polyhedra

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1.

 鍾離先生は知ってるかい、とタルタリヤが取り出したのは一冊の本だった。緑色の表紙に書かれている『蒲公英の海の狐』というのがタイトルらしい。
 既に食事は終わり、酒と会話ばかりを楽しむ酒宴となっていたため、それは新たな話題の種には最適なものだった。少なくとも璃月で出版された本ではないのだろう。知らないと答えれば、今度は「じゃあ読んでみる?」とそのまま本を差し出され、鍾離はされるがままに受け取った。
 どうやらモンドで出版された本のようだ。著者の名前には聞き覚えがない。学術書の類ならまだしも、文学は国によって好まれる方向性が異なる。なかなか国を跨いで輸入される文学は少ないから、これもその一つということだろう。
「これは公子殿が入手したのか?」
「旅人からプレゼントってことで貰ったんだ。まあ、既に持っていたのにうっかりもう一冊買っちゃったから、らしいんだけど」
 最新巻だったため、ついでに旅人にモラを渡して一巻から最新巻の一つ前まで買ってきてもらったらしい。モンド城にまで立ち入ることは避けたのは、さすがにファデュイの執行官だからという立場を気にしてのことだと言う。納得の一言だが、頼んでまで揃えるというのは随分熱心である。
 旅人にはそのぶん食事を奢ったそうだ。旅人の傍を飛び回る小さな少女は身体のわりによく食べるから、一巻からそこまで揃えたとしても、まず間違いなく本の代金より食事代の方が高かったことだろう。律儀な男だった。
 貸し借りはどちらかといえば貸しに偏らせておきたいだけかもしれないが、そんな政治的な考えで以って行動することは、タルタリヤに限って言えばほとんどない。相手が彼らともなればなおさらだった。身近な相手には妙に甘く、隙のある男だから。
 渡された本はどうやら一巻らしい。ぱらりとめくる。そうした旅人との交流を聞かせられている鍾離も、どちらかといえばこの男の隙を見ている方に属するだろう。盛大に騙されたことを忘れたわけでもあるまいに。
「あと俺が本を読むって話をした流れで『フィッシュル皇女物語』っていう本も熱く語られたな」
「フィッシュルという名前には聞き覚えがあるな。旅人の友人の、モンドの冒険者だろう」
「ああ、ちょうどその張本人に語られたんだけど、彼女の名前はその本の影響を受けて自分で付けたものらしいよ。しかもそっちは……ええと、しん、『神霄折戟録』か、それと同じ作者なんだそうだ」
 本の登場人物の名前から取ってるなんてシンパシーを感じるね、と笑うタルタリヤは、自分もコードネームで活動しているからだろうか。
 鍾離も『神霄折戟録』なら知っている。六巻まで読了しているが、なるほどつまり『フィッシュル皇女物語』はあの作者の次回作か。旅人の探索を共にしたこともあるが、あの冒険者の少女が口にする「断罪の皇女」というフレーズは聞き覚えがあったのはその影響だろう。
 しかしそうなると、彼女が名乗る名は自分で後から付けたものということになる。鍾離は疑問を口にした。
「冒険者にも筆名のような制度はあっただろうか」
「特別そういうものもないけど、どんな名前で活動するかっていう制約もないから、本名じゃない名前で活動する冒険者も探せば居るかもしれないね」
 冒険者協会の本部はスネージナヤにある。タルタリヤに冒険者の制度への理解があることも不思議ではなかった。そうか、と頷き、鍾離はタルタリヤに目を向ける。
「これは公子殿がわざわざ買ったものだろう、俺が借りて良いのか?」
「俺はもう読み終わってるからね。とりあえず……まあそうだな、先生に貸すってことで良いよ」
