任せてくれハニー

任せてくれハニー

 ああ、そういえば誕生日だった。さすがにもう表から入れず、先んじて細工をしておいた窓から宿に入ったタルタリヤは、寝間着に着替えふと時計を見上げたところでそれに気付いた。
 時刻は零時過ぎ、既に誕生日だったその日は過ぎ去っている。
 まだファデュイの下っ端だった頃はまだしも、執行官入りしてからというもの、誕生日は通り過ぎてから思い出す年の方が多くなっていた。
 家族には祝う手紙が届いてからその返礼として手紙を書くことに決めているから、先に準備するようなことがない。旅人には去年と同じくタルタリヤの誕生日に届くように手紙を出したものの、どこに居るか分からない彼らの手元に届くまでの時間を考慮して早めに書いたから、誕生日当日だった昨日にやるようなことは何一つとしてなかったのだ。
 更に鍾離にも、旅人と同様に当日に手紙が届くように先に出しておいた。本当は鍾離から洞天の通行証をもらっているから、顔を合わせるだけであれば難しくないのだが、実際タルタリヤはつい先ほどまで仕事で外に居たわけで、先にあの手紙を出しておいて正解だっただろう。
 大切に想っているのは間違いないけれど、時間は後日きちんと取るというのも約束してある。それでも手紙を出したのは、旅人には当日に手紙が届くようにしてあるのに、鍾離に何もないのは少し不公平かな、と思ったからだ。
「んー……」
 あとはもう寝るだけだし、明日も夜明け頃から動き出す予定だからさっさと床に就くべきだというのも分かっている。過ぎ去ってしまった以上、もうタルタリヤの誕生日ではないのだ。約束はしてあるわけで、無理に顔を見に行く必要はないし、鍾離は寝ているかもしれない。
 それでも、タルタリヤはどこかでもどかしさを感じていた。きっと去年は顔を合わせて、共に食事をしていた頃だったから、それが今年はまだないのを寂しく思っている。
 誕生日を任地で迎えるなど珍しくなく、当日に祝われることなんてほとんどなくなっていたというのに、たった一回で随分と慣らされてしまったらしい。
 は、と息を吐いて、頭を振った。無意識に取り出していた通行証を握り締める。
 会える会えないではない。ただこの寂しさを埋めたいだけだ。
「よし」
 もう慣れきってしまった鍾離の洞天に入り込んだ。璃月様式の屋敷が眼前に広がっている。真夜中だからか、屋敷の明かりは――ほとんど点いてない。
 おや、と思わず目を瞬かせた。完全に点いていないわけではなく、点いている部屋がある。もう空は満天の星が彩られている時間だ。本来であれば真っ暗になっているはずだった。
 消し忘れという線も否定しきれないから、期待しすぎるのは良くない。なにせそれなりの時間を取れる余裕というのはもう数日先を予定していて、ここで期待を裏切られようものなら今以上に寂しさを抱えたい状態で過ごさなければならなくなる。
「……よし!」
 意気込んでそろりと踏み出した足はほとんど音を立てなかった。扉の鍵は開いている。上質な素材揃いの屋敷の蝶番は優秀で、こちらも鳴き声を上げることはなかった。
 暗いエントランスを通り、明かりが見えた部屋の扉の前に立つ。ここがどんな部屋なのか、この洞天に慣れているタルタリヤは知っていた。
「――……」
 鍾離の部屋だ。屋敷全体が鍾離の所有物ではあるのだが、もっと具体的に言うと、共寝の際に二人で使う部屋だった。明かりを見た時点でそんな気はしていたが、本当にそうか半信半疑だったところに正解を叩きつけられた気分だ。
 居る。この扉の向こうに、鍾離が。
 こんなことなら寝間着に着替えるんじゃなかった。宿に戻る言い訳が更に減ってしまう。頭でそう考えながら、扉に伸ばした手は止まらなかった。
 開けた先、見慣れた寝台の縁に座った状態で、鍾離がこちらを見ている。
「忙しいんじゃなかったか?」
「ついさっきまで仕事で、また夜明けから予定があるくらいには忙しいよ」
 タルタリヤが洞天に入ってきたことには気付いていたのだろう。当然のように迎えられたことには驚かなかった。寝間着姿の鍾離は髪留めをしておらず、目元の臉譜もない。
 向けられた心配に憎まれ口を返してしまうのは、あの面倒な同僚連中に毒されてしまったからだろうか。可愛くない言葉にも微笑む鍾離は微塵も気にしていなさそうだけれど。
 普段の隙の無い格好とは正反対のゆるりとした姿では、当然ながら手袋もない。槍を握ることもある白い手には手紙が握られていた。それをナイトテーブルに置いた鍾離は、嬉しそうな顔のまま軽く両手を広げる。耳障りの良い低音が耳朶を擽った。
