。璃月にもモラミートがあるから問題ないはずだ。
 そういうわけで昼食にタルタリヤが準備したのは、昨夜のトンカツを使ったカツサンドである。稲妻では珍しいパンを使った料理だが、稲妻食が他国に流れ始めているように、他国の食事もまた稲妻に流れ始めているということの表れだろう。
 極論、人間は美味いものに弱いのだ。味の好みは経験によって形成されるから異国の料理を美味しく感じられる味覚かどうかは人によるが、そうした文化的交流が行われることは決して悪いことではないだろう。人間も世界も変化から逃れられはしないのだから。
 だからまあ、パンに挟んで食べるものではあるが、事実他国の文化が流入する玄関口である離島とはいえ稲妻でも売られていたし、こういう他文化の融合によって生まれる新たなもの、というのを、きっとこの男も嫌いではなかろう、と思って作ったのだけれど。
 それにモラミートを齧れるのだから、カツサンドくらい齧れるだろう、という雑な判断でもあった。どの国でも何かをしながら食べられるような食事の需要があるのだ。
「……いやー、でもこれはちょっと大きすぎたかな?」
「稲妻ではどうだったんだ?」
「俺が行った時はその屋台の主が女性だったっていうのもあっただろうし、さすがに売り物だからね、食べやすそうな大きさにカットしてあったよ」
 これならむしろ一切れを一口でいけそうだな、あまり小さいとトンカツの肉らしさが薄れてしまうな、と齧りながら思っていたから、今回は少し大きくするつもりだったのは事実である。
 だがさすがに大きすぎた。成人男性であり戦士として身体を鍛えているタルタリヤの掌で、両手で持った方が良いだろうなという大きさと重さである。
 せっかくだからとまた屋外の椅子とテーブルで食べようと持ってきたものの、これはさすがに半分に切るべきかもしれない。タルタリヤはかぶりつけるが、鍾離は食べにくいだろう。モラミートも齧る食べ物だが、あれもここまでの厚みではないのだし。
 包丁持ってくるよ、と声をかけようとしたタルタリヤの横で、なぜか鍾離はいそいそと手袋を外していた。丁寧に重ねられた手袋をただ眺めてしまう。
「えっ、齧るの」
「そういう食べ物なんだろう?」
「さすがの先生でも顎に来ない?」
「そこまで俺の口は小さくないが」
 あ、と。開けられた口の大きさは初めて見るかもしれなかった。普段から箸で綺麗に食べ、小さな茶碗で茶を飲むさまを見慣れすぎていたせいもあるだろう。
 大きく開いた口から覗く白い歯がパン生地に突き立てられ、さくりという音を立てたかと思えば、そのまま挟んだキャベツやソース類とトンカツまで見事に噛み切られ口に収まる。
 もぐ、と咀嚼する口元は、大きかったはずのカツサンドを収めているとは思えなかった。カツサンドに視線を落としていた鍾離の目が不意に持ち上げられ、タルタリヤに向けられる。
 その眼差しが僅かに弧を描いているように見えて、タルタリヤは咄嗟に視線を外した。咀嚼しているはずの鍾離がふ、と笑った気配がする。
 調理していた流れで手袋を外したままだったタルタリヤも、自分の皿の上のカツサンドを手に取った。口を開けてお手製のカツサンドにかぶりつく。
「公子殿の口は控えめだな」
「むぐ……」
 面白がるような鍾離は一口目をもう飲み込んだらしかった。カツサンドに残る歯形に目をやる。確かに鍾離の一口とタルタリヤの一口では、鍾離の方が大きいようだ。
「凡人被り魔神だもんな……」
「なんだそれは」
 人並みらしい弓を使った百発百中ではタルタリヤが勝利を収めたが、その他は僅かな差のものもあれどほとんどが鍾離の方が勝っている。興が乗って勝者の景品について言及してしまったのはタルタリヤだったが、この男が勝てない勝負に乗るわけがないのだ。
 一度緑茶で口を洗い流し、タルタリヤは肩を竦める。
「先に決めた通り俺の明日も先生のものだけど、丸呑みはしないでくれよ」
 っははは、と笑った男の口は、確かにタルタリヤよりも大きく見えた。