 妙な物言いである。怪訝な顔をすれば、上達した箸でつまみを口に放り込んだタルタリヤは少しばかり考えるように視線を斜めへと投げた。もぐもぐと咀嚼し、ごくんと飲み下す。ちろりと赤い舌が悪戯っぽく唇を舐めていった。
 思わせぶりな行動を取ることもあるが、少なくとも送仙儀式が終わって以降のタルタリヤは鍾離の前ではかなり素直だ。特段隠さなければならない事情もないためだろう。深い青の視線が鍾離へと戻る。
「仕事柄、俺は私物をあまり多く持てなくてね。あの子たちには言わないけど、自分の物は増やしすぎない主義なんだ」
「置場の問題か」
「まさか銀行内にそんな趣味の本棚を作るわけにもいかないし、実家に送るのも手なんだけどね」
 手の内の本へと視線を落とした。つまり行き場に困っている、ということだ。明らかに旅人の手前、全巻セットで揃えてしまったせいもあると思うが、若さのわりにあちこちへ行ったことのあるような口ぶりをしている以上、あまり長く留まれない生活をしているのは確かなのだろう。
 ひたむきに何かに向き合う者たちにとって、雑事は少なければ少ないほど憂いも減る。タルタリヤの領域には、そうした物語のひとシリーズさえ立ち入る余地がないというのだろうか。
 戦いに魅せられたこの男は何かと興味を示し、それなりに知識を吸い上げては楽しんでいる様子だったが、やはりそういった者たちと同様の性質を持っているようだ。
 軽く頬杖をついて杯を揺らしたタルタリヤは、落ち着いた様子で微笑む。
「時間の感覚がまだ凡人に追いつかない先生がそれを読み切るのにどれくらいかかるか知らないからね、そのくらい緩い方が都合も良いだろう」
「本の一冊や二冊ならそこまではかからないが、置場か」
「骨董に埋もれさせて掘り起こすのに苦労する、なんてことはやめてくれよ?」
「――仕舞っておくのに都合の良い場所ならあるぞ」
 ぱちぱちと瞬きをしたタルタリヤは、そうなんだ、と僅かに首を傾げた。鍾離の語気が珍しく強まったことを面白がっているような素振りだ。
 宴席の会話から始まり、鍾離は様々な言葉をタルタリヤと交わしてきた。多くは鍾離が璃月を語る言葉が占めていたが、タルタリヤから話を聞くこともあった。食事文化の違い、祖国での舞台劇等、ファデュイの仕事に関わらない事柄が主だ。
 武器を握って戦場を駆け、既に武芸百般として大陸に名前を轟かせるに至っている若い男は、その見目と演技力で劇の舞台に上がったこともあるらしい。
 元より寒さが厳しい冬の国では天候の関係で外を駆け回れない時間もあるため、タルタリヤ自身も幼い頃は冒険譚を聞かせられて育ったという。
 璃月に災いを齎そうとした悪党に違いないものの、その心は美しい景色を愛で、見慣れない文化に興味を持ち、ものによっては習得までしようと努力する男でもある。間違えて買ったからといって、旅人がそれを楽しめない相手に渡すわけもないのだ。
 鍾離は本を机に置き、酒が残っている杯を呷った。察したタルタリヤがまた新たに酒を注いでくれる。その手から腕へ、肩へ、そして顔へ。視線を滑らせ、目を合わせた。少なからずこの武人を気に入っているから、こうして何度も酒宴を共にしているのだ。
「公子殿は劇の原作でなくとも、文学に興味はあるのだろう」
「面白いと思えば読むけど、それがどうかした?」
「置場がないことを理由にして、読むのを諦めたことは?」
 タルタリヤは目を眇める。素直な反応を隠さなくなった男は、こうして露骨に鍾離を警戒するようになった。あの騒動以降はなおさらだ。そんなことをされたところで鍾離は自分の行動を変えるつもりもないどころか、元気なようで何よりだと思うばかりなのだが。