「公子殿」
 会えそうにない、と言い出したのはタルタリヤの方だった。だから妙な意地の張り方をしてしまっていたのだろう。おずおずと足を踏み出す。飛び込みたい気持ちを抑えて、そっと腕の中に収まった。鍾離の背中に腕を回せば、鍾離もタルタリヤを抱き締める。
 しっかりとした抱擁に、張っていた意地が溶かされていく。背中を擦る手は易しく、身体から力までもが抜けていくような心地だった。
「誕生日おめでとう」
「……ありがとう」
 鍾離は祝ってくれる。タルタリヤが生まれた日を。去年も贈り物を貰って、ご馳走を食べて、良い酒を飲んだ。楽しくて嬉しい、とても素晴らしい日だったことを覚えている。
 だが去年はタルタリヤが誕生日を伝えるのが遅く、鍾離が少し準備に納得が行かないところがあったと零していたことも覚えていた。
 彼はきっと――今年もタルタリヤを祝ってくれる。聞くまでもなくそういう確信があって、だからこそタルタリヤは「会えそうにない」と言ったのだ。
 そんな風にタルタリヤの誕生日を大切に想ってくれる鍾離の気持ちを、しっかりと、何の憂いも邪魔もない状態で、しっかりと受け取りたかったから。
「用意したものはこちらに置いていないから、しっかりと祝うのは後日になってしまうが」
「構わないよ。あと三日もすれば時間を取れるようになるから、もう少し待ってくれ」
「分かった」
 それなのにこんなことになっている自分の情けなさに溜め息を吐き、ぐりぐりと鍾離の肩口に頭を押し付けた。無意識に通行証を握り締めていた時点でタルタリヤの負けだ。
 宥めるように後頭部を撫でられ、タルタリヤは顔を上げる。微笑む鍾離の眼差しは柔らかい。
「疲れている、というより、落ち込んでいる、か」
「……本当はこんな中途半端なことをするつもりじゃなかったからね」
「中途半端と思うのか。ふむ……」
「先生のことじゃなくて、俺の行動が、だよ」
「それは分かっている。だが、俺はこうして会えて直接祝うことが出来て嬉しく思うぞ」
 目を合わせたままのストレートな物言いに、嬉しくもあるが恥ずかしさも同時に湧き上がった。こういうことを恥ずかしげもなく口に出来るところが鍾離の美点とも言えるが、今の情けなさを感じている状態のタルタリヤにはその素直さがぐさぐさと突き刺さる。
 やはり意地なんて張るものではない。込み上げる羞恥を抑え込んで、タルタリヤは呟いた。
「ありがとう。……俺も、鍾離先生に祝ってもらえて嬉しいよ」
 冷静に反応を見るのが耐えられず、ちゅ、と傍にある唇を吸って額同士を合わせる。鍾離はやはり嬉しそうな顔をしていた。児戯のような口付けでも喜んでもらえたらしい。
 離れた地に居ることと、互いの仕事の関係で、色々なものが久しぶりだ。しかし明日も早いため、残念なことにこの空気に流されてしまうわけにはいかなかった。
 見つめ合ったまま吐息が混ざる。先に動いたのは、苦笑を零した鍾離の方だった。
「明日も早いんだろう?」
「俺としては今ここでめちゃくちゃに抱かれたいよ」
「抱いて後悔されたくないんだが。あと数日の辛抱だ」
「そうなんだよ……あと三日どうにかしたら、大体のことが終わるんだ……」
 あれこれと指示を出したり走り回ったりしていればあっという間だ。けれどそれさえ耐えがたかったから、タルタリヤはここに居る。
 どうせタルタリヤはここで鍾離を襲わないし、鍾離もタルタリヤを抱こうとはしないだろう。互いに分別はついていた。仕事という責任に対価が支払われている以上、投げ出しはしない。
 それでも、どうしたって欲深になった己を自覚せざるを得ないし、頭が馬鹿になったなあとも思うのだ。恋とか愛とかそういうものに振り回されて、寂しがって、嬉しくなっている。自分自身も、目の前の男も。どちらも同じ馬鹿ならまあ、お似合いなのかもしれないが。
「俺としても待ち遠しいんだ。きちんと三日で片付けてくれ」
 先ほどのお返しのように触れるだけのキスをした鍾離は、柔らかな眼差しの奥に、確かに熱を閉じ込めたままそう言った。寿命の果てさえ分からず、時間の感覚もまだ凡人に追いつききれない男が、たった三日を待ち遠しいなどと言う。酔い覚ましの茶を淹れるのに六時間もかけようとしていた男が、だ。あは、とタルタリヤは笑みを零した。鍾離の両頬を手で包む。
「どんな風に祝ってくれるか、期待しておくとしようか」
「ああ、楽しみにしていてくれ」
 だからそれまでお預けだ、と今度は鼻先にキスをしてきた鍾離に、思わずけらけらと笑った。
「じゃあその時こそ情熱的に愛してくれよ、ダーリン!」

 


2022.7.20