「一般人も自由に出入りできる図書館でもあれば違うだろうけど、そんなところは滅多にないし、ましてや俺の身分じゃ難しいからね」
「読めるのなら読みたい、ということだな」
 机の上で指を組んだタルタリヤは鍾離の顔を真っ直ぐに見ている。何が意図があるのではないか、と探られているのがありありと分かって、思わず口角が上がってしまった。なんでもよく吸収し学習する男だが、やはり素直過ぎるきらいがある。
「まるで俺のために置場を作ってくれるみたいな物言いだね」
「それも吝かではないという話なんだが」
「往生堂の部屋にはないでしょ」
「俺には洞天がある」
「そっちも骨董だらけになってないだろうな……?」
 というかそっちにあの骨董仕舞ってあげなよ、とタルタリヤは呆れたように言う。あれらは鍾離として往生堂の客卿となってから集めたものが大半だから、洞天に仕舞うと「どこへやったのか」と疑われるため、あの部屋に置いておいているだけである。
 はあ、と息を吐いたタルタリヤは椅子に凭れた。
「大体それを駆使するって、凡人になる気ある?」
「旅人が塵歌壺を持つように、使うだけならば仙も人も関係のないものだ」
「……仙人と凡人が上手いこと交流してたら、もしかすれば手に入るかもしれないもの、っていう括りなのかな。相棒みたいに」
 塵歌壺を作れる仙人は、絶雲の間に赴かずともすぐ傍に居る。その機会は決してゼロとは言い切れないだろう。
 それに洞天もある程度は手入れをしてやらないと、段々と荒廃していく。書庫目的で使い始めれば出入りは増えるから、手入れをする機会も自然と増えるはずだ。
 酒で唇を潤した男はまた舌でちろりと舐めとって、煽るように鍾離に笑んだ。
「じゃあその仙人のものを、俺にちょっとでも使わせてくれるってこと?」
「本棚と本……と、そうだな、読書のための場所を貸すだけだ。出入り以上の権限は渡さないぞ」
「直接出入りまでさせてくれるなんて大盤振る舞いだね」
 璃月に来てからというもの、璃月の文化をこれでもかと吸収した男は、それで、と首を傾げる。ちり、とその耳から下がるピアスが揺れた。
「先生は代価に何を求める?」
「公子殿が行く先々で買える範囲の――お前の興味を引く本を」
「全部とは言わないんだ」
「読むならば面白いものの方が楽しめるだろう。俺は場所と現在の蔵書を好きに読む権利を提供する代わりに、主に璃月以外で出回っている本を読ませてもらうというだけだ」
「なるほど、つまり先生の洞天は図書館で、俺はさながら買い付けで漫遊する商人か」
 ならばその洞天の管理者たる鍾離は図書館司書か。目録など作らずとも鍾離は全て記憶しているから、確かにこれ以上なく向いているかもしれない。くすくすと笑う男は椅子に座り直して鍾離を見た。深い青の瞳には好奇心が詰まっている。
「いいよ、面白そうだ。俺としても面白そうな本に躊躇いなく手を伸ばせるなら、移動中に退屈する時間も少なくて済む」
「通行証は次回までに準備しておこう。その時に使い方は説明する」
「了解」
 その間に洞天の模様替えもしておくべきか。なにせ倉庫扱いをし始めて長いから、あまり人間が立ち入ることを想定している作りではない。
 何をどのように配置するか、新たに調達するものは、その性質上壺から出入りする形では不便だろう通行証をどうするか――考え始めた鍾離に、タルタリヤが呆れたように肩を竦めて言った。
「楽しそうだね、先生」
「そうか?」
「璃月の蘊蓄を披露してる時みたいな顔だよ」
 確かめるように顔を触ってみたが、手では自分がどのような顔をしているかよく分からなかった。

//

 璃月港にある鍾離の家の寝室、その窓辺に置いた一脚の椅子と円卓。
 そこに、すとん、と収まっていた。
 まだ日が高い時間だが、今日の残りの仕事は夕方にとある職人と会うくらいだ。堂主からも特に頼みたい仕事はないと言われていたこともあり、持ち帰ることにした荷物のため鍾離が一旦家に戻ったのも道理だったろう。
 タルタリヤは窓際、日差しを背に椅子に腰を下ろしていた。璃月様式の景色に執行官の制服は決して馴染まないように思われたが、緩く足を組んで本を読む姿は予想に反して収まりが良い。ぺら、と紙をめくる音だけが聞こえる。
 鍾離に気付いていないわけではないだろうに、手元の本に注がれた視線は一向に持ち上げられる気配がない。鍾離の洞天内にも寛げるような配置をした部屋は作ってあるのだが、どうにもこちらの方がお気に入りらしい。
 こうしてタルタリヤに家へ入られるのは今に始まったことではなかった。鍵も渡していない鍾離の家に勝手に侵入しているのは、鍵開けを駆使して入り込んでいるわけでもなく、元はと言えば鍾離の影響なのだから咎めもしにくい。
 基本的に鍾離はこの家から洞天に出入りしていたのだが、タルタリヤに渡す通行証を作ってから渡すまでの間にもそれを持ったまま洞天内の整理のために出入りしていたためか、タルタリヤの通行証には余計な機能がついてしまったのだ。
 タルタリヤとの契約の都合上、壺から入る形式では都合が悪かったために、通行証は鍵の形にした。鍵穴のある扉にそれを差して回し、扉を開ければ洞天に繋がるという使い方だ。
 そしてタルタリヤ曰く、洞天内でその鍵を使って屋敷の玄関から出ると鍾離の家に出たのだと言う。意図せず通行証は鍾離の洞天だけでなく鍾離の家にまで紐づいてしまったらしい。
 彼の自己申告で発覚したその機能は以来、タルタリヤが鍾離の家に度々こうして勝手に出入りするのに使われている。
「……」
 微かな息の音と紙の音。この部屋を支配する音はそれだけだ。
 今のようにタルタリヤは窓辺の席で本を読む以外のことをしていないため、咎める理由は特になかった。なにせ窓辺の席を占領されているほかには何一つ変化がない。帰る時はここからまた洞天に入り、玄関以外の扉から元居た場所に出ているとも聞いていた。
 構わず読書を続けているタルタリヤの様子をそのまま眺める。あれほど快活に笑う好青年然とした男が、戦場で水の刃を振るって恍惚に笑む男が、その表情を削ぎ落として一心に紙面へ集中を注いでいる。そこにあるのは静寂だ。鍾離は目を細めた。
 明かりのついていない室内は、窓から差し込む日差しだけが眩く映る。どうやらその日差しまで含めて窓辺をいたく気に入ったらしく、タルタリヤが訪れているのは決まって昼間、太陽が出ている時に限定されているようだ。鍾離も毎日のように昼にここに居るわけではないが、少なくともそれ以外で見かけたことはない。
 さながら微睡む猫のようだが、その瞳は紙面から外されない。手袋をしたままでは不便なのか、素手の指先がページをめくる。
 跳ねる金茶の髪は陽光を浴びて輝くが、柔らかな毛先はほとんど揺れ動かない。呼吸による僅かな身体の動き、淡々とページをめくる指先、そして文字を追う目。普段のよく笑うこの男を知る者は、これほどまでに静かな様子を見たことがないだろう。
 日の光で左耳のピアスがきらりと光る。仮面は手袋と共に外され、円卓に置かれていた。はつりと長い睫毛に縁どられた瞼が瞬きをする。蒼い瞳は紙面のインクに溺れていた。鍾離に気付いていないはずはないのだ。けれど今のタルタリヤは、鍾離に意識を割かない。鍾離が害さないと知っている。鍾離が許していることを分かっている。
 だからこうして鍾離に鑑賞されることを許している。
「……」
 タルタリヤは立場上、他人の視線に敏感だ。出先で向けられる親しくもない者たちの無粋な視線には気付きながらも無視するし、鍾離が目を向ければわざわざこちらを向いてにっこりと笑顔を作ってくる。時間があれば近づいて来て「やあ」と片手を挙げ、「どうかした?」と問いかけてくるのだ。
 そうして反応を返されることを悪いとは言わないが、見られているとはっきり意識してそう振る舞う姿は既に見慣れた。だからこうして何の意図も感情も纏わない彼を眺めていたい、と思うようになったのかもしれない。
 その見目で視線を集める好青年でも、劇の舞台上で演じる役者でも、世界中から睨まれるファデュイという悪党でも、執行官という尊敬と嫉妬を向けられる上官でもなく、ここに居るのはただの読書好きの男なのだ。
 肌色の指先がページをめくると、どうやら次の章らしい。そこでぐっと目を瞑ったタルタリヤは、ほ、と息を吐いてようやく鍾離の方を向いた。
「穴でも開けるつもり?」
「こんな時でもないと出来ないだろう」
「見世物じゃないんだけど……まあ、おかえり」
「……ただいま」
 美味しそうな匂いするね、と本を閉じて隣の卓に置いたタルタリヤは立ち上がり、見慣れた微笑みで鍾離に近寄った。
 時間としてもちょうど良い。タルタリヤと共に居間へと移り、食事の際に使う広い卓に持って帰ってきたものを広げ始めた。タルタリヤは「ああ」と今ようやく思い出したと言わんばかりに呟く。
「そうか、もう昼だね」
「俺が帰ってきた頃には既に、だったが。随分と集中していたな」
「先生には気付いてたんだけど、キリが良いところまで読みたかったから」
 私物を増やしたくないからなのか、タルタリヤは読書をするが栞を持たない。本人曰く大体どの辺りまで読んだか覚えているかキリの良いところまで読んでから読書を辞めるから困らない、だそうだが、そろそろ栞の一つくらい渡しても良いだろうと鍾離は考え始めている。
 なにより、タルタリヤが最近――先ほどのものもだが――読んでいるのは、鍾離の洞天内にある書庫から貸し出している本なのだから。
「先ほど読んでいたのは匣中琉璃雲間月の一冊だったな」
「ああ。一応読んだことはあったんだけど、どうやら先生が持っていたのは古い版だったようだから、何かないかと思ってね」
「収穫はあったか?」
「今のところは、俺が前に読んだ物の方が中身が読みやすくなってたくらいかな」
 趣味の読書というより、悪巧みをするファデュイとしての思考での選出だったらしい。渦の魔神の一件も、こういう地道な情報収集の下で練られた計画だったのだろう。
 匣中琉璃雲間月――スメールの学者による民族百科事典シリーズの、璃月に主眼を置いた書籍だ。内容が難解だと世間での評価はあまり良くないが、それでもタルタリヤは読んでいたらしい。決して執行官も暇ではないだろうに、仕事に対しては真面目な男だ。
「俺が持っているのは古い版のものだから、一部の情報も少し甘いだろう」
「え。……もしかして情報提供でもした?」
「なに、少々助言した程度だ」
「先生って色んな本の奥付に共著だの時代考証だの校正だのって形で名前を載せられてそうだね……」
「それらに関してはよほど熱心に求められない限り断っている。まあいくつかは間違いなくあるが、それも数は少ないだろう」
 多くは鍾離の助言や提案、意見を聞いたことをきっかけに新たな知見を得た研究者たちが、自らの努力で書き上げたものだ。わざわざ名前を載せられるほどのことはしていない。箸を持ったタルタリヤが卓の上を見て、呆れたように小さく笑った。
「今日は新月軒だったんだ。商人からのお誘い……なら、持って帰ってはこないよね」
「学者たちの会合だ」
「なるほど。相変わらず人気なようだ」
 持って帰ってきたのは魚肉の焼き麺と明月の玉子、それから杏仁豆腐だ。なにせ食事もそこそこに議論が盛り上がった結果、学者たちが次々と店を出て行ってしまったのである。どうやら有意義な意見に意欲が刺激されたらしかった。
 金払いの良いパトロンを持つ者たちばかりだからこそだろうが、最後まで食事くらいは楽しんでいけば良かっただろうに、と思う。けれど彼らの意欲の邪魔をしたくもない。残された鍾離は店員に頼んで、持ち帰れそうなもののみ包んでもらったのだ。
「これ、俺が食べていいの?」
「俺は店でも食べたからな」
「そう。せっかくだし食べるけど、学者の集まりってことは先生は一モラも払ってないのか」
「出資者たちが次々と店を出て行ってしまったものでな」
「ちゃっかりしてるよなぁ」
 散々食事代を支払ってきた男は笑う。おそらく誰よりも鍾離に使ったモラが多額だろうタルタリヤは、どれから食べようかと卓に広げた料理に目を滑らせた。箸を持つ指先は相変わらず素手のままだ。
 酒宴をするまでの関係性で留まっていた頃は、素手の状態など一度も見たことがなかった。それが今や当然のように手袋を外し、仮面も外して離れた場所に置いたままでいる姿にも慣れ始めている。
 魚肉の焼き麺を小皿に移して口に運んだタルタリヤは、満足げに目を細めた。さすがに冷めてしまっているが、それでも新月軒の味は健在である。
「俺もご相伴に預かってる時点で言えることではないけど、せっかくの新月軒なんだから料理も食べていけばいいのにね」
「始めのうちは手元の手帳に書き記す程度で済んでいたんだが、途中から耐えきれなくなったようだぞ」
「っはは、学者様も行動力があるのは良いことなんだろうけど。話を聞くだけでそれなんだから、先生の持つ本なんて学者たちにとっては垂涎の的だろうねえ」
 国営図書館にでもしたらこぞって通いそうだ、と笑うタルタリヤ以外、鍾離が芸術品や骨董の類以外に書籍まで収集していることは知らない。それも洞天に大半を収納しているから、往生堂の鍾離の部屋を知っている往生堂の職員たちすら知らないのだ。
 紙はかなりの間残るものだが、焼けてしまえば灰となり、濡れて墨が滲めば文字は読めなくなる。虫に喰われても駄目になるのだから、岩よりずっとずっと脆いものだ。
「今はもう失われたものも多いが、だからこそ他の事情を抜きにしても迂闊に人を招くわけにはいかない。難しいだろうな」
「そういえばかなり傷んでるものもあったし、仕方ないけど残念そうだ」
 箸で摘まんだ明月の玉子を口に放り込んで咀嚼するタルタリヤは、本から離れ少し時間が経った今、鍾離を前にしていても少しばかりぼんやりとしている。これもここ最近になって見慣れてきた姿だ。
「ああ、でも先生も歩く図書館みたいなものだし、そんなに困らないか」
「……俺に虫干しの必要はないが?」
「ハハハ! 先生は自分で日向ぼっこしてるからね」
「冗談だぞ」
「ちゃんと分かってるよ」
 柔らかく笑う男は、ゆらりと視線を迷わせる。明月の玉子か、魚肉の焼き麺か。まるで幼子のような仕草だった。
 以前のタルタリヤであれば、隙は隙でもこんなにも隙だらけな様子を鍾離に見せることはなかっただろう。あるいは誰に対しても、あからさまに思考が逸れていることを悟らせるような真似はしなかったはずだ。
 その変化の良し悪しは、鍾離にとってはあまり重要ではない。咎める理由もなければ、指摘してやらねばならない立場でもない。小さく笑い、椅子から立ち上がる。
「茶を淹れよう」
「ん、お構いなく」
「どうせ夕方まで読んでいくだろう。ゆっくりしていけば良い」
「……どうも」
 鍾離から視線を外すように僅かに伏せられた瞼は、縁どる睫毛をより際立たせていた。